今回の記事も、
ちょこばさんから寄せられた、↓プレミアムな?コメなどに呼応しつつ、進めます。
へのコメント
ちょこば(旧chocovanilla)
2013/02/25 03:04:45
ちょっと深夜エントリーでハイなちょこばです。最近はインターネットばかり読んでます。本の虫失格です。昔は膨大な本を読む気力と浸る力があったのですが、最近は年でしょうか?はまる本が減ってきました。
横山秀夫とか、海堂尊みたいな軽いのしか浸れないっす。
体罰云々もあの話は…多分ただの犯罪でいいと思います。目指すのは体罰じゃないです。支配ですからね。
罪の話も原罪系は切り離す事にしました。幾らでも合同で創作出来ちゃいますからね。支配系でくくれそうな気がするんです。「原罪意識と支配力」を、改めて気付かせて頂いたような気がします。
ええと…支配とは罪つくり、と言う訳ですよ^^;
その理論をぶっ壊しがちな私は多分、元も子もない、道義観念が少ない人間であり、その一方で強烈な自意識(ある意味の変なプライド)が裏にある事によってバランスをとっている訳で、支配系の方々からは非常に厄介な異分子で、故に非常に、支配の心得を持って矯正を心がけていらっしゃる方々からすると、存在自体が罪深くもあるでしょうね。
バランス別解主義が日本の教育の中で如何に「異端で間違い」とされてきたか、それを主張していれば叩きつぶされますが、「表向き妥協している人間」こそ、「教育支配主義」からは恐らく「真の罪悪」である、と言う事をふと思い浮かべてます。
それを色々こねくり回せば、「罪と言う存在を哲学的に概念化し、自在に操って人を支配する事」は可能なんじゃないのかなあ。ついでだからその論法も身につけようかなとは思ってます。どうも罪で支配すれば人間をもっとも扱いやすそうなのが、見えてきましたから、それはそれで毛嫌いせず、その法を知るべきじゃないかと。
深夜の独り言でした^^;
ココのブログでもしょっちゅうでてくるようになった・・・
「罪」 「罪」 「罪」 (笑)
思えば、
風さまコメの「罪」発言が発端だったような気が^^;
それに関連した、ちょこばさん(などがしていた、)の「罪」に関する話―について。
(以下、以前のエントリーのくりかえし。端折ると、ワケわかんなくなるから。)
取り敢えず、 風さまが言ってた 「罪」 は、
この↓図(大塚喜一弁護士の本)で言うところの、
「法律的責任」⇒「刑事(責任) 「〇〇罪」」 のこと ではないらしい ――。
この↑図(大塚喜一弁護士の本)で、強引に分類するなら、
「道義的責任」のことなんでしょうかね^^; ? ? ?
それと―
太宰治が言った ― 罪 ―は、
「道義的」のさらに奥にある、
倫理的・宗教的?なものかな――? と^^;
渦流
(・∀・)罪深い私ですが
開き直って「なんでもこいやぁ!」って気持ちでいますが─
たいしたことも書いてないのでぁw─粘着もありません。
逆に“養生テープ”くらいのコメントをしに行って嫌がられていたりしますw(最新は「高知の警察云々」てイイねたっぷりの…)
…「7つの大罪」の
少なくとも4つは犯しまくってるんですけどね~…
(あと3つは 思い出せないというww)
罪深い(・∀・)!
コメントへの返答
同じく罪つくり?な私ですが、
やっぱりビビりは治りませんね^^;
多分それを察知してくると自己防衛機構で人格変わっちゃうんですよね…
渦様はさりげなく気遣いの人だから^^でもね悪人こそ救われるって親鸞聖人が言ってたじょ。
なむあみだぶつ--!!!
そう考えると親鸞も深いんですよね。さりげなく子供作りまくってますけど…^^;
↑こういったやりとりが―としも、しっくりくるもので。
ただ、
私は太宰師のファンではないので、
また、太宰師の大ファンを自称するOモデルなどとは違って、
『私はまだまだ、「走り屋失格」です。』
などとか言い続けるつもりはさらさらないもので――
私に言わせるに、
「失格」という状態は、
そこから脱さなくてはならない状態であって、脱するために努力すべき段階であって、いつまでも継続していてよい状態ではないので――、
いずれ私は、
イノシシを的確にスペックアップさせることができるようになり、
跨ったイノシシに絶妙なムチを入れ、
九十九折の峠道を「空中の回廊」を使いこなし、
誰よりも短時間で走り抜けることのできる、
リスペクトされるほどの走り屋になりたい、
とか言っちゃってる人なので――、
(=太宰先生に「共感」できていないので――)
・・・要するに、
太宰治が「罪」と言って、
その「罪」が、どういう性質 に該当するか?
について、
猛走峠説は、誤解に基づいた記述をする可能性も高い、ということで(苦笑)。
但し、
私見として、
「自信モテ生キヨ
生キトシ生クルモノ
スベテコレ
罪ノ子ナレバ」
↑
この文面の用法では、
「道義的」のさらに奥にある、
倫理的・宗教的?なもの?(←「原罪思想」?)と思われますが――
太宰治先生自身が、
自分自身に対して、
感じていた 「罪」 は、
刑事責任・・・「殺人罪」であったのではないかなぁ―――?
と――自分は、みています。
(以上、以前のエントリーのくりかえし。
端折ると、ワケわかんなくなるから。)
うん。
ホント、わけわかんなくなりそうな話―――ですね―――。
「自信モテ生キヨ
生キトシ生クルモノ
スベテコレ
罪ノ子ナレバ」
↑
この文面の用法では、
「道義的」のさらに奥にある、
倫理的・宗教的?なもの?(←「原罪思想」?)と思われますが――
太宰治先生自身が、
自分自身に対して、
感じていた 「罪」 は、
刑事責任・・・「殺人罪」であったのではないかなぁ―――?
と――自分は、みています。
↑
ワケわかんね―――なカンジだと思います。
「自信モテ生キヨ
生キトシ生クルモノ
スベテコレ
罪ノ子ナレバ」
↑
これは、
倫理的・宗教的?なもの?(←「原罪思想」?) だが、
一方で、
太宰治自身が、
自分自身に対して、
感じていた 「罪」 は、
刑事責任・・・「殺人罪」?
↑
ワケわかんね―――なカンジの記述ですけど、
↓超超単純な話です^^; wikiの記述。
在学中に、カフェの女給で人妻である田部シメ子(1912-1930)と出会い、
鎌倉・腰越の海にて入水自殺を図る
(1930)。だがシメ子だけ死亡し太宰は生き残る。
この後、
太宰は
自殺幇助罪の容疑
(※「自殺幇助(罪)」)
で逮捕され取調を受けたが、警察庁鎌倉署の担当刑事村田義道が金木村(現五所川原市)の出身で津島家の小作の息子だったこと、管轄の横浜地方裁判所長宇野要三郎が黒石市出身で太宰の父津島源右衛門の姻戚だったことなどが幸いして起訴猶予処分となった。太宰がカルモチンの常用者で体がこの薬に慣れていたこと、太宰自身それを知っていたこと、また「道化の華」において太宰が「僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は惡魔の傲慢さもて、われよみがへるとも園は死ね、と願つたのだ」と記述していることなどを挙げて、
この事件が太宰による計画的な殺人だったとする説を唱える者もあるが、憶測の域を出ない。
( 死ぬしかない、と思わせるようにした 「コントロール案件(←ちょこば語録)」 だと、
それは、
「自殺幇助(罪)」ではなく、
「殺人(罪)」になる)
小説家時代
芥川龍之介を敬愛しつつ1933年(昭和8年)、短編「列車」を『サンデー東奥』に発表。同人誌『海豹』に参加し、「魚服記」を発表。1935年(昭和10年)、「逆行」を『文藝』に発表。初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、憧れの第1回芥川賞候補となったが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。選考委員である川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌上で反撃した。 その後、都新聞社に入社できず、またも自殺未遂。また、この年、佐藤春夫を知り師事する。佐藤も選考委員であり、第1回の選考時には太宰を高く評価していた。第2回を太宰は期待し佐藤も太鼓判を押したが、結果は「受賞該当者なし」となった。第3回では仇敵であった川端康成にまでも選考懇願の手紙を送っているが、過去に候補作となった作家は選考対象から外すという規定が設けられ候補にすらならなかった。
1936年(昭和11年)、前年よりのパビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女短編集
『晩年』を刊行。
こういうこと↑だから、『晩年』刊行時(1936)の、
太宰治先生自身が、
自分自身に対して、
感じていた 「罪」 は、
刑事責任・・・「殺人罪」であったのではないかなぁ―――?
と――自分は、みています。
超単純な話です。
ってか、
「自信モテ生キヨ
生キトシ生クルモノ
スベテコレ
罪ノ子ナレバ」
と書かれた 『晩年』の本 って、
それ、
実際にあるの?
それ が 三上延先生の創作じゃなくて?
とも思っている。
私しゃ、太宰先生のファンじゃないもんで。
ひょっとすると、 ファンの間では、
「アレ」 か。
太宰先生が、
あの人に向けて贈った、
あの本ネ^^
とかいう――太宰治ファンの間では、
あ あ あ な話 なのかもしれませんが―
ワタシしゃ―
太宰治先生の
ファンでもなければ、
マニアでもなければ、
オタクでもないもので。
――と―――
言っていたら――
(思っていたら―)
丁度、ちょこばさんから、コメが―――
―――目を通したときの第一印象。
オタ?
ファン < マニア < オタク
でしょ?
それをいきなり
オタク
とはなんです?!
「大学入った頃までは鉄オタ?
でもそこから
チャリンコになり
バイクになり、
そして一時期仏像オタもしていたり」
それは、 ファン です。
オタ ではありません!!
・・・ん? でも・・・何だ?
ワタシが、ズレてる・・・。
オタ って、 今は日常用語だな。
ってか、『ビブリア―』にも、
「古書オタク」とも「古書オタ」とも書いてなかったな―
―――あ。
AKBか―。
「ファン」とか「客」のことを「オタ」って呼んでるもんな―――。
・・・と、ここまでが――ちょこばさんの↓このコメを読んだ時の、
第一印象。
ちょこば(旧chocovanilla)
2013/02/27 11:16:23
今話題の鉄オタさんみたいなものですね。
というか、人種的にオタ趣味に一人で浸るのが大好きなので、そういう人が増えて威張りだすと嫌になって逃亡するのがパターンでした。
大学入った頃までは鉄オタもしてたんですよ(笑)でもそこからチャリンコになりバイクになり、そして一時期仏像オタもしていたり(苦笑)でも必ずある程度まで来ると「オタのボス」がいるんですよ、傲慢にして尊大で、支配しようとする輩。「オタ」の世界でだけ崇められる存在、オタ主がいるんですよね。
どうもそんな存在が嫌いみたいです。「非日常」が上下関係ありで、組織的って何の拷問かと思ってしまうんでしょうね。
面白く拝見しました^^
で、、、その第一印象が去ったとき―――
思ったのが――
「非日常」が上下関係ありで、組織的って何の
拷問かと思ってしまうんでしょうね。
ああ、そこ↑でしょそこ!
「非日常」こそ上下関係ありで、組織的って何て
快感かと感じてしまう方々 なんでしょうね。
そういえば―――
今は去ってゆかれた――
グッチパパさんが言ってたなぁ―――。
「日本人は、Mが多いかもしれない」って。
単に、 M どころか、
ド が付くような気がする――のですがねぇ――
きっと、
『「非日常」が上下関係ありで、組織的って何の拷問かと思ってしまう』
ちょこば先生は―――
ド が付かない―― のですよ―――。
きっと―――。
取り敢えず、
走り屋系には――
「非日常」が上下関係ありで、組織的って何の拷問か と思ってしまう
ヒトが多いので――
あまり 共感 できない でしょうね――。
たぶん――
暴走族方面は――意外と?―――
「非日常」こそ上下関係ありで、組織的って何て
快感かと感じてしまう
ヒトが多いのかも――
ひょっとすると――『GTO』作者の、藤沢とおる先生たちは――そこんトコ――感性?で直感してたんかな――?
(つづく)
Posted at 2013/02/28 01:46:23 | |
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