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猛走峠のブログ一覧

2010年03月11日 イイね!

RALLIART ~the spirit of competition~の崩壊+「昔の走り屋」が叫ぶ日本車の魂

RALLIART ~the spirit of competition~の崩壊+「昔の走り屋」が叫ぶ日本車の魂「ラリーアート、業務を大幅に縮小」3月10日16時18分配信 レスポンス
10日、三菱自動車のモータースポーツ関連事業会社「ラリーアート」が2010年3月末日をもって業務を縮小すると発表した。
業務縮小に伴い、これまでラリーアートが実施していた、モータースポーツユーザー支援全般(参加支援、技術支援、ドライバーオブザイヤー表彰等)や、メンバーズクラブ(RMC)、オンラインショップ、ドライバーズレッスン等の主催イベント、モータースポーツ情報発信のメールマガジン、が廃止される。
なお、「ラリーアート」ブランドのパーツ、キャラクターグッズ等の商品販売は継続される。また、ラリーアートオンラインショップの注文は3月28日までで、4月1日から廃止される。
チューニングパーツやグッズの販売は継続される。
ラリーアートは1984年4月の設立、現在までモータースポーツ関連の諸活動を行ってきたが、業務縮小に関して、一昨年来の経済状況の変化に伴った経営環境の悪化によるものとしている。
出典
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100310-00000018-rps-bus_all

昨日の、
上記ラリーアートの話については、様々な人が書いていらして、意見も多数は「惜しい」また、どちらかといえば少数意見が「廃止で当然」。

少しだけ時間が経って、このブログのスタンスを決めることが出来ました。
「ラリーアートをラリーアートでなくして、“再起動”は出来るのか?
大丈夫か?
“再起動”時の計画はあった上での、業務廃止か?」と、問いかけさせて頂きたい。

しかし、直情として、三菱自工の経営陣の方々は、大変な「資産カット」をやってしまったのではないか?と。
たしかに、ラリーアートの実情として、
「ラリーアートには、車両製作の実働部隊がもういなくなっている」という話を聞いていたのも、たしかなこと。

でも、ラリーアートは、「三菱の競技専門集団」としてのネームバリューを、競技に常時携わることで、構築してきた。
それは「暖簾(ノレン)」である。
(現行会計基準の、「合併時超過収益力としての、“のれん”ではない。その語源となった、「継続的な活動実績による名声」という、本来の意味。)

ラリーアートを、
「競技専門集団」ではなく、「部品屋さん」にすることは、
「暖簾の廃止」であり、「保有資産の焼却処分」にあたるといえる。

で、ラリーアートは
“the spirit of competition”、
「競技魂」「競うことの魂」を合言葉としてきたわけだけれども、
それは完全に消滅することとなる。
控えめに言っても、
今後のラリーアートは、
現在進行形ではなく、
「過去の栄光にすがった活動」に終始することとなる。
名実共に。

こうした話は、
「モータースポーツなんて
もともと
貴族の道楽からはじまったんだ。
それを
どうまちがったか
こんな極東の島国がだなァ・・・
まあ、
そんなことはどうでもいい
とにかく
お金がかかるのよ!
わかるゥ?!
お金!」(『SS』第4巻P108、109より引用)
(↑『SS』において、このセリフの発言主は、「遊びじゃねーけどよ」と、つぶやいているところは少し留意すべきか)
という指摘・考え方も踏まえた上でのこと。

その上で、問いたいところであります。
ノウハウの再建は、できるのか?
“再起動”時の計画も構想した上での、業務廃止か?
と。

ラリーアートの競技活動廃止に関して、「三菱族」の一人としては、誠に残念。
これを絶望を以って受け止めざるを得ない。

しかしながら、
「さて、」以下に登場する「私」の感性では、それとは真逆の捉え方をしている。
「むしろ好都合である」と。
「さて、」以下に、時々登場する「私」の感性は、まったく違う考え方をしていることだろう。

●関連文献など
『SS』第4巻 東本昌平 小学館 BIG COMICS

●注-ラリーアートの関係各位の方々へ
上記雄叫び、あんまり気にしないで下さい。
ショックが大きすぎて、錯乱しているだけですから。
それだけ、ファンな客層でした。
上記雄叫びは、主に三菱自工の意思決定陣に向けたものですから。
店舗などで会っても、上記感情で見ているわけではないですから。
半ば暴言で、すみません。
ラリーアート内部の方々、又、直接の関係各位の方々については、ブログ主の私情としては、心配しております。私が心配してどうこうなるものでもありませんが、どうか、災い転じて福となりますように。
また、これからも、どうか、よろしくお願いします。
(基本的に、このブログの私≠現実の私なのですが、コトがコトだけに。一応。)
(あと、「さて、」以下は、現実の話とは何の関係もありません。)


さて、

(以下は、あくまでフィクションの領域ですので、現在のブログ主との思想・考え方と完全な一致をするものではありません。以下で用いられる、不適切な表現、違法性、暴力の描写、暴言などについては、一切の責を負いかねます)

ビリビリッ!!!
2010年3月のある日。
コルトのリヤハッチ下部に貼られた、
the spirit of competitionというロゴ入りの、
黒いテールゲートガーニッシュを、
俺は剥がした。

2010年、マツダスピードなどと同じく、
ラリーアートも競技集団ではなくなった。

三菱車も、
「走り」の世界において、完全にストリートの世界に解き放たれた。
このことによって、三菱車もまた、
メーカーのみの特権であった「競技」、
国際自動車連盟と名乗る、ヨーロッパ思想による封建体制の拘束から開放され、
われわれ個人暴走主や、
遠征を企む暴走集団の手に委ねられた。

ビリビリと黒いテープを剥がした日から、どのぐらい経ったろう?
10年以上だろうか?

さあ、
我々中年男よ、
再び暴走族を結成し、
遠征しよう。
最強のマシンと、
どこ国のどの警察組織よりも強い、世界最強の暴力を携えて、攻めてゆこう。
ドイツ・アウトバーンに、
アメリカ・ハイウェイに、
そして、
中国国家高速公路網に。


そう、
こうした暴走の過程を経て、
日本車は、走りにおいて本当の価値を得たのである。

そう、
こうした暴走の過程を経て、
法を踏み超え、
社会的常識を踏み越え、
「走り」が生命以上の尊い価値を得、
「走り」の象徴として君臨する日本車という躯体は、
まさに、人々の努力と技術、走り屋たちの覚悟、情熱、魂によって、
「神がかった道具」となっていったのである。

日本車の乗って走りを追求しようというならば、
できるならば走り屋、
少なくとも暴走族、
何かを踏み越えて、本気で走る意思と覚悟のある者。
日本に生まれし者以外で、日本車に乗ろうするなら、
こうした、
「走りに対する覚悟」が必要なのである。

日本車は、
日本人以外の乗り手に、
「走りの魂」を要求する、
まさに「走りの使徒」なのである。

言葉を代えていうならば、
日本車とは、
できるならば走り屋、
少なくとも暴走族、
何かを踏み越えて、本気で走る意思と覚悟のある者、
こうした者たちだけが乗ることを許される、
特権的な存在、それが日本車なのであり、日本の工業技術であるのだ。

馬鹿どもにもわかる、平易な言葉で言おう。
アメリカ人は、アメ車に乗れ。
中国人は、中国車に乗れ。

アメ車の性能が、どんなに劣っていようと、アメリカ人はアメ車に乗るべきなのだ。
中国車の性能が、どんなに劣っていようと、中国人は中国車に乗るべきなのだ。
劣った性能を、甘んじて受け入れ、
その上で、それを何とか繕おうと、痩せ我慢すること。
痩せ我慢するのが嫌なら、おまえたちの国の企業を、自分たちの力で改革するしかない。
それが、自分の国のモンを愛するってことなんじゃないのか。

そして、
それが出来る上で、
何かを踏み越えて、本気で走る意思と覚悟のある者、
もし、乗り手が日本人でないのなら、
こうした者たちだけが乗ることを許されるのが、日本車だ。
特権的な存在、それが日本車なのだ。

日本の政府や企業を脅して(「リコール」なんて制度、そもそも有名無実なのに、注)、
安易に日本車の品質と保証を得ようとするな。

できるならば走り屋、
少なくとも暴走族、
何かを踏み越えて、本気で走る意思と覚悟のある者。
日本人でないのなら、
こうした、走る者たち以外に、日本車には乗ってもらいたいとは思っていない。
日本の、
昔の走り屋魂を持つ者としては。

●注-中国車やインド車はほとんどリコールが無い。リコールのない中国車は毎年1000万台以上生産されているが、全く問題にもならない。
2010年03月10日 イイね!

話題づくり

話題づくり昨日の夕方頃から雪。しかしそれでも夜になると雨に変わり、
今日、昼の天気は15℃くらいまでは上がるようだから、
昼過ぎには、車の走行も、スタッドレスタイヤ無しでも何の支障もないだろう。

いつのことだったかな?
子供のとき、「大雪合戦大会」なるものをやって、
みんな、スタジアムジャンパー系のコートを着て、
家にあったバイク用のフルフェイスヘルメットを被って、
盛大に雪合戦をやったことがあった。
丁度、弓矢戦というのか、槍合戦というのか、並列で並んだ陣形が激しい攻撃を繰り返し合い、それは、それは、話題になった。
(ああ、三十秒くらいすると、決着がつく瞬間が、何故か、くるんですよ。
片方の気力が尽きて、
雪だまづくりがのろくなって、
攻撃が一方的になったところで、敗けチームの全員が一斉に敗走。「わーーー」。
そこで勝敗確定。「いぇーーい」)

でも、周囲の民家の窓に当たるとか、流れ弾が無防備な通行人に当たるとかで、禁止になった気がする。

まあ、でも、あれこそ(「武装」して、「陣形」つくって、盛大な投げ合い。)「本物の雪合戦」なのかな、と。
「やーーい」と言って追いかけまわす、逃げ回る、ってのは、
やっぱりただの鬼ごっこ。

いずれにしても、凄い「話題づくり」だった。


さて、


「永田師の最高速烈伝」の話をしていたけれども、
実のところ永田師の行動は、「話題づくり」だと評する意見もある。
実のところ、私も、そう思っていたり。

違反を「認める」「認めない」という話も、
○警察の聴取に対して是認⇒性能が本物だと実証される。
○警察の聴取に対して否認⇒性能が本物だと実証されない。
という「強烈な話題」になっている。

それに、そもそも、
「チューナー自身がマシンをドライブする必要性は・・・ない!」

自身の名義、自身の手により作製したマシンを、
自信のドライブによって性能実証する。
もし、すべてのファクトリーがこのようなことになれば、
レーサーやテストドライバー、サーキットアタッカーの類は全て「商売上がったり」である。
(とはいえ、制限速度付き公道での超速アタックは、プロドライバーなら誰一人として受けるとは思えない。
だったら部下にやらせたとしても、「教唆犯には正犯の刑を科する」が適用されれば、結果としては逮捕される。
何より、「部下に罪を被せた」という指弾を逃れられない、という点から、やはり、社長自身の手での実行は、不可避だった気がするのだが)

ああ、そうそう。
「走り」を志してから、ずーーーーーっと、勘違いしていたのが、
「走り屋がチューナーに、走りについて教えを請うのはタブーである」
ということ。

「走り」は絶対に、自分で探求しなければならない。
「チューナー」とか「クルマ屋さん」は、「車」を「製作・調律」する人々である。
ピアニストが、ピアノ演奏に関して、調律師に相談するか?
しないだろう。(←たぶん。私はピアノのことは知らないので、その実際を知らないくせに)

だからして、
「走り」について、チューナーなどに「相談」することは「タブー」である。

そう思っていた。

でも、
そう思い込んだ状態を、もう少し継続していたら、
たぶん、
私は今、生きていなかったと思う。

このブログにおいて「私」は、相当思い込みが強い。
妄想癖がある。
しかしそれは、すべて虚偽というわけではない。
妄想を「猛走」させた後、一応、忘れない限り、本音を漏らす。
「猛走体勢での私」は、永田師を「確信犯」、「チューナーとしての価値観」と大絶賛・神聖視させて頂きましたが、
やっぱり、
「話題づくり」だと思う。
「それは、話題づくり!!」
とあるチューナーの指摘が、正しいと思う。
2010年03月09日 イイね!

21C?+V35GT-Rの偉業

21C?+V35GT-Rの偉業私はやはり、「20世紀型の人間」なのだと思う。
つくづく思う。

互いに音信不通となっている知人に、ブロガーとして、「偶然に再会」するという経験が、私には始めてだった。
だから正直、どう振る舞っていいか、わからずにいる。

「龍神(りゅうじん)スカイライン」という響きによって、少し思い当たる人がいた。
「りゅうじんすかいらいん」という響きによって、
私の脳の思考回路の相当錆付いていた部分に、久々に電流が流れた、という言い方が適切か?

私の高校時代は、知力体力共に「最悪な時期」であったからか、その時期の知人とは今は全く音信不通状態。
だが、「りゅうじんスカイライン」と聞いて、妙に気になったからか、初めて、知人のフルネームをキーワード検索してみた。
その人物は・・・出てきた。しかも、ブロガーとして。
(みんカラではないです。第一次産業方面に関わるもの)
(その人物は本名と生年月日を公開していた・・・これ・・・間違いないし・・・汗)

それだけで充分、「人生初の経験」として驚きなのだけれど、
まだ、「走り」とか「峠」とかには関係していない。
そう、そのブログの発信する情報・内容・カテゴリーが、関係していたのです。
特に、「峠」という範囲。
しかも、「峠」と書いて「やま」と読むような、自然と直接向き合う方面の感性において。
どの程度のシンクロかといえば、
「クルマ」とか、「工業」「数理」という価値観を媒介にして、「やま」を見ると、こう見える(このブログ)、
「四季の移ろい」とか、「農業」「里」という価値観を媒介にして、「やま」を見ると、こう見える(その人のブログ)、
しかも「やまに望む態度」として、
向こうが正道、
こっちが邪道(蛇道)、
という具合で。
何ともたじろぐ。


で、私の心境を端的に言うと、「ネット社会??」における「人生初の経験」と、
どう向き合っていいか、
どう振る舞っていいか、
わからずにいる。

これが、
「やーー、今日も暇だなー」
「ったく、ねみーーーなーーー」
「へらへらへら」とか、
そういう他愛もないブログだったのなら、何も悩まない。

上記のように、極度に、このブログと「対象がシンクロ」していたものだったから、凄く悩んでいる。
こちらから声を掛けて、このブログの存在を伝えるべきなのか、
何もせず、シカトしておくべきなのか。

こちらから声を掛けてみたい気はするのだけれど、
ひょっとすると、
こちらのブログのメインの行為と存在自体が、
「単なる暴力行為」「単なる山の荒らし行為」⇒「暴走族!!!!」と罵られるかもしれない。
向こうのブログについて、正直な想いを言えば、
「この感性(相当アミニズム的な、神がかった感性)の人に、最も嫌われたくない」
と言えるような内容のブログだったということ。

勿論、
このブログが、一定の完成を見て、一定の価値を発揮できたとき、
言い換えれば、
「単なる暴走族ではない」「価値ある行動をしている」と、
「走り屋と暴走族の区別が付かない人の目から見ても」、明らかなものとなれたときには、
勿論、悩むことはない。
しかし、今どうしたらいいか、悩ましい。
21世紀初頭独特の、人間関係の悩み事かな・・・、と。
(この件に関してなんて、ホント気軽にコメント下さっていいですから。はい)




さて、

永田師の最高速烈伝と、
「確信犯?」「故意犯?」というお話を要約すると、

私は、
永田師は「確信犯」で、
道徳的、宗教的あるいは政治的に「正しい」という確信に基づいて行為に踏み出していると思っている。
特に、2005年 「V35GT-R」なるものを「創り出し」、ドイツアウトバーンにて341km/hを記録したことは、賞賛して、なお余りある、と思っている。

一方、
楠みちはる師の『湾岸ミッドナイト』の視点は、「正当化するな」。
だから、永田師は、「単なる」「故意犯」。
言い換えれば、永田師の行為は、賞賛されない。


でも、私は、法学者ではない。
少なくとも、このブログに置いては、「私の魂は走り屋だ」。

その視点からすると、
実は、上のような、「ストリートにおける最高速追求行為の賛否を巡る議論」は、
実は、論題そのものが、あまり正確ではないと思っている。

「走り方の違い」が、「意識の違い」をもたらしているのではないか?
要は、
楠氏の描写には、
「一般車の間を、右に、左に、スラローム」という描写が頻繁に見られる、ということ。

従って、
「法定速度∞の道路で、他車がいない状況で、一本の車線上でひたすらに加速していくような行為はどうか?」
そこには、もちろんのこと、「命を奪う危険性のある他者」は存在しなかったわけだろうし、「破った掟」も存在しないということになる。

だから、
たぶん、楠みちはる氏がしきりに強調した、
「立派な、犯罪者だ」とか、
「正当化するな」とかいう価値観は、
「速度」ではなく、「走り方」から生じている、ということ。

それと、
私的に言って、すごーーーく不思議なのが、
『湾岸ミッドナイト』が、
「立派な、犯罪者だ」とか、
「正当化するな」という話をしきりに強調しておきながら、
どうして、最後まで、アウトバーンにおける最速追求の話に触れなかったのか?
ということ。

●V35 スカイライン
トップシークレットによるオリジナルマシン。
V35スカイラインをGT-R化したもの。
V35スカイラインにGT-Rグレードは存在していなかった。

●参考
コミック版『湾岸ミッドナイト』1巻~42巻 楠みちはる
講談社ヤンマガコミックス
2010年03月08日 イイね!

REMEMBER ME

REMEMBER ME古代・ローマ帝国の、とある時代。ウルピニアヌス大法官が事件の全てを判断していた。
もちろん、そんな制度では、すーーーぐに処理すべき案件が累積して、制度が物理的にパンクしてしまう。
「ウルピニアヌス大法官はこう考えて、こう判断する」
それが、法律という形で装置として形成された。それが、現代まで続く法律制度の直系先祖だ、といわれている。
(ちなみに、私は、この「ウルピニアヌス説」を信じていない。ローマ帝国が、律令体制の真似したものであると思っている)
とりあえず、通説として、現在まで続く「法」という装置は、そういう生い立ちだといわれている。
昨日付けのブログで、

この「走り」の業界、もう何万年も続いている業界だから、
体系立てて様々な項目を語ってゆくと、
必然的に世の中の「走り」に纏わる現象の全ての根本的性質が網羅される。
同様に、人も。
「走り」の世界は、もう何万年も続いている世界だから、もう、実は、「目新しい人」なんていない(と思う)。ただの一人も。
「走りを志す人」は、全員、実は、「以前にもいた誰か」に他ならないと思う。

これをはっきり言ってしまうと、
「走り」の世界、
「こういうタイプの人」⇒○○。
例文:「捕まることを誇りにしている人⇒あー、永田和彦とか」

では、私は、「誰」なんだろう???

という話をした。

「私は誰か?」
特に、このことが、走りを志す者には、
特に、今、走りを志す者には、重圧のように、精神にのしかかる。

これから、ロボットカーの時代がくる。
ロボットが、人間の運転能力を越える。
しかし、そんなにも「運転の上手いロボット」は如何にしてつくるのか?
それは、「運転が超絶的に上手い誰か」のやり方を、システムとして構築するほかない。
「ウルピニアヌスの思考形態⇒法律という制度」そのものである。

ははは。じょーだんだろ。って。
その萌芽は既にあるし、このブログでも取り上げた。

「淵上の足」。
「淵上氏ならこのようにアクセルを踏む」という。
この形態、
「ウルピニアヌスの思考形態⇒法律という制度」そのものである。

ただ、「淵上の足」の如きものは、
ドライビング全般では、まだ。

しかし、
ロボットカーが出来たとき、「誰の方法」というのが、後世、非常に重要となってくる。

だから、改めて「私は、誰か?」

そのとき、私は、「その人」であるか?
たぶん、それは、ないと思う。
「反面教師」として、プログラム上の検討材料とかには、なってたりして 笑。
(少なくとも私のペダルの足運び方法は、実際論としては合理的でも、運転教本が否定するところではある。)


さて、

永田師と最高速烈伝の続きの話。

このブログとしては、
また、私見としては、
永田チューナーは「確信犯」だと思う。
だから、永田氏は、道徳的、宗教的あるいは政治的な確信に基づいて行為に踏み出しているのであって、「自分が行う事は正しく、周囲(社会)こそが誤っていると信じ切っている」。
(違ってたら、ゴメンナサイ)

一方で、
『湾岸ミッドナイト』の楠みちはる氏の作品観は、
「自分を正当化するのをやめろ」。
すると、永田チューナーの行為は、単なる「故意犯」となる。

「自分を正当化するのをやめろ」

楠氏の『湾岸ミッドナイト』におけるこのスタンスは、相当早いうちに確立?されている。

かなり初期に近い方の巻で、
「刑法を犯していない?
他人に迷惑はかけてない?
とんでもない。
首都高を300キロオーバーで走る奴は、立派な、犯罪者だ」と言わせていた。
(たしか、北見チューナーに)

それと、(たしか)ブラックバードに、
「社会的常識、道路交通法、それらを全て知った上で、あえてそれを犯そう」
と語らせている。
(「社会的常識、道路交通法、それらを全て知った上で、・・・」
「しかし、自分には、それらよりもずっと大切にしている価値がある。それを追い求めるのが自分の使命だ。」と続ければ、確信犯となるのだが・・・、
楠氏の価値観、
「それら社会の正しいもの、あえて、それを犯そう」という「背徳感の美学?」には相当根深いものがあるらしい。
たぶん、楠氏は、「背徳感」が、相当お好きなのではないかと思われる。(法律とかの話は置いといても)

だから、私的には、ずーーーっと思っているのが、
「楠氏は、何故、アウトバーンとかに言及しないのだろうか」、と。
あそこでは、推奨速度はあっても、法定速度はない区間がある。
「犯罪的な速さ」であっても、「犯罪行為」ではない区間がある。

でも、
「背徳感の美学?」の果てに、楠氏が辿り着いたのが、
「正当化しようとするな」

「正当化しようとするな」が、
長年にわたる『湾岸ミッドナイト』の連載の果てに、
楠みちはる師が辿り着いた、作品の世界観であるらしい。

続きとまとめは、また明日以降。
2010年03月07日 イイね!

RIDER OF THE SKY

RIDER OF THE SKY大型オートバイで和歌山県の高野龍神スカイライン(国道371号)を時速188キロで走行したとして、橋本署は4日、同県紀の川市貴志川町北の会社員(42)を道路交通法違反(速度超過、通行区分違反)容疑で逮捕した。

永田氏の話、
「逮捕されることを誇りにしていた」とかいう話を書いていたとき、この事件の報道。

この事件において「目新しい点」は、「刑事訴訟法的な点」という一点に尽きる。詰まり、「投稿動画サイトの映像は、証拠として充分であるか?」という。

それ以外は、古典的話。「走り」に関しても。
その「古典的な話」は、違反を「認める」「認めない」という点なのであり、
特にこれを永田チューナーの価値観に当てはめるなら、
○警察の聴取に対して是認⇒性能が本物だと実証される。
○警察の聴取に対して否認⇒性能が本物だと実証されない。
という話になる。

参考ブログ
https://minkara.carview.co.jp/userid/314609/blog/17159674/

注―今回逮捕されたライダーが、永田氏と同じ感性の持ち主かどうかは、
正直、
わからない。
その上で、勝手に私のブログ観を自己中に語っているだけなのをお許し頂きたい。

ちなみに、たぶん、ユーチューブへの投稿動機は、「自らのライディング技能を知らしめたい」「龍神最速を知らしめたい」というのが第一かな?と推察していますが、
この動画が、「バイクテクニック的に凄いのか?」「龍神最速に資するのか?」などは、バイク系のブロガーの方々にお任せしたいと思います。
(いずれにせよ、「捕まることで」「この動画の価値が、バーチャルではなく現実のものと認められた」となったのは確かなこと。
警察の方々に少し問いかけたいこと。
以下の点を、考えましたか?と。
独自の証拠収集ではなく、「取り締まり対象者本人投稿による動画に基づいた逮捕活動」は、その動画の「本物としての価値」を揺るぎないものにしてしまう、ということを。
言い方を換えれば、「独自証拠の収集なしに、その動画主を逮捕することで、その動画が誇示する「最速伝説」を、真実のものとして、「真実のお墨付き」を与えることになる、と。
「表現の自由」とか凡庸な話は、このブログではするつもりは、ないです。)

ただ、
今、
みんカラでも、高野龍神スカイラインの話が相当盛り上がることとなっていますが、
私個人としての、本ブログに対する心情を忌憚なく言うなら、
「もう半年、早く語るようにしないとな」と。
つまり永田氏の話も、半年早くして、充分に、「最高速と速度取り締まり」をめぐる「哲学」(法哲学???)も考えておくべきだったな、と。
でもそれには、半年遅い!!!

正直、(「占い論」になるけど、)
「明日から起こってくること」を、「当該事象に対する情報収集なしで、その前日に予測する」のでは何の役にも立たない。
「当該事象に対する情報収集なしで、その現象を予測する」ならば、どう少なく見積もっても、半年前でなければならない。
そうでなければ、「走り」に関する占いとしての価値は皆無である。

この「走り」の業界、もう何万年も続いている業界だから、
体系立てて様々な項目を語ってゆくと、
必然的に世の中の「走り」に纏わる現象の全ての根本的性質が網羅される。
同様に、人も。
「走り」の世界は、もう何万年も続いている世界だから、もう、実は、「目新しい人」なんていない(と思う)。ただの一人も。
「走りを志す人」は、全員、実は、「以前にもいた誰か」に他ならないと思う。

これをはっきり言ってしまうと、
「走り」の世界、
「こういうタイプの人」⇒○○。
例文:「捕まることを誇りにしている人⇒あー、永田和彦とか」

では、私は、「誰」なんだろう???
いまの現状では、「その他大勢」だろう。
たしかに「誰か」ではあるのだろうけど、今の状態ではそれを追求する価値が、まだ生じていない。

ってゆーか、やっぱり、私のブログペースが遅すぎるだけ。
数日前から永田氏の話をしていたが、これでは、遅すぎる。
やっぱり、半年前からしておくべきだった。


高野龍神スカイライン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E9%BE%8D%E7%A5%9E%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3



さて、


トップシークレットの社長、「確信犯」であるような気も、という話の続き。
永田師の「職(天職?)」はチューナーであるため、
その、
最高速に振られたエンジン性能を、極限まで高めることにある。
そして、最高速に振られたエンジン性能を高めたら、そのまま飾っておくのか?
否。
恐らく氏の感性に拠れば、走らせなければならないだろう。
そのポテンシャルを発揮させることにある。

たぶんそれは、氏の「正義感」に反するのだろうと思う。
その、「クルマに義理立てするが如き正義感」は、
文字通り、宗教的、道徳的価値観といえよう。

では、
「速度制限は絶対正義にして、人類普遍の正義か?」
否!!

現に、場所によって法定速度は異なるし、
アウトバーンでは、推奨速度はあっても、速度無制限区間が存在する。
どう考えても、「法定速度」はローカルルールである。
決して、「自然法」のひとつでは、ない。

そんなわけであるから、
永田氏が、
天職、
「エンジン全開にすることが正しく、周囲の制限速度規定が間違っている」と、強く思っていれば、永田師は確信犯である。

こうした見方が出来る一方で、
『湾岸ミッドナイト』の楠みちはる氏は、
『湾岸ミッドナイト』最終巻近辺で、キャラクターにこう語らせている。

「自分を正当化するのをやめろ」と。

自分を正当化するのをやめると、単なる「故意犯」になる。
実のところ、私は楠みちはる師の提示する感性には「?」なところが相当ある。
(忌憚なき言葉でいうなら、M?とか 背徳観好き?とか)

こちら側の見方については、また明日以降詳しく。

プロフィール

「omnes viae Romam ducunt」
何シテル?   09/26 04:50
今を、近未来を、速く!上手く!美しく!走りたい。どこの歴史上の、どこの伝説の誰よりも。 「数の世界」を愛する者のひとりとして、いつの日にか「私」が「最速」の象...
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2012/02/04 19:31:14
今日の測定結果@静岡 
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群馬県測定教育施設線量マップ 
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2012/02/04 19:24:25

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