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今の日本が「滅びた国々」に酷似しているワケ 存続するために必要な戦略とは
東洋経済オンライン
塚田 紀史
2015/08/28
を、メモしています。
日本は今、歴史の「特異点」を越え、1500年以上継続した国家が存続しうるかさえ心配になるという。『日本が世界地図から消滅しないための戦略』の著者、月尾嘉男氏に聞いた。
──古代のカルタゴやベネチア共和国にそれほど似ているのですか。
歴史上長期にわたって安泰で、大いに繁栄を謳歌していたのに消えてしまった国々だ。カルタゴは紀元前に建国後670年ほどでローマに、ベネチアは1100年ほどでナポレオンによって地中海の覇者の座から引きずり下ろされ、消滅した。
カルタゴが滅びた要因を今の日本と比べつつ分析すれば、大きく三つに集約される。一つは、もともと本土は人口20万ほどの国でローマと戦うような大軍はとても持てなかったこと。ヌビア族というアフリカの先住民族を傭兵として雇った。だが、傭兵はカネでどちらにも転ぶ。ローマとの3次、120年にわたるポエニ戦争で問題が噴出した。この事実からの教訓は、安全保障を米国に頼る日本の面倒を米国は最後の最後まで見てくれるかといえば、それはわからないということ。
二つ目は、カルタゴは経済大国だったが、文化大国ではなかったこと。つまり、カネ稼ぎには大いに才能があった。その証拠に第2次ポエニ戦争で負け、ローマが50年年賦でとんでもない賠償金を課した。1年分がローマのGDP(国内総生産)に近かったという。それでもカルタゴは頑張って半分ぐらいの年数で支払った。こんなに稼げるやつはいずれ反抗してくるとローマは見逃さなかった。逆に警戒心をあおったのだ。
三つ目は、ローマのマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスという政治家の恨みを買ったこと。後に大カトといわれた彼は第2次ポエニ戦争に兵士として従軍し、ほうほうの体で逃げ帰った体験を持つ。戦争が終わって視察団長としてカルタゴに出向いた大カトは、帰国後ローマの市民に見事なカルタゴ産のイチジクを見せながら、「ここからわずか3日の船旅先のアフリカ北岸にこんなに豊かな産物を生産し繁栄している国がある」と演説する。彼はその後どのような演説でも、いつもデレンダ・エスト・カルタゴ(カルタゴを殲滅すべし)と締めくくったという。
大カトは、カルタゴからすれば誹謗(ひぼう)に近いことまでまくし立て、ローマ人のカルタゴを滅ぼそうとする士気を鼓舞し、それが第3次ポエニ戦争に結び付いた。今の日本に立ち返れば、何やらどこか似ていないか。
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──ベネチアは?
まず技術革新に対応できなかった。アルセナーレといって今もイタリア海軍が使っている造船所を造り、そこで早く安く大量に軍艦を造る画期的な技術を開発した。だが、レパントの海戦で連合軍に参加し、それまで無敵だったオスマントルコに勝った頃には、ポルトガル、北欧、オランダなどで新しい帆船の技術が開発されていた。この風上にさかのぼれる帆船は、大型になるから造船費用も高くなる。これに対してベネチア議会は造船費用をそれほど増やさなかった。結果、船の数が減って弱体化していく。
最先端技術を持てない国は弱い。最近、日本の技術関係者がショックを受けたのはロボットのコンテストだ。1次審査の際は東京大学の助教クラスが開発したロボットが断トツだった。翌年、2次審査になったときには、そのチームは米グーグルに買収されていた。日本は6チームが残っていたが、いずれもビリから並んでしまった。ちなみに1位は韓国だった。技術でトップでないと、結局国力を弱めることにならないか。
──同時に地政学的な問題もあったようですね。
確かに、変貌する地政学的な問題があった。ポルトガル王室の肝いりで、喜望峰を回る航路をバスコ・ダ・ガマが開拓する。ベネチアの船でアジアに行くには途中で陸路を行く必要があった。新しい帆船ならいきなりアフリカ大陸を回り、東アジアのコショウや絹の買い付けができる。その発着地点はポルトガルのリスボンやスペインのカディスやパロスになり、ベネチアは従来の地図の中央ではなく、端っこに位置するのと同様になる。新興のポルトガル、スペインが発展しベネチアは凋落していく。
戦後日本の発展要因には、ソ連や中国に対する最前線という地政学的な位置が大いに関係した。米国を筆頭とする資本主義国の出先の位置として格好だったのだ。しかし、今や世界の主要地間をノンストップで行き来できるようになり、日本の中ソ近接は有利な地位ではなくなった。日本は、かつて中継地として繁栄し今やアラスカの寒村に戻ったアンカレッジのようになる可能性がある。米中、米ロの関係いかんで、日本の位置が世界的に見て大事かどうかはわからなくなってくる。
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──ベネチアは未婚率も高かったとも。
ベネチアは法律で本土(陸地)に土地を持ってはいけないと決めていた。ところが貴族は本土の貸家業で儲けるのがリスクも少ないと土地を買いだす。土地を持つと、子供が多ければ相続で争いになる。子供は少なくと、ベネチアでは16世紀でも結婚適齢男子の5割近くが結婚せず、18世紀には66%が未婚だった。最近の日本の20代、30代の婚姻率を見ると、16~18世紀のベネチアとうり二つなぐらい似ている。
たまたまカルタゴ、ベネチアと二つの国を紹介したが、それは日本が、その二つの国が弱体化し滅びたときの条件にあまりにぴったり当てはまるからだ。国はつねに安泰であるわけではないと気づいてほしいものだ。
2006年から12年まで、「地球千年紀行~先住民族の叡智に学ぶ~」と題するテレビ番組を作っていた。極端な表現を使えば、国家、国境はもちろんのこと、言葉、宗教さえ伝統的なものを廃された人たちの姿を放映した。世界70カ国に5億人ぐらいはそういう状態の人がいる。歴史は国家興亡の記録である事実を知ってもらいたかった。
──では、日本はどうしたら。
一言で言うと日本が「特異点」(シンギュラリティ)を越えたこと、つまり社会の構造が根底から変わってしまう産業革命のような節目を、多くの分野が1990年代前半には通過したことを自覚することだ。経済大国になることはあきらめて、世界の人々を魅了する魅力大国になるように精を出す。日本くらい外国の人があこがれる文化がいっぱいある国は少ない。それを日本の力にして文化大国になればいい。
たとえば最近になって和食が世界的なブームといわれているが、さかのぼると40年近く前に当時のフォード米国大統領が自国民の栄養改善に理想的と太鼓判を押してさえいる。
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Posted at 2015/10/03 03:08:27 | |
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