
「とっても追いつけるレベルではなかったのですが」
ハチロク物語作者のこの記述を見て、この方の「慧眼さ」と「素質」に、実に関心した。
そう、この多摩湖道の、この中高速セクションは、「(走り屋にとって)難しいカーブ」なのである。
「走り屋」ではない人、
ドライビングにこだわることが無い、多くのドライバーは、
「カーブは浅いほうが良い、
ハンドルの切り角が少ないほうが良い、
(ハンドルが一回転以上して、ハンドルの握り替えなんて御免だ)」
そう考えるだろう。
ところが、「攻める」ということを始めてくると、
速域が上がってくると、
こうした「高速コーナー」が「死ぬほど怖くなってくる」のである。
現実に死亡事故はこうしたところで起こっているのかもしれない。
(走り屋の話からは少し離れるが、ダイアナ妃がお亡くなりになったトンネルも、確か、緩いS字のカーブではなかったかと記憶している。いずれにせよ、たしか私が中学生だったときのことであるので、記憶は曖昧だが。)
さて、つまるところ、多摩湖道のこのセクションが要求するところの走行技術は、高速コーナーに対応する技術であり、それはコーナリングの中でも、リスキーなもので、それゆえに高い技術と、それを形成・向上させるための、かなりの経験値が必要なのである。
そのため、相当に慧眼なるこの方は、
「その近くに少しコーナーがあったのでせっせと練習していました。」
ということになったわけである。
実に妥当な判断であったと思う。
さて、「キャッツアイ時代?」に生きる、しかも、こうした「慧眼さ」が全く欠如していた私についてである。
もちろん、「誤解」していた。
「誤解」することとなった。
速域をだんだんと上げてゆく。
これはこれでよいのだが、程なくして、「コントロールの難しさ」と「恐怖感」、「衝撃」に連日見舞われることとなる。
「なぜだ、なぜまたしても下手になった?」
「なぜまたキャッツアイを踏むようになった?」
知識と勘に乏しかった私は、まず、これを自らの「スランプ」であると誤認した。
それが第一の勘違い。
ただ、これは、単に誤解して「自分を責めた」だけであり、解釈の問題ともいえるから、まあよしとしよう。
しかし、もうひとつ、「技術的事実誤認」をしていた。
「コントロールの難しさ」と「恐怖感」、をキャッツアイのせいにしたのである。
この勘違い、「事実誤認」は決定的であった。
当たり前ながら、「事実誤認」を基にした、議論・考察・思考はその一切が無駄である。
百害あって一理なし。
論理学においては使いまわされたフレーズだが、「正見→正考→正行」。
この「正見」の部分が狂っていた場合は、その後いくら正しく考えようが、正しく行おうが、全てが無価値なものに帰する。
言及するまでもない話だが、刑事裁判の「事実認定」の間違いは見るも無残なものである。
真相は、キャッツアイよりも、ここのカーブそのものの高速性にあったからだ。
そのことに、
たったこれだけのことに気づくために、
私が要した年数、経験、機会(ガソリン代?)は、相当なものであった。
「キャッツアイ」に恐怖感を覚えた
(実際には高速コーナーに恐怖感を覚えているのだが誤解している)、
私は、
別のステージを経験することの「必要性?」を痛感し、
機会を見つけては、自らの猛走ステージを求めて、様々な場所に走りに行くようになる。
相当に大きな「事実誤認」をそのままにして。
Posted at 2009/10/05 00:46:26 | |
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多摩湖道 | 日記