この記事は、
本当はこんなこと書きたくない・・・常識って言葉知ってます?について書いています。
以下に引用するのは、
http://www.jiji.com/jc/v4?id=201104touhoku0001
「被災地見舞い~エコカーで仙台、石巻へ」
ハイブリッド車で燃料節約
■今回のレンタカー、ホンダ「インサイト」
未曾有の被害をもたらした東日本大震災の発生(2011年3月11日午後2時46分)から、3週間あまり。居ても立ってもいられず、4月初旬、宮城県の「杜(もり)の都」仙台や港町・石巻に住む親族や知人宅を見舞いに訪れた。
電気や水道などのライフラインは復旧しつつあると聞くが、やはり自分の目で状況を見てみないと安心できない。同様の見舞い訪問を検討している人は多いだろう。そうした方々の参考になるよう、東北自動車道やガソリン入手の状況も伝える。(時事通信社記者・新井佳文)
長距離バスが東京―仙台間などで運行を再開しており、仙台市内への訪問ならバスを使うのが無難だ。緊急車両の通行を妨げる交通渋滞を作らぬためにも、できれば公共交通機関の利用が望ましい。ただ、今回の訪問地である石巻への鉄道やバスは復旧しておらず、やむを得ず、自動車での訪問を決めた。
4月1日早朝、レンタカー店へ。被災地では今もガソリンが品薄で、ガソリンスタンドでは長蛇の列ができていると聞く。
現地の人々の迷惑にならぬよう、自分のガソリン車でなく、燃費が良いハイブリッド車のホンダ「インサイト」で行くことにした。店のスタッフは記者の仙台行きを知ると、「決死の覚悟ですね」。首都圏の人間から見ると、仙台はそんな危険地に映るらしい。
リットル当たり20キロ前後走れれば、満タン(45リットル)で計900キロ走れる。東京―仙台間は約350キロ、仙台―石巻間は約50キロなので、無給油で東京まで戻れる計算になる。
■米袋を積み込んで
緊急車両が多い=安達太良SA
被災した方々に欲しい物資を聞くと、「ガソリン」という声が多かった。しかし、素人がまとまった量のガソリンを運ぶのは何とも危なっかしい。消防法では、専用の金属容器を使えば22リットルまでのガソリンを乗用車で運搬できると規定されているが、揮発性が高いガソリンの長距離輸送はやはり不安である。
安全策として、米を中心とする食料をトランクいっぱいに積み込んだ。「ひとめぼれ」を数十キロほど。関東に出荷された宮城産米を生産地へ「逆輸出」することになる。「米どころ」仙台藩の礎(いしずえ)を築いた初代藩主・伊達政宗候が知ったら、さぞ驚くに違いない。
東北自動車道を北上し、「これよりみちのく」の看板を過ぎて福島県白河市に入るころ、路面の状態が急に悪くなった。大地震で生じた亀裂が目立つ。段差や路肩を補強する工事が随所で行われている。最高時速は80キロに制限されており、慎重にハンドルを握った。
安達太良サービスエリア(福島県本宮市)に立ち寄った。安達太良山越しに、智恵子が「ほんとの空」と呼んだ青空が見える。東北地方で最大級の駐車場には、「広島市消防局」と書かれたポンプ車や「災害派遣」との布が張られた自衛隊のトラックなど、緊急車両の姿が多い。
ガソリンスタンドの営業状況
ガソリンスタンドには数台が列を作っていたが、この時は満タンまで給油可能だった(帰路で上りの安達太良SAに寄った際には、20リットルが上限だった)。
レストランや軽食コーナーも営業しており、被災地へ赴く迷彩服姿の自衛官らもラーメンなどで腹ごしらえをしていた。記者も「コーヒールンバ」が流れるレギュラーコーヒーの自動販売機でモカを買い、一服した。
■Fukushima
福島市中心部にも買物客が戻ってきた
福島県通過は戦々恐々である。原発危機が続く福島第1原発(通称「F1」)から漏れ出した放射性物質は風向きの関係か、50キロ圏外の福島市辺りで比較的高いレベルで観測されている。「Fukushima(フクシマ)」は今や、原発クライシスの舞台として世界的にその名を知られる存在になった。
折しも、NHKラジオから、「放射線量は、福島市が2.34マイクロシーベルト…」と読み上げる声が流れてきた。「健康に害がないレベル」と政府に言われても、問題は積算値なだけに、できるだけ避けた方が無難である。
福島市がある中通りでは、地震や津波の被害をなんとかかわしたが、それに続く原発や風評被害の直撃を受けてしまった。
安達太良SAで働くスタッフの女性は「放射能は風に乗ってふわりと気持ちがいいみたいで、こちらに飛んでくるんですよね。本当に困ります。自宅が農家で、これからジャガイモや稲を植える時期なので、どうしたらいいのか」と途方に暮れている様子だった。
3月下旬には、この近隣でキャベツ農家の男性が自ら命を絶った。丹精込めてつくったキャベツが「出荷停止」となり、深い絶望感に襲われたのだろうか。
余談ながら、NHKをはじめとするラジオは今回の大震災で大きく株を上げた。災害時には新聞やネットは脆弱(ぜいじゃく)で、情報入手のラストリゾート(頼みの綱)となった。不祥事続きで「NHK解体論」までささやかれた震災前とは様変わりだ。
放射線量と人体への影響
今回は現地入りを見送ったが、浜通りのいわき市に住む知人女性に現地の様子を電話で聞いた。市民は一時、原発のメルトダウン(炉心溶融)を恐れパニック状態となり、遠方に脱出し、市内はゴーストタウンとなった。
ただ今は、大半の会社が営業を再開し、新年度が始まったこともあり、人が戻ったという。放射能対策の帽子やマスクなしで外出する姿も見掛ける。知人女性は「3週間もたつと、逃げ疲れ、って言うんでしょうか、開き直りますね」と笑う余裕も見せた。
■夜の町にネオン戻る
飲食店が集まる国分町=4月1日、仙台市【時事通信社】
震災報道では、どうしても甚大な被害を受けた場所ばかりが取り上げられるので、訪問前には、仙台市内も相当なダメージを受けたと想像していた。実際には、若林区など海岸に近い地域では津波で多大な犠牲者が出たが、内陸部にある繁華街などでは大禍を逃れたようだ。
仙台市北部の泉区にある妻の実家に1日夜、到着した。オバ上は開口一番、「そんなに心配しなくてもいいのに」。
そうは言っても、不便な暮らしはじわじわと身にこたえる。電気は数日で、水道は1週間ほどで復旧したが、ガスはまだで、風呂もままならない。夜は零下にも冷え込み、冷水での料理や皿洗いで手が荒れる。ごみを自由に出せないのも、意外なストレスの元だ。焼却工場が被害を受けたため、仙台市は「家庭内に仮置きするなど、できるだけ一度に出すごみを少なく」と協力を求めている。
「3・11」の当日、突き上げ、うねるような激震が数分続き、2階では250キロもある暖房機器が倒れた。何とか難を逃れ、家族に大きなけがはなかったが、余震がくると恐怖心がよみがえるという。
さて、仙台の繁華街はどうだろうか。飲み屋が集まる国分町を歩くと、ネオンがこうこうと輝き、まぶしいほどだった。東京・銀座などが節電で薄暗いのと、対照的だ。「焼き鳥、いかがっすかあ」。客足はまばらだが、客引きの黒服たちの声が威勢良く響く。
地震発生から数日たつと、インフラ復旧を待たず、一部の居酒屋が営業を再開し始めたそうだ。「ガスはまだだけど、カセットコンロと電磁調理器で何とか料理してますよ。3週間もしたら、被災暮らしも疲れてくるじゃ、ないですか。息抜きできる場所を提供しないと」とワインバーのスタッフ氏。カラ元気かもしれないが、沈滞ムードを吹き飛ばそう、という仙台人の気概が伝わってきた。
■石巻、大津波の爪痕
翌2日、東日本大震災の最大被災地の一つ、石巻市を訪れた。ここは記者の父が若い時代をすごした「第2の故郷」で、今も友人の勝又敏さんが住んでいる。緊急車両や買い出しの車で三陸自動車道は渋滞しており、仙台から石巻までの50キロを移動するのに2時間以上かかった。
仙台市内ではガソリン不足が解消されつつあり、順番を待つ行列が短くなってきた。しかし、津波被害が甚大な石巻などはまだまだ品薄なようで、給油所の前には何百メートルにおよぶ無人の車の行列ができていた。翌朝のオープンに向けた順番待ちだ。
石巻市内に入り、父から託された支援米を勝又家に届けた後、大津波が直撃し、壊滅した南浜町を案内してもらった。現在のお住まいは外壁が崩れたものの、水害は逃れたが、親族や複数の友人は津波の犠牲となってしまった。
「南浜町は生まれ育った故郷。もう、何もかもなくなりましたね」。見渡す限りのがれきの山を見詰め、勝又さんはつぶやいた。大半の住宅は土台を除き何も残っていないので、実家や兄の家がどこにあったのか、なかなか分からない。長靴がずぶずぶ埋まるほどぬかっており、潮風には油や異臭が混ざっている。伝染病まん延の恐れもあり、手袋とマスクを着用して歩いた。
「勝又」と書かれた表札が見つかった。兄の勝又常雄さんの自宅があった場所だ。常雄さんは地震発生後、南浜町に近い日和山(ひよりやま)に、黒毛のニューファンドランド犬「ラッキー」を連れて逃げた。
地震発生から津波到来まで、タイムリミットは30分ほど。小雪に震えながら、赤茶色に見える大きな水の壁が陸地に近づいてきた。津波だった。家々や車をあっという間に飲み込み、流されてきた自動車同士がぶつかり合い、「ドーン」とごう音とともに爆発炎上した。地獄絵図だった。
避難所には、常雄さんの妻、英子さんの姿はなかった。忘れ物を取りに自宅に戻って、津波に飲み込まれてしまたったのだろうか。
あれから3週間。英子さんは行方不明のまま。「昨年(2010年2月)チリの地震が発生した際、津波警報が出て、南浜の人間はみんなちゃんと避難したんです。でも、その時は何も来なかった。それが今回の地震では避難の遅れにつながり、災いしたのかもしれません」。常雄さんはほぞを噛んだ。
■爆心地
廃墟となった南浜町をぼうぜんと見詰める家族連れ
石巻市でも復興は進んでおり、3月31日に大型スーパー「イオン」が営業を再開した。食料品売り場では、数量制限こそあるが、品薄気味なカップラーメンや納豆も数量限定ながら店頭に並んでいる。一時は高騰した野菜の品ぞろえもまずまずで、丸々太った神奈川県産ダイコンが1本198円で売られていた。ただ、ガソリン入手が困難なためか、買い物に来られる人の数は限られている。
市内の石巻赤十字病院は、国内はもちろん、世界中から駆け付けた医療関係者らの前線基地となっていた。駐車場にはボランティアらが寝泊まりするテントが張られている。ここには、倒壊した家屋から震災10日目に救出された阿部寿美さん(80)と高校1年の任さん(16)も入院していた。
阿部さんらが救出された門脇町や南浜町を見下ろす日和山に登った。石巻湾の手前に広がる土地が、すっぽり丸ごと焼け野原のようになっている。倒壊を逃れた学校などのコンクリート製建物は、自動車が衝突して燃え上がったため、どれも黒く焦げた痕が残る。
立ちすくみ、言葉が出ない。ある人は静かに手を合わせ、ある人は花を手向ける。『奥の細道』行脚の際に立ち寄った俳人・松尾芭蕉はここからの景色を絶賛したらしいが、今や、津波犠牲者の慰霊の地となった。
営業を再開した大型スーパー「イオン」
被災地取材を発生時から続ける後輩女性記者が、石巻被災地の惨状を「原爆を落とされて焦土となった広島や長崎のようでした」と形容した。確かに爆心地の写真を思わせる。筆者はハリケーン「カトリーナ」や阪神・淡路大地震を取材してきたが、これほどすさまじく壊滅した被災地は見たことがなかった。津波の破壊力は桁違いだった。
■孫を抱いたまま
卒業式を終え、会場をあとにする石巻市立荻浜小学校の卒業生
勝又敏さんの親友男性も、津波の犠牲になった。男性は地震発生後、まず保育園に通う孫を車で迎えに。ピックアップした後、病欠して自宅で待つ別の孫(小学生)を迎えに行く途中、津波に飲み込まれた。
後日、その車が見つかり、車内から、保育園児の孫をしっかりと抱きしめたまま事切れた男性が見つかった。「津波てんでんこ」の言葉の通り、地震後にはてんでん(=めいめい)に歩いて逃げるのが津波避難の基本とされる。しかし、男性にとっては、愛する孫を放って逃げることなど、あり得なかったろう。
震災から数日たって、勝又常雄さんの元に黒い財布が届けられた。行方不明になった妻、英子さんのものだ。
財布が戻ったきかっけは、英子さんがかわいがっていた黒毛のニューファンドランド犬「ラッキー」だった。財布につけられたラッキーの写真入りキーホルダーを手掛かりに、拾ってくれた人から複数の人をかいして、常雄さんの元に届けられた。「着の身着のまま飛び出して逃げて、家は何もかも流された。これが細君の唯一の遺品です」。
体重60キロを超える巨体のラッキーにも、「細君(英子さん)を失ったことが何となく分かるんでしょうかね」(常雄さん)。震災から元気がなく、あまりほえなくなったという。
急ピッチで建設が進められている仮設住宅
◇燃費はリットル19キロ
今回の3泊4日の訪問で、計1058キロを走行した。
燃費はリットル当たり19キロ。高速走行が中心のためハイブリッドの持ち味をフルに発揮できなかったが、それでもガソリン車の実燃費を数キロ上回る。行きの安達太良SA下り(福島県本宮市)で念のため給油したので、宮城県内ではガソリンの心配をせずに走ることができた。
(以上、引用)
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こういうページは、しばらく経つと消えてたりするので、引用しました。
思うにコレ、
みんカラのプレスリリースなどのページにこそピタリとくる内容である気がした。
しかし、一歩間違えば、トラバ元の人が指弾している事例となってしまう。
ちなみに、自分は、東北域まで、今、往けません。
「日本人は我慢強いと言われていますが
東京が被災した場合は
強奪、襲撃など最悪な事態になるでしょうね」
とトラバ元の人がコメント回答する通りでして、
既に、なってます。
3.11以降、震災の不安を上手く利用して、
不法投棄やら、器物破損等の犯罪を行う実行する者が、東京多摩地区で既に出てきている。
私と我が家は、今、そうした犯罪者と、場合によっては命も張って闘わなければならない。
そうした犯罪者と戦い、それらの犯罪執行を抑制する装備を整え、
東京(の治安)を維持することが、
今後の日本復活における重要ポイントである、と私は今、思っている。