2015年04月27日
―――望み通りの職に就き、
望み通りの趣味を持ち、
望み通りの生き方を出来る人は、どれだけいるのだろうか―
※このエントリーはフィクションです。私小説です。実在する人物・団体とは一切の関係がありません。
私は、走り屋だ。
私は、ファイターだ。
私は、ファイターだ。
そして、
私は、走り屋だ。
しかし、私だって人間だ。
四六時中、ファイターをしていることを望んでいたら、変態だ。
私だって人間だ。
四六時中、ファイターであることを望んでいるわけがないじゃないか。
私は、ファイターだ。
しかし、四六時中、ファイターであることを望んではいない。
少なくとも、変態的なファイターではないと思っている。
私は、走り屋だ。
きっと、これは、私に定められた宿命なのだ。
職に就いているときも、趣味に没頭しているときも、そこに、クルマがいる。
クルマにまつわる、
システムがあり、
カネがあり、時として刑があり、
そして、そこに、クルマがいる。
私は、走り屋だ。
きっと、これは、私に定められた宿命なのだ。
それはそれで構わないし、
幼少期から、そういう気はしていた。
私のイメージ・私の理想は、
のんびりと、コツコツと、クルマという機械を弄り、
そして、ときに、ファイターとなる。
穏やかな味に、ほんのたまに、ピリリと辛い味がさす。
そういうイメージが理想だった。
この↑イメージが、「何なのか?」といえば、
これ↑は、「クルマ屋」のイメージなのだ。
現実の私は、「クルマ屋」にはなれなかったのだ。
現実の私は、「走り屋」にしかなれなかったのだ。
たしかに、
私は、ずっと走り屋だったし、
私は、ずっとファイターだった。
きっと、これは、私に定められた宿命なのだ。
しかし、
幼い頃の私は、「クルマ屋」になりたかったのだ。
だが、現実の私は、「走り屋」にしかなれなかったのだった。
要するに、
幼少期の私が臨んでいたのは、
のんびりと、コツコツと、クルマという機械を弄る職に就き、
そして、ときに、ファイターとなる趣味に行く。
そんな生き方だったのだ。
しかし、
現実の私に与えられた宿命は、
来る日も来る日も、戦う職に就き、
そして、ときに、趣味に赴くときも、ファイターである。
バリスタ(法廷弁護士)としての職に就いているときは、
クルマにまつわる様々な紛争案件に取り組んでいる。
クルマにまつわるシステムがあり、
カネがあり、時として刑がある。
そして、そこに、クルマがいて、「敵」がいて、抜き差しならなくなっている紛争を、一戦一戦、全力で戦う。
たぶん、私ほど、自動車の纏わる案件で戦い、これを開拓・変化させてきたバリスタはいないのではなかろうか。
走り屋としての夢に浸っているときも、
そこに、クルマがいて、「敵」がいて、譲れない道があって、
この争いに勝つために必死にクルマにとりつき、
敵を調べ、己を知り、一戦一戦、全力で戦う。
たぶん、私ほど、強烈な相手と戦い、これを打ち負かしてきた走り屋はいないのではなかろうか。
周りの人間は、
そんな私を、
「ファイターの中のファイター」
「バリスタの中のバリスタ」と称賛した。
ある者は、
「永遠の少年のようだ」とか、
「少年のような純粋さと必死さを永遠に忘れないHASHIRIYA」とか、
その年代の流行りの言葉を使って称賛してもくれた。
だが、それは私の本質を見誤っている。
私は、
「クルマ屋」になりたかった少年だったのであり、
決して、「走り屋」になりたかったわけではなかったのだ。
望み通りの職に就き、
望み通りの趣味を持ち、
望み通りの生き方を出来る人は、どれだけいるのだろうか。
世の中の人間は、私のことを、そういう種類の人間だと、明らかに誤解している。
少なくとも私は、
自分の望みでは穏やかな職に就くことだったけれども、
現実には法律職の中でも戦闘職の部類に就くことになったし、
自分の望みではだいたい穏やかに趣味の時間を過ごすことだったけれども、
現実には夢のために戦いに明け暮れることになってしまったし、
自分が臨んだ穏やかな生き方とは正反対の、戦いばかりの人生となってしまったのだった・・・。
Posted at 2015/04/28 01:11:46 | |
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EurasianDriveway(欧亜車道)ー前史 | 日記
2015年04月26日
―――思うに、
「暴力」・「軍事力」以上の「宗教」がこの世にあるのか?―
※このエントリーはフィクションです。私小説です。実在する団体とは一切の関係がありません。
尚、著者は、類似の世界観を説く、団体等と、一切の経済的・精神的関係を有していません。
21世紀前半期のある日、あるとき、私は問われた。
「世界宗教は何だと思いますか?」と。
私は即答した。
「それは、暴力であると思います」
私は、続けた。
「暴力・・・
軍事力とも言うんですかな。
これを、交渉力とも言ったり、
あるいはまた、
科学力とか、技術力という、今流の言い方でオブラートに包む方々が多いのですが、
私は、これらは全て、暴力の一部だと思っています。
暴力。
これ以上の宗教を、私は知らない。
世界中、
文化も違う。
宗教も違う。
言語も違う。
言語については、元来は、同じ言語を喋っていたのでしょうかね、
それが、あるとき、
バベルの塔が破壊されたことをきっかけとして、
世界中、異なる言語に分断されてしまった。
言語が異なり、宗教も異なり、
人々は意志疎通することで精いっぱいで、
難しい作業が出来ない。
バベルの塔が造られることは二度とない。」
「旧約聖書っぽい話ですねーー」
「私のことは、どう思ってくれても構わない。
それでも、厳然たる事実として、
謙虚な気持ちで認識してもらいたい。
バベルの塔がなかろうが、
世界中、
異なる言語だろうが、
宗教が異なろうが、
あるものだけは普遍の価値として厳然として共通している。
それが・・・暴力。
世界には、様々な宗教があります。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教、あるいは神道・・・
いろいろあります。
しかし、私は、これら全ての宗教の価値観が、
普遍的な価値・全世界に共通する価値観とは思っていません。
暴力以上の普遍的価値なんて、あるのでしょうか?
少なくとも私は、暴力以上の普遍的な価値を知らないのです。誠に残念ながら。
そして、このことも、申し添えておきます。
暴力以上の普遍的価値を知らない私を、私は、恥じております。
しかし、
私の見てきた様々なことがらの根底的な部分には、
暴力 という世界最強の宗教が横たわっていること、
そのことを認識せざるをえないのです」
Posted at 2015/04/28 00:17:23 | |
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EurasianDriveway(欧亜車道)ー前史 | 日記
2015年04月25日
※このエントリーはフィクションです。私小説です。実在する人物・団体・企業・商品・ブランドとは一切の関係がありません。
メカはいい。
メカは大好きだ。
何しろ、嘘ごまかしが無い。
それに比べて人間はなんだ。すぐに嘘をつくし、誤魔化しもする。
メカトロニクスは、正直あまり好きじゃない。
純粋なメカとは違って、機械っぽくない。
妙に人間臭い。
メカトロニクスは、嫌い、と断定するほどでないが、好きではない。
だが、かなり昔から、積極的に使ってはいた。
「あまり好きじゃない」という自覚症状が出たのも、つい最近のことだ。
最初は、好んで使っていたほどだ。
だが、好んで使っていたところで、だんだんと気づいたのだった。
メカトロニクスが人間臭いことに。
アンドロイドは・・・アレは嫌いだ。
人間と同じだ。
嘘もつくし、誤魔化しもする。
むしろ、そういうことをさせるための道具なのか?
とにかく、アンドロイドは嫌いだ。
要するにアレは、人間だ。人間の持つ、悪いところの出やすい装置だ。
だが、私はこれを活用せざるをえない。
好きか、嫌いか、
ということではなく、道具として、これを使わざるをえない。
全て、そうなのだ。
自分の望むように生きて、
自分の好きな物ばかりをセレクトして、
自分の好きなようにやってゆける人生なら、最高ではないだろうか。
それで、最高のパフォーマンスが得られるのなら、
それは最高の人生である。
「好きこそ、ものの上手なれ」というありきたりな表現では尽くせないだろう。
だが、
私には、
そういう人生は巡って来なかったし、
未来永劫、そういう人生が巡って来ることは無いだろう。
好きか、嫌いか、
ということではなく、これを使わざるをえない。
全て、そうなのだ。
ひょっとすると私は、
自分の意志ではなく、
宿命に従うことを運命づけられている人間なのかもしれない。
私の希望としては、
自分の意志に従い、自分の好きなように意思決定し、最高の成果を手に入れる人間であることだ。
だが、私の現実は、
運命の定めるところに従うしかなく、最高の成果を手に入れるための意思決定をするしかなく、自分の好みを度外視したセレクトばかりの人生なのだ。
Posted at 2015/04/30 03:59:20 | |
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EurasianDriveway(欧亜車道)ー前史 | 日記