
この記事は、
青山繁晴さんの取材した原発とこれからのエネルギー問題について書いています。
←フロントタイヤハウスの画像。こちらは次回の記事に少しだけ関係する。
原発、海水利用の冷却断念…外付け空冷装置に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110501-00000822-yom-sci
読売新聞 5月2日(月)3時8分配信
東京電力は、福島第一原子力発電所1~4号機の危機を収束させる手段について、本来の冷却システムである海水を使った熱交換器の復旧を、事実上断念した。
熱交換器が動けば原子炉などの温度を劇的に下げることができたが、ポンプ類が集中するタービン建屋に大量の汚染水がたまり、既存のポンプを使う熱交換器の復旧には相当の時間がかかると判断した。
今後は、補助的な位置づけだった空冷式の「外付け冷却」によって、100度未満の安定した状態(冷温停止)へ徐々に持ち込むことを目指す。
熱交換器は、海水が流れる装置の中に、原子炉などの冷却水が流れる配管を浸し、低温の海水で高温の冷却水を冷やす仕組み。冷却効率が高く、5、6号機では3月19日に熱交換器が復旧すると、原子炉内の温度が1日で約200度から約30度まで下がった。
東電は1~4号機でも熱交換器の復旧を急いだが、タービン建屋の地下などには、原子炉から漏れ出したとみられる汚染水がたまり続けて排水が追いつかず、ポンプ類を復旧させるめどが立たない。また、余震による津波対策として作業用トンネル(トレンチ)をコンクリートで塞ぐことになり、トレンチ内の配管を通して海水を熱交換器へ引き込むのが難しくなった。 .
嗚呼・・・水冷式の空冷式のって・・・これらを目にするのは、「自動車史」だけで充分だ、と思っていたのだが。こんなところで目にすることになるとはな・・・。
あと、「この件」に関する現時点での最新情報はコレ↓でした。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110505/t10015704841000.html
「事故後初 作業員原子炉建屋に」5月5日 4時20分
東京電力福島第一原子力発電所の事故で、5日、1号機の原子炉建屋に事故後初めて作業員が入る予定です。原子炉の冷却機能の回復に向けて、水を循環させるシステムを作るための一歩ですが、その実現には建屋内の放射線量をいかに下げるかなど、解決しなければならない課題が数多くあります。
福島第一原発1号機では、5日、3月の水素爆発以降、初めて作業員が原子炉建屋の中に入り、放射性物質に汚染された空気を浄化する装置を設置する予定です。東京電力は、4日、本格的な冷却機能の回復に向けて、既存の設備も利用しながら原子炉の水を循環させて熱を取り除くシステムを作る計画を明らかにし、早ければ今月中旬にも建屋内での作業を始めたい考えです。しかし、その実現には解決しなければならない課題が数多くあります。1つは、原子炉建屋内の放射線量をいかに下げるかです。東京電力では、5日以降、3日間ほどかけて建屋内の空気を排気し、フィルターを通してきれいにしたうえで建屋内に戻すという作業を続ける予定ですが、どこまで空気が浄化できるかは未知数で、人が長時間作業できるか分かりません。作業員が建屋の中に入れたとしても、循環システムに必要な配管の周りの放射線量が高いことも予想され、配管を水で洗い流したり、鉛の板で放射線を遮へいしたりする作業も必要になる可能性があります。さらに、配管や弁が壊れていると、破損の状況によっては取り替え作業に時間がかかることも考えられます。一方で、冷却のためには、核燃料の上の高さまで格納容器を水で満たすことが必要ですが、格納容器の圧力が下がりすぎると水素爆発の懸念が出てくるため、水の注入量と圧力の変化を注意深く見る必要があります。東京電力では、こうした数多くの課題があっても、今回の計画が最も実現性が高いとしており、ひとつひとつ問題を解決しながら着実に作業を進め、まずは1号機で原子炉の安定的な冷却を実現したいとしています。
そして、昨日に続いて、同じ人が書いたらしい小説に触れたいのですがね。
↓
「小さな義援隊 スズキジムニー」
http://www.geocities.co.jp/milo_impulse/novel/car/jimny.html
↑
水冷の「空冷」のって話も含めて、もう、今となっては文学作品として楽しむことが出来ない。
↓
神戸は震災から復興した。あの時仮設住宅暮らしをしていた時に生まれた子も小学校に上がった。
誰もが震災の恐ろしさを忘れかけ、地震に対する備えを忘れかけていた頃、鳥取県西部地震は発生した。
幸い、神戸地区は大きな打撃を受けなかったが、その地震は我々に、震災はいつまた誰を襲うか分からないという事を思い出させてくれた。
何もかも失いながら、全国の人々からの励ましを頂いて生かされた自分。
ニュースで被災の状況を見ながら、かつて自分達が味わった苦難を山陰の人々が味わっている事に心傷めた。
そして、傍観者でしかない自分に腹立たしさを感じた。
私にできる事など無かった。
いや、無いように思っていただけかもしれない……。
その時、ひょんな事から私はジムニーという車と出会った。
ジムニーという車は以前から知っていた。
スズキが作る、軽の四輪駆動車だ。
だが、私はジムニーに対して偏見を持っていた。
本格的な四輪駆動車に乗れない貧乏人がオフロードごっこをするためのオモチャだと……。
しかし、ニュースで見た震災現場の映像は、私の認識を180度覆すに足る物だった。
ボランティアを乗せて、被災地を駆け回っていた小さな車は、驚くほど小回りが効き、すばしこく、何より逞しかった。
そして、ニュースに出ていたジムニーに乗ったボランティアが、仮設の時以来に親しくさせてもらっていた河田氏だと知るや、私はすぐに河田氏に連絡を取り、ジムニーに乗った。
そして、私の偏見は完膚なきまでに叩きのめされ、そのまま家族の反対を押し切って中古のジムニーを購入してしまった次第である。
ジムニーで遊ぶのが私の新しい趣味になった。
そして、オフロード走行の腕を磨きながら、いつかこれが人様の役に立てばいいなと、漠然としたイメージを持つに至っていた。
とある休日の正午頃、庭先でジムニーの洗車をしていると、突然私は軽い目眩いに襲われた。
急に視野が揺れ始め、足場がふらふらし始めたのだ。
私は愛車に寄りかかるようにすると、揺れは突然縦揺れの激しい物に変わった。
地震だ!
私は目眩いではなく、あの地震の再来である事を悟った。
慌てて玄関に走り込むと、私は声の限り台所にいるはずの妻に叫んだ。
「信子、ガスを止めろ!」
かの震災では揺れが収まった直後、市街地の至る所で火災が発生し、そのために死者が莫大な数に脹れ上がったのだ。ようやく忘れかけていたあの恐怖が、瞬時に脳裏に蘇ってきた。
「大丈夫、止めたから」
妻はそう言いながら、黄色い袋を持って家の外に飛び出して来た。
あの震災の教訓を我々神戸市民は忘れていない。
見ると、隣近所でも玄関から家族が飛び出してきている。
揺れはなおも続いている。家も電線も何もかも激しく揺れている。ミシミシ、グワングワンという、なんとも形容しがたい嫌な音が辺りに響く。
結構長い揺れだ。
「おい、子供は?」
その場に子供がいない事に気付き、私が血相を変えて叫んだ時、二階にいた小学生の長男と、幼稚園に通う長女が玄関から駆け出して来た。
「お父ちゃん、恐い!」
長女が鳥取西部地震以来の大地震にワンワン泣きはじめたものだから、私は腰を落として長女の頭を包むように抱いてやった。
「大丈夫。父ちゃんが付いてるから」
そうこうしているうちに揺れも収まり、取りあえず何事もなく地震は収まった。
「恐かったわね」
「今度は何処で地震が起きたのだろう」
確かに揺れは鳥取県西部よりは若干激しかったが、あの阪神淡路大震災ほどではなかった。
幸い、近所を眺めても家が倒壊したような形跡は無い。
隣近所の人が集まって、興奮気味に先程の地震のことを振り返っていた。
近所付き合いの好きな妻は、その話の輪の中に入っていった。
子供たちもまた、近所に住む友達の姿を認めると、そちらの方に駆けていった。
どうやら、神戸は無事らしい。
私も近所の話の輪に入ろうかと思った時、家の電話が鳴り始めた。
近所付き合いは妻に任せておこう。そう思って、私は家の中に走った。
電話の相手は、河田氏だった。
「横田はん、大丈夫か?」
「ああ、びっくりしたけどな」
「びっくりしたな。この間の鳥取の地震ぐらい来たな」
なんとも支離滅裂な会話である。
「地震速報見た?」
私は河田氏に聞いてみた。
「ああ、今さっき地震が発生したっていうテロップが出た」
「震源は?」
「あ、ちょっと待て。NHKが番組中断した……和歌山県南海沖……」
「南部地震!?」
私は、河田氏も驚くほどの声を出していた。
「和歌山県南部が震度7だと」
「おいおい、それは本当か?」
「こりゃ、相当だぞ……」
河田氏と電話しながら、私もテレビを付けた。
NHKのニュースは、徐々に震災の規模の大きさと被害の甚大さを伝え始めていた。
火災が発生したというニュースも入り、どうやら阪神淡路大震災の時に匹敵する大被害が出ている事は間違い無さそうだった。
河田氏との話は、いつしか阪神淡路大震災の時の事に移っていったが、あまり長電話していても他の安否を気遣う電話が届かないだろうという事で、一旦打ち切る事にした。
私は阪神淡路大震災を思い出していた。
住んでいた家は瓦礫の山と化し、ライフラインは遮断された。
家財をほとんど全て失い、衣食住全てに困窮することとなった。
我々は決して自力で復興出来たわけではない。
各地から寄せられた義援物資のおかげで、どうにか命をつなぎ、仮設住宅の不自由な生活の中で心身を癒し、ようやく自分の生活を取り戻せたのだ。
生活の中から震災の傷痕が消えたのは、丸五年経った頃だった。
一瞬の地震は、その後五年に渡って我々一家を苦しめた。
復興支援の進め方については、各所より様々な意見が挙がっていた。
半ば人災とも言われた震災直後の復旧活動。
そしてお役所仕事で後手後手に回った支援活動。
だが、そんな中で献身的に行われたボランティア活動の有り難さを私達は忘れない。
ボランティアの人を見て、生きようと励まされた人は多い。
我々も、その時が来たら何かをしよう。
そう、心に誓って今まで生きてきた。
一時間も経つと、南海地震の被害状況が徐々に明らかになっていた。
和歌山市以南の町では道路の至る所で崖崩れが発生し、特に海上からも近づけない山間部は、完全に陸の孤島と化していた。
火災は阪神淡路大震災の教訓もあり、自衛隊と消防が協調して活動し、ヘリを使った素早い消火活動も行われたおかげでようやく鎮火に向かっているようだが、ライフラインは各地で寸断され、復旧の目処は立っていなかった。
悶々とした気持ちで少し散らかった家の中を片付けていると、今日何本目かの電話が掛かってきた。
河田氏だった。
鳥取県西部地震の際に河田氏が取った行動を考えると、電話の内容は大方想像がついた。
「横田はん、ありったけの無線機持って、ジムニーでこっちに来てくれんか?」
「行くのか?」
「災害状況見たろ。神戸のジムニークラブは全員出動や」
「分かった、すぐ行く」
三十分後、スーパーを営む河田氏宅に着くと、新旧数台のジムニーが既に待ち構えていた。
河田氏は、災害時に最も強い車が何かという事を熟知していた。
ジムニーのクラブを作った時、災害ボランティアとして活動したいという事も常々言っており、実際に鳥取県西部地震では他のボランティアグループと一緒に支援活動を行った実績もある。
「横田はんの車にもなんぼか荷物積ませてもらうで」
「何を積むんや?」
「市から預かった毛布と、うちで用意してあった少し日のたった缶詰」
クラブは神戸市の認定を受けている。
そのためか、市で保有している物資備蓄の一部を復興支援用に譲り受ける事が出来たのだそうだ。
足らない所は本業であるスーパーの在庫品から探す。
ジムニーは元々あまり荷を積める車ではないが、それでも積めるだけの援助物資を積み込んだ。
そして、河田氏から現状が伝えられた。
特に田辺市近辺での被害が大きく、現地は家屋の倒壊数千戸。電気、ガス、水道が各地で寸断。既に衣食住の全てに事欠く状況で、人手も必要であるとの事。
また、主要な道路はほとんど全てが山崩れにより遮断されており、迂回ルートがなかなか見つからない状況だという事。交通手段が無いのである。
まるでCIA並みの情報収集能力だが、どうやらアマチュア無線を使って活発に情報交換をしているらしい。
携帯電話も基地局のキャパをオーバーし、接続し辛い状態が続いている。
いざという時のアマチュア無線の力を思い知らされる。
我々は準備を済ませると、さっそく和歌山方面に向けて出発した。
続きが読みたい人は、
http://www.geocities.co.jp/milo_impulse/novel/car/jimny.html
の人のページへ行って読んでください。
また、トラバ元の人の言うとおり、
なんだかんだ言ってこうして平和なGW を迎えています。
不幸の中に光が見えています、
と捉えることも可能なような気はします。