
この記事は、
正統の哲学、異端の思想【野獣(野生動物)・ルソーの理想人間】#6について書いています。
ちょっと・・・最近の記事では、
「ルソーのリソー」でつか~
野獣が何とやら~~
な話をしてきていて・・・ちょっと今日、とある記事を引用・落書きします。
(実は、先日の記事でリンク張ってるんですけどね)
なんとも、意識が連想しちゃうというのかね、そういうカンジです。
↓この記事は、私は、もう、連想なしには読めません(苦笑)。
正統の哲学、異端の思想【野獣(野生動物)・ルソーの理想人間】#6
野獣(野生動物)・ルソーの理想人間
理想の人間像を荒野の野獣(野生動物)に見出す、あるいは人間の本性に関する哲学的思惟を野獣との比較を通じて追及した哲学者は、人類史にルソーしかいない。これがルソーの『人間不平等起源論』の核心でありすべてである。あのヴォルテールですら、「いまだかつて人間をけだものにみせようとして、こんなに才智が用いられたことはありません。
今あなたの著作を読むと、人は四つ足で歩きたくなります」(1755年8月30日)
<↑連想:「あなたの著作を読むと、人はフ●チンで歩きたくなります」と言う方が、より、正しいのではないか?>
と率直な読後感を吐露している。ルソーはまた。人間の平等を主張するにも、動物を基準(モノサシ)にして論じている。
ルソーが「自然に帰れ」と絶叫するのは、その理想とする人間像として、野生動物と差異のほとんどない(自然人)(未開人)を描くからである。この「自然人」なるものは、野生の動物と同じく「自己保存」の原理で生きているとする。そして「自然人」しか存在しない、仮構上の人類のあの原始段階をもって「自然状態」と定義する。つまり、迷信の仮構(ミュトス)に過ぎない(自然状態)とは、人間でありながら人間が人間的関係・社会的関係がまったく成立していない状態のことを指しており、これをもってルソーは人間にとって地上の理想郷(ユートピア)と思弁した。
人間的関係もない社会的関係もない人間とは、
現実には人間は動物ではないから人間のなかにそれを捜すとすれば、浮浪児あるいは流浪のならず者のこととなる。
<↑連想:甘い!!
「野獣」になるためにすっぽんぽんに!!山に、裸族となって住むことは可能である!!>
そのとおりであって、
<↑連想:そのとおり ではない!!
「裸族」になれやwww 「野獣」になれやwww
「野獣」になるには、まず、「裸族」にならねばならないッ!!>
実はルソーの「自然人」とは具体的にはこれらをイメージしているのである。少年ルソーは、野生動物に等しい浮浪児であった。またジュネーブからパリに流浪するならず者、それがルソーであった。十代の少年期の自分の特殊例外的な生きざまをもって人間のあるべき理想、理想の人間と狂的妄想しての追求の究極のその表現が、「自然人」「自然状態」の奇怪な概念の理論化となったのである。
ルソーが過去の自分自身をもって至高の神のごとき人間だと自らを理想像としたのは、
<↑連想:
誰かさんのつくるページのコンセプトにそっくりだ>
単なる妄想にすぎないのであるが、しかしルソーは天才でもあって、この妄想を体系的に理論家すれば文明の政治社会が一瞬にして破壊されてしまい凄絶な暗黒の社会に転化できることを知っていた。なぜなら、「自然状態」とは「現在の政治制度」「文明の政治制度」と対極であり、これらがゼロになった状態を意味する。だから、(自然状態)を最高・最善のものとルソーの妄想のままに軽信すれば、「現在の政治制度」「文明の政治社会」は唾棄すべきほどに最低・最悪のものに見えてくる。つまり、ルソーは読者をして、「現在の政治制度(政治社会)を嫌悪しそのすべてを破壊する運動にひきずり込むその目的をもって、「自然人」「自然状態」を理想とし美化する高度な洗脳力の高い政治宣伝のロジックを展開したのである。
↑ヴォルテールは、「四つ足で歩きたく」なっただけで、フル■ンで歩いてはいないんだけどね
「野獣(野生動物)」が「自然人」という名の理想の人間であるとすれば、野獣には私有物はなく私有の格差もないのは当たり前だから、
<↑連想:ココんトコ、突っ込みどころ満載のような気がするんですが、それはムツゴロウ博士とかの分野でしょうから、私は素通りしときます^^;>
この「自然人」の相互間では富において、完全な「平等」が天与に存在する。このことは意味深長で、裏返せば、社会的「平等」とは、人間が人間であることをやめ、野獣(野生動物)になることと同義語だということである。
さらに、人間が人間であることを放棄して野獣(野生動物)並みになるべきとするルソー的「平等」の社会が実現すれば、必然的に人間の尊厳とか知性とか徳(仁徳)・・・)とかいうものはすべて存在しえない。
<↑連想:
「これから迎えようとする新しい社会。
今の物質文明は滅び、淘汰された後、人間としてどう生きていけばいいのか(by富士山ニ■ギ)」
「↑だったら、文明生活を放棄して、素っ裸で森の中で暮らしやがれ!!=「 野獣 になれやwww」
↑如何に、デタラメで不誠実な回答か(爆笑)>
さて、ルソーが理想的人間を論じるに動物を範とするのは『エミール』においても人間の教育を、「人間も乗馬のように調教しなければならない」『上巻、23頁』と、馬の訓練と同一視している。
<ここで思い出すのが、#4で紹介したkoreyjpさんの次のコメントである。
「数学の天才であった岡先生は、デカルトの真理にキラリと光るものを見たのでせう。
『方法序説』には、デカルトが「我思ふ、故に我あり」」の真理を発見した前後のことが書いてあります。デカルトは軍人として北ドイツに進駐し、夜営して焚き火を見てゐるときに、この真理を思ひつくのです。人間には原始時代の記憶が潜在意識の中に残ってゐます。だからこの文章を、美しいと思ふのです」
岡潔は真理に到達するのに、原始時代の記憶(潜在意識)が重要な働きをすると考えた。岡が抱いた原始時代の記憶というものと、ルソーの「自然人」とを混同してはいけない。岡を代表とする日本人と一般的な西洋人の自然の掴み方がまったく違う。日本人の自然観は、自然は時には荒れ狂う台風や地震というような天災をもたらすが、人間が自然に感謝さえすれば豊かな食べ物や癒しの環境を与えてくれると思っている。そこには人間と自然が一体化するものがある。それに対して西洋人の自然観は、人間と対極に存在するものが自然であり、人間と自然との間に対立の関係がある。
だから、ルソーがたとえ自然の状態を理想と思弁したとしても、彼は恐らく自然の代表を象徴する動物に、日本人が抱くような、木庵が抱くような親密さをもっていなかっただろう。ただ現実の自己の惨めさを動物や自然の中に逃避し、それを妄想にも「理想の世界」であると、中川の言葉を借りれば仮構したのである。西洋のものの見方、対立法、対極法からすると、ルソーの自己の存在が惨めであり苦痛を伴うもの、その原因は現行の政治体制に問題があり、またそれを強調するために、その対極のものを理想のものと仮構しなければならなかった。このあたりのルソーの発想は狂っている。しかし天才であるルソーの論理の精密さは、仮構をより際立だたせ、読者を麻薬に侵されたように、朦朧とさせてしまう。
ヴォルテールでさえ、「四つ足で歩きたく」なったぐらいであるから、その筆力は並たいていのものではない。
<↑連想:並たいていのものではないし、ルソーは天才だろうが、まだまだ!!(笑)
ヴォルテールはフ●チンで歩いてはいないッ!!>
明治以前の日本には哲学が存在しなかったという。西洋哲学の二分法(対立法)は、物事を分析するのに、明確で都合がよい。善悪、美醜、聖邪の二律背反を論理化、浮彫にするのが西洋哲学の特徴である。それに対して日本において西洋流の哲学が生まれなかったのは、この二律背反の、ものごとをはっきりした対極に置く分析法をしない自然観を日本人がもっていたからである。それは自然と自己の存在を同じに見る、また善悪、美醜、聖邪を対立に見るのではなく、「即」の思想で同一に見る、善のなかに悪を、美の中に醜を、聖なる世界に邪をみる、つまり、明治以前に西洋哲学的発想がなかったということである。この日本の即の考え方は、西洋人にとって実に不快で理解に苦しむ自然観、考え方なのである。
日本的「即」の考え方の方が西洋的対立の考え方より円熟しているのであるが、明治以降の物質文明として入ってきた西洋文明に目がくらみ、
即の考えをないがしろにする傾向になってきた。
↑2011~2012年の日本では、違う!!!!!!!
「人間から遠いって所に置くって 自然サイクルのわがままじゃないかね。
生きていれば怪我もするし死にもする」と!!!!
即の考え方は大切にされまくっている!!!!
岡潔はフランスに留学し、西洋の文化の中には何ら日本文化を凌駕するものはないとして、日本に帰り、日本の風土の中で沈思することにより、逆に世界的な数学の発見をするという皮肉なことをなした。岡が到達した数学的な世界だけでなく、日本への文化観には、世界が羨望する自然と人間が溶け合う、即の考えが潜んでいる。そのことを岡は訴えたかったのではないか。
岡が抱いていた自然観は、まさしくルソーのそのものではなく、たとえデカルトとの自然観とも違うように思う。
木庵はアメリカに長く滞在しているが、アメリカ人の頭の中が日本人とは全然違うように思う。その最大の理由が自然観の違いである。ただ言えることは、アメリカ人に日本人の自然観を言ったところで絶対に分らないということ。彼らの多くはヨーロッパに祖先をもち、西洋的自然観で生きてきている。
日本人的な自然と人間を同一にする「即」の生き方などすれば、過酷な自然、過酷な社会から押しつぶされてしまう。自然とは闘うもの、社会とは闘い造り上げていくものという、対立的なものの見方を堅持している。そうしなければ生きていけない苛酷な環境なのである。
⇒私の言葉:「「原子力大事故」ったときに、
それはないだろう・・・と。
ちょっとこれは・・・、
現象をありのままにみて、
それを科学技術力で戦おう・科学技術力で抑え込もう、
それが、現代戦争云々、という価値観(※)だと思うし、・・・・」
⇒言いたいこと:
「原子力大事故や、重金属汚染のような大規模環境汚染事故の局面で、
日本人的な自然と人間を同一にする「即」の生き方などすれば、人体が過酷な汚染物質から押しつぶされてしまう。自然とは闘うもの、社会とは闘い造り上げていくものという、対立的なものの見方を堅持すべきである。そうしなければ生きていけない苛酷な環境となる。
それが、
原子力大事故や、大規模環境汚染の局面である」
日本の近代の政治思想なるものは西洋からの輸入であり、現実に動いている日本の政治体制にはこの西洋的政治思想が影響を与えている。ところが日本は昔からある儒教に代表される人間学としての政治の考え方がある。ただ強烈な刺激を伴ってやってきたルソーの政治思想にしてもマルクスの政治思想にしても、あまりにも強烈で、日本が本来もっている暖かくも豊かな政治の考え方を、いとも簡単に崩してしまったところがある。
今日本に問われているのは、この西洋の対立思想、分析思想、合理主義をいかに、日本の土壌で利用、包含するかということだろう。
↑「■原発とは結局ギャンブルの要素が一部あって
今までは大丈夫と言われて、
リスクを見てみぬ振りをして
ギャンブルをしていて大損したと、
後は、ちゃんと分かってギャンブルするか?
損切りしてやめるか?
大王製紙の御曹司って事です。
カジノで大損こいた彼と
日本人は実はあんまり差はないのです(汗)」
「今回の震災で、水力も地熱も外部電源喪失で停止すると知って唖然としました。(タービンは動くけれど電気が送れない・・・)送る為の電気であって、受入電気は外部なんですから、エエッーって感じです。
ホント発電所には電気がなかったんです・・・。」
私は、
「北斗神拳」の探求者ではありませんから。
私は、
「峠の走り屋」ですから。
「現代文明の利器」を使いこなして(・乗りこなして)走ろう、
と志す者ですから。
「今の物質文明は滅び、淘汰された後、人間としてどう生きていけばいいのか」
とか言われちゃうと、
最大レベルのイヤミ(※)を述べざるをえないのであります
中川のこの本での役割は、西洋からやってきたルソーやマルクス主義の悪魔性を暴露し、日本の風土にあったよき政治思想を創り上げるための土台を造ろうとしているように思う。
林田氏(陽明学左派の発掘者であると同時に実践家)などが目指している、陽明学左派の人間学が、実は日本の風土に一番あった政治学への道を示唆していると思う。そこで、木庵は中川の政治学と林田の人間学を結びつけたいと思っている。そして、今後この方面の探索を行なっていこうとも考えている。木庵>
と、いう具合に、
少しだけ落書き?しつつ引用してみました。
正統の哲学、異端の思想【野獣(野生動物)・ルソーの理想人間】#6より。
Posted at 2012/03/09 07:32:20 | |
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