
こんな程度の画像でも、この写真がどこ地域だか、わかる人にはわかるだろう。
いま、用事で、東京から離れたところに来ているのだが、
ここの地域を通過して、関門海峡を越え、さらに西に、来ている。
「美の世界の住人」の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのであるし、そうでなくては、表現される動線を見たとき、私たちの魂が揺さぶられることもない。
「美の世界」の動線は、「散華(さんげ)の美」と表裏一体だ。
だからして、その途中で、多くのソリストたちは、挫折、散華、玉砕してしまう。
しかしながら、動的な美を表現するソリストたちは、この刹那的にして危険極まりない段階を踏み越えなくては、その奥にそびえる普遍的にして安定的な美を表現する境地には辿りつけないのであろうから、
「美の世界の住人」の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのであるし、そうでなくてはならないのだ。
一方私は、数の世界に生き、
「70~80%の力しか出さない、その70~80%の力を如何に向上させるか」という、
「環状高速的技術論」を説いてきたのだから、
私は、とてつもなくイヤな奴に見えるだろう。
「自らは70~80%の力しか出さないで、生きながらえておきながら、
他人の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想な・・・最悪だなコイツ。」と。
しかしながら、残念無念。
本当は、こんな「最悪な奴」でありたいところなのだけれど、
自分の現状は、「美の世界の住人」を「ひとごと」と言い切れない自身の現状がある。
昨日、そう書いた。
実のところ、私は、食事が苦手だという傾向を持っている。
「何だそれは?」と不思議がる人は、身体において相当恵まれた状態であろうし、
「あー、わかる」と思った人は、私以上にそういう傾向があるのだろう。
わかりやすくいえば、食後に私は「まともに動くことが出来ない」場合が結構ある。
食事が済んで、腹がいっぱいになっている状態では、私はロクなことをしない。
この中から「走り」に関連することを抜き出すと、まず、「方向音痴」になったりすることだ。
もっといえば、自身の長所・秀でた能力が、一気に、短所・欠点へと転じていく。
ちょうど、数学で数、+80が-80に変身するのと、似ている。
ひょっとすると、私が持つ長所・秀でた能力は、こういう変な特性をもっているのかもしれない。
元来、自分は、抜群の方向感覚を持っている。
しかし、方向感覚抜群な自分が、相当しょっちゅう、「急性方向音痴」になることがあるのだ。
「原因の特定」が、できない方が幸せだったのだが、原因は明らかだった。
「急性方向音痴」は決まって、食後に発生した。
食後、腹が一杯になって、
いい気分で走り出す→道に迷う。
しかも、悪いことに、これを「防ぐ」手立てがないのだ。
なぜなら、「論理的思考」が、それ以上に、激しくおかしくなるからだ。
つまり、同じく私の秀でた能力である、「地図を読む能力」が、激しく低下・誤読をし始め、害を発したりする。
これは、車を使う以外の時でも発生した。
つい先日も発生した。
宿泊しているホテルの近くのファミレスで、落ち着いて晩飯を食べた後のこと。
とある男性が道を尋ねてきた。
「あの~、ビジネスホテルに戻りたいのですが。道がよくわからなくて」
「ビジネスホテル?どの?」
「これ」(男性はおもむろに、ホテル名の書かれたカードを取り出す。)
「ああ、ここ、僕が泊まってるとこと同じですよ」
「そう?よかった」
「いま、僕らがいるこの道を、このまま、まっすぐ歩いて下さい。
400メートルくらいありますかね。
とにかく、まーっすぐです。
そうしたら、左手に、つまり、もう、単純に、並びにありますから」
「あっ、そうですか。ありがとうございます」
このときの私の、反射的な応答こそが、正解だったのだ。
この男性は、単に、まっすぐ歩いていけばよかった。
男性は3メートルほど歩き出した。
ところが、何をトチ狂ったか?
私は、自身が「インチキを教えてしまった!」、そういう感覚に囚われた。
そのビジネスホテルは、この先にはない!
次の十字路を左に曲がったところだ!
私は、男性の背中から少し大きな声をかけた。
「すみません!」
「へっ?」
「ごめんなさい。インチキ教えちゃいました」
「はあ」
「その先の、交差点を左に曲がるんですよ」
「あっ、そうですか」
「はは。自分もここは不慣れでして。よく考えたらホテルはそっちの方向です」
当然私の左腕はインチキな方向を指していた。
「いやー、わざわざどうも。助かりました」
男性は再び歩き出した。
男性の背中が遠ざかり、交差点を曲がっていった。
左のほうへ。
後から訂正された情報を信じて。
普通の人間の常識的な感性に基づいて。
後から付け加えられた情報の方が正しいと信じて。
しかし、実際、このとき、道を尋ねた相手は、とんでもない特性を持っていた。
通常の人間ではあり得ないような、変な特性を示していた。
後から訂正した方の情報が間違っているという。
そのあと私は、自分の買い物をしに、ファミレスのパーキングに止めておいた、傍らの自分の車に乗り込んで、そのまま出て行った。
自身のミスに気が付いたのは、買い物を済ませて、再びこのファミレス地点に戻った時のこと。
なんで?
なんで、この先を左に曲がるわけ?
あり得ない。
いいんだよ、まっすぐで。
さっきのやりとりからは30分以上経過していたか。
その男性の姿はないにきまっている。
ごめんなさい。
食後の私は信用ならない。
食後に私が言うことは、常軌を逸したミスを犯していることが多い。
食後の私は、方向音痴であったりする。
食後の私は、論理的思考が吹っ飛んでいる。
食後の私は、体調が悪いことも多い。
食後の私は、極度の躁鬱状態だったりする。
食後の私は、ドライビングセンスが低下しているようだ。
食後の私が峠を攻めることは出来ない。
食欲が満たされた、満足感に浸って、
いい気分で、峠を走ることは、私には許されていないのだ。
私には、走ることは、気持ちの良いことではない可能性が高い。
身体的に、気持ちの良いことでは決して、ない。
ひょっとすると身体は、走ることが、好きではないのかもしれない。
しかし、私の魂が、走ることを求めている。
走ることの性能を引き上げることを求めている。
文芸的に言うところ、魂の欲求を満たすためには、身体の欲求を犠牲にしなければならない。
文芸的に言えば、私の身体は、走ることが好きではないのかもしれない。
もっと文芸的に言うなら、栄養失調寸前の状態で、自身を魂と向き合える限界状態に追い込んでやる必要があるのだ。
ただ、技術論的に正確にいうなら、食後に峠を攻めることは避け、
食事と食事の間くらい、空腹の少し前くらいが、良いのだろう。
空腹の少し前、缶コーヒーを飲み、自らに気合を入れた状態がベストだ。
とはいえ、こんなタイミングでのコーヒーが、胃を痛めるというのは、百も承知なのだけれど。
私の身体は、走ることが好きではないのかもしれない。
だが、当然本音は、
「身体および精神の快適性と、魂の快適性は一致していて欲しい」し、
心と身体と魂の全てが平等に満たされた状態で、
快楽的にぶっ飛ばし、
かつ、
「70~80%の力しか出さない、その70~80%の力を如何に向上させるか」という、クレバーさを備え、
その「環状高速的技術論」は多摩湖道というパトリオティズムとアイデンティティーで満たされ、
そんな快楽と自信と正当性の確信の下で、
「自らは70~80%の力しか出さないで、生きながらえておきながら、
他人の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想だ・・・」と他の世界の住人を他人事としてせせら笑いながら、
内心で「バッカじゃねーの?」と思いつつ、
「美しいー!」「ブラボー!」「ブラバー!」と賛辞を叫びながら、
冷静に考察している・・・。
本当は、そんな「最悪な奴」でありたかったのだけれど、
自分には、「美の世界の住人」を「ひとごと」と言い切れない自身の現状がある。
私の身体と表層的な精神は、走ることが好きではないのかもしれない。
私の魂は、走ることを求めている。
私の現状は、魂を満たすために、身体と精神を犠牲にしている。
身体・精神≠魂。