• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

猛走峠のブログ一覧

2009年10月18日 イイね!

身体的・機械論的苦痛の、走りに対する一般性について

身体的・機械論的苦痛の、走りに対する一般性についていま、福岡に来ている。正確には、木曜の夜から来ている。
勿論、いつもの車で来ている。
本来は、「走りのトレーニングのためだけに」来たいところなのだけれど、
残念ながら、誠に残念ながら、私は、「専業の走り屋」ではない。
残念ながら、他の大切な用事のために来ただけ。
観光する時間もない。
東京を出発した時の走行距離が、72333kmで、福岡到着時が画像の通り、73552kmなのだから、片道1200km超のロングツーリングということになる。
途中地点の神戸で、走行距離は72943kmだった(15日のブログ)。
メーターには、とある理由で1万キロの差がある。これは、機会があれば後日。


昨日の画像は、途中通過地点の尾道だ。
山陽道の左手に、瀬戸内海が見えたわけで、実際の景色は、こんな程度の画像では表現できない。尾道は、「瀬戸内海で最も美しい」とされる地域なので、昨日まで、美についてさんざん話したので、少し話しに触れておきたい気もしたが、やはり、「美について」自分はまだよく理解出来ていないため、そこまで見事な論評づくりは、まだ無理である。掲載する画像にタグボートとはしけを選んだ理由は、自分でもよくわからない。


さて、上記の「現在進行形の日記」と下記の「思索」が密接にリンクしつつある。

「美の世界の住人」、もっと正確・具体的には、「美の世界の住人が持っている身体的苦痛」を「ひとごと」と言い切れない自身の現状がある。
これは、「自身の現状」あるいは「自分のひ弱さ」を原因として「自分の中から出てきた私の特性」「個体の癖(悪癖)」なのだ・・・、そう思うことが多いのだが、
実のところ、「レスポンスを引き出すこと、とはそういうこと」で、
単に私が「技術的誤解」をして「個体の癖」と感じているのか。

あくまで、それは人によりけりだと思うが。

ひとつ、射撃手・スナイパーの例を挙げよう。
スナイパーは、ひときわ高い精度が要求されるのだから、
その手元が狂うこと、
また、瞬間的な判断力が鈍ることがあっては、ならない。
そんな彼らには、実際に緊迫した事件に出動することになるらしい、とわかると
その日は朝から何も食べないのだという。

また、それこそ走りの話だが、
レーサーには、食事をしないでレースに臨む者が多いという話を聞いたことがある。
そう考えると、私も何らの問題はないのかもしれない。
「ポテンシャルを引き出すこと」ためには断食だ。
「レスポンスを向上させる」ためには断食だ。
「ポテンシャルを引き出すこと」とか「レスポンスを向上させる」とは、「そういうこと」で、単に私が「技術的誤解」をして、「個体の癖」と感じているのか、わからない。
ひょっとすると、ここに、
フィギュアだのスピードだの、
美だの数だのという異質な観念は入ってこないのかもしれない。

そういえば、歴史上、初めて、マラソンをやった人間は・・・死んだ。

スプリントとマラソン、「速さを求める走り」の中にもこの二つがあるのだけれど、
いずれにせよ、「身体的苦痛」を避けては通れないのかもしれない。

いま、私が、わざわざロングツーリングに望んだのは、自身のドライビングの「マラソン力」(厳密には「競歩力」「耐久力」)を自分で確認するためだ。
それは、凄く客観的な形で、現象として出てくる。
例えば、「歯が壊れる」とか。
Posted at 2009/10/18 04:14:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月17日 イイね!

身体・精神≠魂

身体・精神≠魂こんな程度の画像でも、この写真がどこ地域だか、わかる人にはわかるだろう。
いま、用事で、東京から離れたところに来ているのだが、
ここの地域を通過して、関門海峡を越え、さらに西に、来ている。


「美の世界の住人」の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのであるし、そうでなくては、表現される動線を見たとき、私たちの魂が揺さぶられることもない。
「美の世界」の動線は、「散華(さんげ)の美」と表裏一体だ。
だからして、その途中で、多くのソリストたちは、挫折、散華、玉砕してしまう。
しかしながら、動的な美を表現するソリストたちは、この刹那的にして危険極まりない段階を踏み越えなくては、その奥にそびえる普遍的にして安定的な美を表現する境地には辿りつけないのであろうから、
「美の世界の住人」の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのであるし、そうでなくてはならないのだ。
一方私は、数の世界に生き、
「70~80%の力しか出さない、その70~80%の力を如何に向上させるか」という、
「環状高速的技術論」を説いてきたのだから、
私は、とてつもなくイヤな奴に見えるだろう。
「自らは70~80%の力しか出さないで、生きながらえておきながら、
他人の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想な・・・最悪だなコイツ。」と。
しかしながら、残念無念。
本当は、こんな「最悪な奴」でありたいところなのだけれど、
自分の現状は、「美の世界の住人」を「ひとごと」と言い切れない自身の現状がある。
昨日、そう書いた。

実のところ、私は、食事が苦手だという傾向を持っている。
「何だそれは?」と不思議がる人は、身体において相当恵まれた状態であろうし、
「あー、わかる」と思った人は、私以上にそういう傾向があるのだろう。

わかりやすくいえば、食後に私は「まともに動くことが出来ない」場合が結構ある。
食事が済んで、腹がいっぱいになっている状態では、私はロクなことをしない。
この中から「走り」に関連することを抜き出すと、まず、「方向音痴」になったりすることだ。
もっといえば、自身の長所・秀でた能力が、一気に、短所・欠点へと転じていく。
ちょうど、数学で数、+80が-80に変身するのと、似ている。
ひょっとすると、私が持つ長所・秀でた能力は、こういう変な特性をもっているのかもしれない。

元来、自分は、抜群の方向感覚を持っている。
しかし、方向感覚抜群な自分が、相当しょっちゅう、「急性方向音痴」になることがあるのだ。
「原因の特定」が、できない方が幸せだったのだが、原因は明らかだった。
「急性方向音痴」は決まって、食後に発生した。
食後、腹が一杯になって、
いい気分で走り出す→道に迷う。

しかも、悪いことに、これを「防ぐ」手立てがないのだ。
なぜなら、「論理的思考」が、それ以上に、激しくおかしくなるからだ。
つまり、同じく私の秀でた能力である、「地図を読む能力」が、激しく低下・誤読をし始め、害を発したりする。


これは、車を使う以外の時でも発生した。
つい先日も発生した。
宿泊しているホテルの近くのファミレスで、落ち着いて晩飯を食べた後のこと。

とある男性が道を尋ねてきた。
「あの~、ビジネスホテルに戻りたいのですが。道がよくわからなくて」
「ビジネスホテル?どの?」
「これ」(男性はおもむろに、ホテル名の書かれたカードを取り出す。)
「ああ、ここ、僕が泊まってるとこと同じですよ」
「そう?よかった」
「いま、僕らがいるこの道を、このまま、まっすぐ歩いて下さい。
400メートルくらいありますかね。
とにかく、まーっすぐです。
そうしたら、左手に、つまり、もう、単純に、並びにありますから」
「あっ、そうですか。ありがとうございます」
このときの私の、反射的な応答こそが、正解だったのだ。
この男性は、単に、まっすぐ歩いていけばよかった。
男性は3メートルほど歩き出した。

ところが、何をトチ狂ったか?
私は、自身が「インチキを教えてしまった!」、そういう感覚に囚われた。
そのビジネスホテルは、この先にはない!
次の十字路を左に曲がったところだ!

私は、男性の背中から少し大きな声をかけた。
「すみません!」
「へっ?」
「ごめんなさい。インチキ教えちゃいました」
「はあ」
「その先の、交差点を左に曲がるんですよ」
「あっ、そうですか」
「はは。自分もここは不慣れでして。よく考えたらホテルはそっちの方向です」
当然私の左腕はインチキな方向を指していた。
「いやー、わざわざどうも。助かりました」
男性は再び歩き出した。
男性の背中が遠ざかり、交差点を曲がっていった。
左のほうへ。
後から訂正された情報を信じて。
普通の人間の常識的な感性に基づいて。
後から付け加えられた情報の方が正しいと信じて。

しかし、実際、このとき、道を尋ねた相手は、とんでもない特性を持っていた。
通常の人間ではあり得ないような、変な特性を示していた。
後から訂正した方の情報が間違っているという。

そのあと私は、自分の買い物をしに、ファミレスのパーキングに止めておいた、傍らの自分の車に乗り込んで、そのまま出て行った。
自身のミスに気が付いたのは、買い物を済ませて、再びこのファミレス地点に戻った時のこと。
なんで?
なんで、この先を左に曲がるわけ?
あり得ない。
いいんだよ、まっすぐで。

さっきのやりとりからは30分以上経過していたか。
その男性の姿はないにきまっている。
ごめんなさい。


食後の私は信用ならない。
食後に私が言うことは、常軌を逸したミスを犯していることが多い。
食後の私は、方向音痴であったりする。
食後の私は、論理的思考が吹っ飛んでいる。
食後の私は、体調が悪いことも多い。
食後の私は、極度の躁鬱状態だったりする。
食後の私は、ドライビングセンスが低下しているようだ。
食後の私が峠を攻めることは出来ない。
食欲が満たされた、満足感に浸って、
いい気分で、峠を走ることは、私には許されていないのだ。

私には、走ることは、気持ちの良いことではない可能性が高い。
身体的に、気持ちの良いことでは決して、ない。
ひょっとすると身体は、走ることが、好きではないのかもしれない。
しかし、私の魂が、走ることを求めている。
走ることの性能を引き上げることを求めている。
文芸的に言うところ、魂の欲求を満たすためには、身体の欲求を犠牲にしなければならない。

文芸的に言えば、私の身体は、走ることが好きではないのかもしれない。
もっと文芸的に言うなら、栄養失調寸前の状態で、自身を魂と向き合える限界状態に追い込んでやる必要があるのだ。

ただ、技術論的に正確にいうなら、食後に峠を攻めることは避け、
食事と食事の間くらい、空腹の少し前くらいが、良いのだろう。
空腹の少し前、缶コーヒーを飲み、自らに気合を入れた状態がベストだ。
とはいえ、こんなタイミングでのコーヒーが、胃を痛めるというのは、百も承知なのだけれど。

私の身体は、走ることが好きではないのかもしれない。

だが、当然本音は、
「身体および精神の快適性と、魂の快適性は一致していて欲しい」し、
心と身体と魂の全てが平等に満たされた状態で、
快楽的にぶっ飛ばし、
かつ、
「70~80%の力しか出さない、その70~80%の力を如何に向上させるか」という、クレバーさを備え、
その「環状高速的技術論」は多摩湖道というパトリオティズムとアイデンティティーで満たされ、
そんな快楽と自信と正当性の確信の下で、
「自らは70~80%の力しか出さないで、生きながらえておきながら、
他人の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想だ・・・」と他の世界の住人を他人事としてせせら笑いながら、
内心で「バッカじゃねーの?」と思いつつ、
「美しいー!」「ブラボー!」「ブラバー!」と賛辞を叫びながら、
冷静に考察している・・・。


本当は、そんな「最悪な奴」でありたかったのだけれど、
自分には、「美の世界の住人」を「ひとごと」と言い切れない自身の現状がある。

私の身体と表層的な精神は、走ることが好きではないのかもしれない。
私の魂は、走ることを求めている。
私の現状は、魂を満たすために、身体と精神を犠牲にしている。
身体・精神≠魂。
Posted at 2009/10/17 02:37:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月16日 イイね!

ソリストの魂と散華(さんげ)の美

ソリストの魂と散華(さんげ)の美まず、近況の機械整備の話。
画像は取り外したプラグ。
新車時から装着。
つまり、純正品でNGKのものが使われていた。
交換日に至るまで、約72,250km使用。
見た目、焦げている。かなり焦げている。
ただ、残念ながら、この焦げが、どういう意味を持っているのか、詳しく現象解析・チューニング方向の決定ということをする能力は、残念ながら、今の私にはない。
「熱価の高いものに交換すべし」
「5B=5番?→じゃあ、6番くらいにすべき?」
このくらいのことしか考えることができていない。
どうか、諸先輩方、プラグの知識をご伝授下さい。


では、宮が瀬の話。

「君も、ドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族なら、ドリフト族として、限界の美を求めるソリストになるために、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」

舞台は、県道70号線。いわゆるヤビツ峠の宮が瀬湖側の話で、このエリアに集うドリフト族の攻め方は半端なかったということ、極限の美を求めて、ガードレールぎりぎりまでを、その走行ラインとしていたこと、この動的な美の限界を求める行為に宿る魂は、峠という場所と結びつき、時として信仰と評するのが適切な、崇高なる領域まで高められるのであることを書いてきた。


ともかく、現実問題として、
「美の世界」「フィギュアの世界」の場合、「限界を攻めること」、これを避けて人の心を突き動かすことは、とても難しい。

これは、ドリフトに限ったことではなく、美の世界一般にいえることだ。
だからして、「美の世界の住人」、特に「動的な美を表現する者たち」には、「極限」「限界ぎりぎり」を攻めようとする者が多い。
「フィギュアスケート」は、「4回転ジャンプ」を以って、「凄い!」という賛辞を受けられるわけだが、それこそ、あの手のスケーターの選手寿命は・・・。
また、モデルの世界でも、「痩せていること」「ギリギリまで、貧血寸前まで痩せていること」が、脂肪のムダさを寸分も感じさせない、線形美の極限の形だといわれていたわけで、それに伴う「痩せすぎモデル」の弊害話は有名だし、一説によるとファッションモデルの「モデル寿命」は・・・。

だからといって、これを調和のとれた「ありがちな普通の美」のレベルに落としこむことは、決して許されない。
多数の人はそれで許容できても、
少なくとも、我々のように、現在進行形で、魂が何かを求めている者の心を撃つことはない。
だからして、こうした「美の世界の住人」の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのであるし、そうでなくては、表現される動線を見たとき、私の魂が揺さぶられることがない。

この「傍から見ても痛々しく、また儚いこと」は、ドリ車そのものにはまさに言えることであるし、ドライバーであるソリストたちに対しても、それは言える。
だからして、限界ギリギリのライン取りこそが、
我々、ドリフト族以外の走り屋の心をも撃つのである。

多くの方は、限界ギリギリのライン取りをしたドリフトの美しさを見たことがあるだろうか?
とある峠にて、それを披露してくれたソリストの方には、私は今も、心から感謝している。


「君も、ドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族なら、ドリフト族として、限界の美を求めるソリストになるために、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」


「美の世界の住人」の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのであるし、そうでなくては、表現される動線を見たとき、私たちの魂が揺さぶられることもない。
「美の世界」の動線は、「散華(さんげ)の美」と表裏一体で、
動的な美を表現するソリストたちは、この刹那的にして危険極まりない段階を踏み越えなくては、その奥にそびえる普遍的にして安定的な美を表現する境地には辿りつけないのだと思われる。
しかし、その途中で、多くのソリストたちが、挫折、散華、玉砕してしまう。
しかしながら、上記のような理由から、
「美の世界の住人」の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのであるし、そうでなくてはならないのだ。

このように書くと、
「70~80%の力しか出さない、その70~80%の力を如何に向上させるか」という、
「環状高速的技術論」を説いてきた私が、とてつもなくイヤな奴に見えてくるだろう。

「自分は70~80%の力しか出さないで、生きながらえておきながら、
他人の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのである・・・最悪だなコイツ。」
と。

しかしながら、残念無念。
本当は、こんな「最悪な奴」でありたいところなのだけれど、
自分の現状は、「美の世界の住人」を「ひとごと」と言い切れない自身の現状がある。
これが、「自身の現状」あるいは「自分のひ弱さ」を原因として「自分の中から出てきた私の特性」「個体の癖(悪癖)」なのか、
あるいはまた、「ポテンシャルを引き出すこと」とか「レスポンスを向上させる」とは、「そういうこと」で、単に私が「技術的誤解」をして、「個体の癖」と感じているのか、それもわからない。
が、その辺の具体的話は、さっき起こった「馬鹿馬鹿しい出来事」を叩き台にして、次回書くつもりでいる。
Posted at 2009/10/16 02:03:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月15日 イイね!

少し別のルートの可能性と、ちょっとした・場合によっては重大な誤謬の可能性

少し別のルートの可能性と、ちょっとした・場合によっては重大な誤謬の可能性●まずは、「補足事項」

昨日、「西沢広義エース」と書いたが、これこそまさに、「文学的」「文芸的」な視点の権化である。
西沢氏は、「若き伝説的エース」ということであり、実際の「撃墜王」ではないようだ。
西沢氏が戦闘機乗りとして、短期間のうちにあげた戦果は凄いものがあったというが、搭乗員となったのが、大東亜戦争開戦以後、また、24歳で散華(さんげ)している点からも、彼の記録が「最多」ではないことは、ほぼ確実であるとのこと。
日本軍で最多の「撃墜王」、「真のエース」は、搭乗年数から考えても、岩本徹三氏であろうというのが、通説とされており、たぶん、それで間違いないのだろう。
ただ、帝國海軍には、スコアの個人認証システムがなかったというから、「エース」とか、「撃墜王」とかいう称号、およびそういった考え方自体が、
特にわが国では後の時代になって出てきたようである。

「そういった称号、およびそういった考え方自体が、・・・後の時代になって出てきた・・・・」
この話は、実は、走り屋の世界にも、まったく以って当てはまることで、
いずれ、そう遠くないうちにしなければいけない話なのだけれど、
今日、今の時点で、この話をするつもりはない。
今、この状態でこの話をすると、
たぶん、その瞬間、私は、このブログを書く気力が失せて、継続困難になる気がするので、話をもう少し続けてからにしよう。


●それと、備忘録。

オイルとスパークプラグの交換距離数は、10/12時点で、72,250kmだった。
ちなみに、現時点までの走行距離は72,943km。
メーターには、とある理由で1万キロの差がある。
これは、機会があれば後日。


●では、宮が瀬の話。

「ドリフトがこんなにモテるようになるって、昔からわかってたんなら、オイラだってドリフトやってたぜ!」
元峠族の40代男性がこうした叫びを上げることは珍しいことではない。
「走り」を、「ウップンばらし」として行っていた方々の場合、この思考プロセスは、至極真っ当だ。

では、「走り」を「天職」・・・「必ずしも生計を立てることを意味しない仕事」として行っていた場合はどうか。

私は、「数の世界の住人」だ。何度も強調した。

だが、わたしがもし、「美の世界の住人」であったのなら、どうだろう?
もっと具体的な言い方をするなら、
絵描きとか、
デザイナーとか、
(精神身長155cmなのだからありえないけど)
モデルやボディービルダーのような仕事をしていたり、志していた、
かつ、
自動車を生活の道具として使うために免許を取得したのなら、
私は、「生活道具としての車」というだけでは収まらないのは当然として、
免許取得後の早い時期にFR車を入手して、
ドリフトの練習に繰り出していたことだろう。

わたしがもし、「美の世界の住人」であったのなら、私は絶対にドリフトをやっていた。

ドリフトを始めていたことであろう。
常に、美を志す存在であるからだ。

走りというもの私がなぜ「仕事のひとつ」「天職」という、その根源的理由は定かではないが、
「自分」を「○○の世界の人間」とか、「××を使命として生きる」とか、そういった宿命付けが大好きで、「自分の人生の全ては~達成のために、全ての現象が有機的に結合している」とか、そういう価値観が真ん中にあることは、自覚している。


「君も、宮が瀬でドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族だったなら、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」
Posted at 2009/10/15 02:26:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月14日 イイね!

フィギュアの衝撃の不滅性

フィギュアの衝撃の不滅性画像は、コブラ機動するスホーイ。
10月13日時点で、みんカラ注目タグに、何ゆえに、「ブルーインパルス」が出ていたのかは不明だ。多分、航空祭があったとか、そういう理由なのだろうけれども。

フィギュア・・・、動的で、しかも、散華の可能性を多分に含んだ危険な美、昨日私はこういうことを書いたが、ブルーインパルスの「アクロバット飛行」による「演技」は、まさに、そうした「美」、「動的な美」の世界の象徴だ。それは、人間の感性を、直接揺さぶるのである。
(もちろん、あれは、編隊飛行の要素が多分にあるから、相当に綿密な計画と機械的な技術トレーニングの成果なのだから、「数的要素」に近いわけであるけれど。)
まさか、世の中に、フィギュア的な波動が満ちて、私も、それに影響されている・・・ということはないだろうけれど、科学的に証明できないだけで、因果関係があるかもしれない。

そう、今日の話でブルーインパルスであるとか、アクロバット飛行を取り上げることが、凄く好都合なのだ。

「ソリスト」。
この単語が「耳慣れない」。
人から、そういう指摘をしょっちゅう受ける。

ブルーインパルスの搭乗員も、正確には、「ソリスト」と表現した方がよい気がする。
通常、アメリカ空軍等では、戦闘飛行隊の搭乗員のことを、
「イーグルドライバー」であるとか、「ラプタードライバー」であるとか、
「ドライバー」という名称で呼ぶ。
(海軍用語から生じたといわれる、航海士の最高位である「水先案内人」になぞらえた、「飛行士」という意味での「パイロット」という敬称については、わが国には、海軍航空隊の戦闘飛行隊に類似する集団は現存しないため、割愛せざるを得ない。)
これは、淡々と任務をこなし、航空優勢や制空権を確保・維持し、時に撃墜スコアを出すという、空軍の作戦の特性からは、そう呼ぶのが適当だともいえよう。

ところが、航空ショーにおけるアクロバット飛行は、人の心を揺さぶる「美の世界」演技である。
だからして、これにおいて、飛行機を操る搭乗員は、シンクロナイズドスイミングの泳者やフィギュアスケーター、ピアノ奏者などと同じく、「ソリスト」という呼称を用いるのが適切なのである。
ただ、言っておくが、「ソリスト」と呼称するからといって、それが、「戦い」や「芸術世界への没頭」を意味するものでは決してない。

1989年のパリ航空ショーでSu-27テストパイロットのヴィクトル・プガチョフの手によって初めて公開された、「プガチョフ・コブラ(Pugachev's Cobra)」がその有名な例だ。
これは、戦闘機マニアだけでなく、現代小説をよく読む人(私も含めて)は知っていると思う。
水平飛行中に機首を90度持ち上げ、その状態のまま水平飛行・大減速を行うという、ストールターンの一種で、後に「コブラ」と呼ばれる機動なのだが、これが与えた衝撃は凄いものがあったといわれている。

実際のところ、空戦中にコブラを使って大減速を行い、追跡してくる敵機をオーバーシュートさせ、後方を取って迎撃するという方法を考え付く人は多い。しかしながら、実際は広い機体背面を一瞬であれ敵機に見せる上、運動エネルギーを大量に失うためリスクが大きい。故に、航空優勢の確保を第一目的とする戦闘機乗りの多くは空戦での使用に否定的だ。

さて、自分は空戦術については門外漢で、現代小説を差し障り無く読める程度の知識しかない上に、
ジェット戦闘機関連の個人的体験については、「トムキャットに対するマイナスの感情」(こう書いただけで、相模地区の人にはこの上なく伝わる。)しかない起こらないので、この辺で、空戦技術の話はやめにしておきます。

しかし、この「演技」が世界中に与えた「波紋」は大きい。
少しこのブログにも書いた作品名を揚げると、2008年の映画『スカイクロラ』もこのひとつで、主人公の函南君とティーチャーはコレ系の動きを、「必殺技」として用いることが、しきりに強調されている。ただ、この作品は、あくまで、昭和21年頃の技術水準で、しかも昭和21年くらいの技術水準なのに、「ジェットなし」「ロケットなし」「核も存在しない平和的戦い」が行われている設定だったり、函南機(どうでもいいが、あの散香は彼にとって3機目なのか、最初に乗ってきた機体なのか?)が、ティーチャーによって粉砕されるシーンも、わざとらしくカメラアングルをグルグル回していたりするので、何かに必死になっている人間には、鈴木君だの走り屋としての私だの、そういう以前の話しとして、空虚感とか、嫌がらせめいたカンジに映るのだけれど。

(『スカイクロラ』の他にも、今思いつくだけでも、鳴海章氏の小説であるとか、「スターフォックス64」とか。「エスコン」については言及不要でしょう。
ただ、ひょっとすると、『スカイクロラ』の「技」の出典は、1989パリ航空ショーではなく、西沢広義エースの「秘技」の方が正解である可能性もある。『大空のサムライ』など、大東亜戦争期のストーリーを、私はあまり読んでいないので、ひょっとすると、基本的な「技術的誤認」をしているかもしれない。)

とはいえ、航空優勢の確保という作戦達成、あるいは、撃墜スコアを伸ばすことからすれば、実際は否定されている動き方であっても、「人の心を突き動かし、影響を与える」、また、あえてそれを目的とした「美を追求する世界」においては、大きな意味を持つのだ。1980年代の「衝撃」が、2000年代の文芸界等にも影響しているのだから、それは凄まじいものである。

さしずめ、レシプロ、スーパーチャージャー、ターボ、ロケット、ミサイル、レーダー、ステルスなどの「戦力としての有形物」が「生もの」であるのに対し、「美」は半永久的な要素を多分に含んでおり、ヴィクトル・プガチョフやユルギス・カイリスはじめ、ブルーインパルスのメンバーたち、「ソリストとしての操縦士」は、「撃墜王」に勝るとも劣らない、リスペクトされるべき存在だと心底思う。

さて、「ドライバー」であるとか、「ソリスト」であるとかいった呼称表現の話は、走り屋の世界にもそのまま当てはまる話であって、「美を追求する者」としてのドリフト演技者は、「ソリスト」と表現することが適切だろう。
対して、淡々と速さを向上させようとする「速さ」「数」を追求する者には、やはり「ドライバー」の呼称が適切である気がする。

ほかにも、「ファイター」という言い方も考える必要があるが、
それを考えると、「制空権」・・・「日本に制空権はほぼ無い」とかいう話になってしまって、私の中の日本人意識によってハラワタが煮えくり返り、話の収集がつかなくなってしまうので、このへんでやめておこう。

さて、
舞台は、県道70号線。
いわゆるヤビツ峠の宮が瀬湖側の話だ。
このエリアに集うドリフト族の攻め方は半端なかったという。
極限の美を求めて、ガードレールぎりぎりまでを、その走行ラインとしていた。
この動的な美の限界を求める行為に宿る魂は、峠という場所と結びつき、時として信仰と評するのが適切な、崇高なる領域まで高められるのである。

「美の世界」「フィギュアの世界」の場合、「限界を攻める」ことを避けて人の心を突き動かすことは、とても難しい。

だからして、限界ギリギリのライン取りが、ここのドリフト族にも必要不可欠心であったのだけれども、山岳道路の道の端は、落ち葉によって、意図せぬ滑りを誘発させ、クラッシュの原因となる。

だから、このステージでドリフトを行うソリストたちは、落ち葉拾いをやっていた。
この行為は、この宮が瀬エリアのドリフト族の、「信仰形態」のひとつでもあったわけだ。
Posted at 2009/10/14 03:15:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記

プロフィール

「omnes viae Romam ducunt」
何シテル?   09/26 04:50
今を、近未来を、速く!上手く!美しく!走りたい。どこの歴史上の、どこの伝説の誰よりも。 「数の世界」を愛する者のひとりとして、いつの日にか「私」が「最速」の象...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/8 >>

     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

ブログカテゴリー

リンク・クリップ

本日の復旧作業はここまで… 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2012/02/04 19:31:14
今日の測定結果@静岡 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2012/02/04 19:27:31
群馬県測定教育施設線量マップ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2012/02/04 19:24:25

愛車一覧

三菱 その他 三菱 その他
Ob's stürmt oder schneit, Ob die Sonne uns l ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation