
更に次の週、免許を取って三週間目には、自らの調子が良いのか、悪いのか、客観的に判断することが出来るようになった。
簡単にいえば、調子が悪いときは、キャッツアイを頻繁に踏む、その道を何往復してみても一向に改善されない。逆に、調子の良いときは「一発クリア」というわけである。そして、これは、自分のその日の体調と相当の関連を有しているらしかった。
(寝違えをして首が痛かった日の出来は最低で、そのことは今でも記憶に残っている)
ともあれ、これによって、この「キャッツアイ・ロード」が、相当に客観的なモノサシたる意味を帯びてきたといえよう。
ただ、こうして速域を上げてくるうち、対向車確認に関して、一般とは「逆の考え方」に「気づく」、あるいは「逆の考え方」を「好む」ようになる。
その話は、また明日。
さて、
前のブログで、
「登坂車線」と書いて思い出したが、多摩湖道は、ワインディングロードとしては、極めて珍しい特性を持った道である。
それはこの周回路にはほとんど勾配がない。
地理的経験が豊かな方は、「人造湖を周回する道であるから当然だ」と感じるだろう。しかし、多くの方はわからないと思われるため、詳しく記述しておく。
そもそも多摩湖は、近現代の人造湖の中では比較的古い方にあたるため、貯水池を形づくる外輪山は小規模な山となっている。これを少し離れた、新青梅街道の瑞穂近辺の平地から見ると、「平べったい山」が盛り上がっているように見える。そして、この平らな山の真ん中部分は凹んでおり、そこに水が溜められているのだ。かくして、多摩湖の周回道路へは、いずれの方向からアクセスするにしても、急勾配を登ることとなる。急勾配を登ると、そこに周回道路が設けられており、これは、ほぼ全域にわたって平坦な構造となっている。
さらに細かくいうなら、周回路の場所には、ダム建造時の大正時代、軽便鉄道が通されていたという。それなら、平坦であることが必要不可欠といえるのであり、もともと平坦な傾向の外輪山の尾根部分を、人為的にさらに平坦にしてしまったというわけだろう。
だからして、周回路に入ってしまうと、「登坂」というものは、ほぼ存在しない。
そのため、登坂車線はありえない。
ただ、こう考えると、「多摩湖サーキット」というかつての愛称もうなずけるではないか。
つまり、勾配が無いことが、走りの世界に対して意味するものは、踏み込んでいけばエンジンのポテンシャルの限界まで、速度を上げてゆけることを意味する。
ただ、ここで、反対側のストッパー要素が介入する。この場所を知っている方は説明するまでもないが、この道はお世辞にも「広い」とはいえない。比較的広い区間であっても、片側一車線ずつなのであるから、ラインが限られる。しかも現況はキャッツアイで両側を締め付けられている。
仮に、このキャッツアイが無かったとしても道幅と、カーブが殆んどであるという状況には変わりない。すると、ここで速度やタイムを追求するには、恐怖心というものを全く度外視する精神と、それを「単なる自殺行為」から離脱させるものとしての、確かな技術が必要なのである。
Posted at 2010/03/17 09:53:15 | |
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多摩湖道 | 日記