
画像は、昨日に引き続いて、山陽道(一般国道2号)の岩国近辺である。
ツーリングとか、燃費の話から入っていくんで、この画像でいいでしょう。
我が家のコルト(1300cc・NA)の、ロングツーリングにおける燃費は、
おおよそ14km/ℓと考えてよいだろう。
私の足は、淵上の足ではない。
「淵上の足(ふちがみの足)」とは、日産自動車の社員で、
「燃費の神様」
と呼ばれている淵上夏次のエコドライブテクニックのことである。
ふつうなら、ここからあと、「淵上の足(ふちがみの足)」と日産自動車の持つ技術について話すことになるだろう。
それがオーソドックスな、みんカラのブログスタイルであると思う。
しかし、このブログでやりたいのは、そういうことではない。
ここから先、少し、宗教的な話に入っていく。
このブログの価値観は、「走りそのものは、宗教的要素が強い、いや、走ることは宗教そのものだ」という類のものであるため、必然的にそうなる。
上で、「燃費の神様」という言葉を引用した。
別にこれは、私のオリジナルの言い回しではない。
「普通の言い回し」だ。
我々、日本人は、とかくこういう言い方を好む。
こういう言い方を好む「理由」について、具体的に、「峠」・「山」においてのアミニズムの事例を挙げながら、話してゆきたい。
(峠とか山とかいう話一般という点においてのみ、「ヤビツ峠」というくくりが許容されるだろう)
わが国の歴史というものは、
とにかく、長い。
とにかく、永い。
また、わが国の特殊性として、日本人の血統というものが、伝説上の起源において祖を一にしているらしいということ。
そして、それが、単なる妄想としての話ではなく、人間の遺伝子(ミトコンドリア)を調べると、たった一人の母にゆきあたるらしいと。
つまり、物証的な全人類同一起源説が、その縮図として、わが国には伝承されているらしいこと、がある。
ただ、この二者を、今、人知で強引に繋ごうとすることは、性急過ぎるのかもしれない。
それを行おうとすると、「我こそは伝統主義者」「我こそは保守主義者」と主張する論者達が、「X!」「Y!」と言い始めた、面白可笑しいテレビ画面の現状になってしまう。
では、私は、テレビのコメンテーターを笑っている場合だろうか?
いや、そんな場合ではない。
いまから私は、「我こそは伝統主義者!」と自称しながら、「X!」「Y!」と言い始めるハメになる。
これから、私は笑い者にならざるを得ない。
しかし、ここからの話は、「峠の走り屋」(「峠族」)にとって、必要不可欠なので、やらざるを得ない。
さて、
いま、峠を走る、我々を「神の視座」から、自分たちを少し客観的に見てみよう。
我々は、無神論者かつ無信論者で、現代的な価値観を持ち、かつ、相当にリベラルな感性を本質的に持っているのだろうか?
否。
全く逆だ。
我々がやっていることは、太古の昔から、人類が、繰り返し繰り返し、行ってきたことに他ならない。
だから、我々は、相当な懐古趣味で、伝統の上に、本質的には伝統に縛られて生きている者に他ならない。
それが、「マシン」という要素が介入することで、まさに、「手を変え、品を変え」という表面上の効果が発生したことで、違うことだと錯覚したような状態で、
先祖たちと全く同じことを行っていることに、
最近、私は気づいた。
「クルマ」という「マシン」に限定しなければ、
我々が行っていることは、それこそ、太古の昔から、人類が行ってきたことそのものである。
また、「クルマ」という「マシン」を使っていた時代のみという縛りをかけて見てみても、
私は、
父たちが行ってきたこと、
祖父たちの世代が行ってきたこと、
曽祖父たちの世代が行ってきたこと、
これを単に繰り返して、行っているに過ぎないという現実に気づいてしまった。
しかも、「マシン」・・・マシンの美的感覚・・・「マシンのモデリングのイデア」についていえば、もう、60年近くもそれが変わっていない、という恐ろしい事実にも、最近気づいてしまった。
50年前にアウトバーンを走っていたポルシェと、走り屋の車とを、特にリヤを並べてみる。
径の太くなった改造マフラー、横一文字にそびえるGTウイングあるいは門型ウイング。
びっくりするほど、その「ファッション・センス」は似通っている。
いや、我々の「ファッション・センス」がもう、何十年も変わっていないということを意味する。
私は、「ファッション界」「モード界」に生きる人間ではないので、こうした現象が、実は珍しくないのか、それとも、やはり珍しいのか、それがわからない。
しかし、我々は、こういう、「生きた化石のような世界」に生きる、「古い伝統に、進んで縛られているだけの種族」なのである。
したがって、「伝説」と「神秘性」を尊んで生きる種族なわけで、
かといって、「従順に信仰してそれで終わり」なのではなく、
最終的には、自らが「伝説」となり、
「神」となることを望んで走り続けているわけで、
当然、「自らが神になる」という「響き」・「自称行為」に対し、
多くの「走り屋」は何らの抵抗をも持たないし、私もそうした側の人間なのである。
けれども、
過剰な謙虚さが故に、「自らが神になる」という、響き・自称行為に対し、抵抗感を持つ走り屋・「走り家」の方々も多いことだろう。
ここから先の「混同」というテーマの話は、そういった謙虚・謙譲の美徳を持つ方々とこそ共感したいことなのである。
たいていの峠道、伝統的な街道には、神を祭った「神社」がある。
こうした状況は、アミニズムを信仰の原型としてきた日本人は、何らの違和感も抱かない。
そして、これらの神社は、
当然にして、「山のカミ」が「御神体」として祭られている・・・そう思うだろう。
そう・・・、それでいいのだ・・・、
それでいいのだ・・・が・・・、
実は、厳密には・・・違う。
果たして、我々の中のどれだけが、この現状に気づいただろうか?
恐らく、宗教家の多くも、この「実際」に気づいていない。
たいていの峠道、伝統的な街道には、神を祭った「神社」、
こうした社の御神体は、もともとの「山のカミ」ではない。
では、何か?
「山のカミ」を敬い、これを信仰してきた「信者」、
そのなかでも「伝説的な信者」なのだ。
これが、どういうことを意味するのか?
それはまた明日以降。