
多摩湖道は、「フルコース」で1周して約14キロ程度の道で、勾配はほぼ無い。
勾配がないことが走りの世界に\対して意味するものは、踏み込んでいけばエンジンのポテンシャルの限界まで速度を上げてゆけることを意味する。
ただ、ここで、反対側のストッパー要素が介入する。この道はお世辞にも「広い」とはいえない。比較的広い区間であっても、片側一車線ずつなのであるから、ラインが限られている。
またこのコースは、カーブが殆んどである。すると、ここで速度やタイムを追求するには、恐怖心というものを全く度外視する精神と、それを「単なる自殺行為」から離脱させるものとしての、確かな技術が必要だ。
今まで私はそう書いてきた。
ではここで、必要となる「技術」に触れなければならないのだが、それは「目的」と「ステージ」の二つのアプローチから考える必要性がある。
まず、第一アプローチの「目的論」から。
これは、言い換えれば、「タイム(数)を求めるか」「フィギュア(美)を求めるか」という二つの「入り口」と「目的」に収斂される。わかりやすく言えば、「グリップ」か「ドリフト」かである。
多摩湖道は、ギャラリースポットには事欠かなかったようである。
自転車道(遊歩道)が併走しており、しかも、これは柵で車道と完全に分断されていたから、「ギャラリー(スペクテーターズ)」と「走り屋」とは、他のスポットと比べると、比較的安全に分断されていたようである。
かつ、走りの迫力を、水道保安森にこだまする爆音・スキール音と共に、手が届くほど間近に体感出来たものと思われる。
おまけに、山奥ではない。駅近。アクセスが便利だ。
したがって、このスポットは、フィギュア的走りに最適なロケーションだった、つまり、ドリフトを魅せることに最適な場所であったということはできよう。
しかし、これらはあくまで、スペクテイター側のニーズである。
これを、マシンをドリフトさせるソリストの側から見れば、相当に無理のあるコースであろう。
たしかに、勾配は無いのでスピードは乗る。従って、理論上、飛距離も伸びる。
ただ、ドリフト走法の場合、しかもアングルと飛距離を大きく取るフィギュア的なドリフトの場合、「カーブの道幅は、車体を真横にして余裕を持って抜けられるくらい欲しい」というのが現実であろう。
つまり、「片側二車線欲しい」ということである。
現実、多摩湖道はこの要求を満たさない。
キャッツアイの有無を問わずこの要求を満たさない。
そのため、このコースをドリフトの「魅せ場」とすることは困難であったと思われる。
いずれにせよ、1980年代、関東圏でドリフト走行を行っていた、当時のソリストの方々の話を聞いてみたいところである。
(当時のソリストの方々、出来れば、シカトせずにコメント下さい)
さて、ここまで考えると、第一アプローチの「目的」において、「フィギュア(ドリフト)」が、現実論的に言って消去され、「スピード(タイム&グリップ)」という目的のみが、消去法的に残るのである。
続きは明日、第二アプローチの「ステージ」から考えてゆこう。
Posted at 2009/10/03 02:14:34 | |
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多摩湖道 | 日記