
まずはブログ主自身が語る。
この11/11のブログをアップしたのは、11/12に日付が変わった後のことである。
本来、こうした時間帯にアップするのが、この「走りの世界」には合っている気がする。
たしかに、コミック版『湾岸ミッドナイト』には、26:20とかそういう表記が見られる。
こうした未明の時間帯を特別視するのは、ストリートの世界では当然な気がする。
だが、ブログ主の「私」や、登場人物のGT-Rの「彼」も未明の時間帯を特別視するのだけれども、『湾岸ミッドナイト』の感覚とはかなり違っている。もっと非論理的・自己中心的な感覚である。
さて、
・・・テツだった。
かつて俺はテツだった。
たしか、
中学生くらいのときだったと思う。
そのとき、友達にもテツが何人かいた。
もちろん、
話は合ったし、鉄道のことを話していて、面白かった。
面白かったわけだけれど、
でも、何か違う。
心の中では違う。
明らかに違う。
鉄道好きの多くは、
鉄道の安定感、秩序性、活動性、駅弁グルメ、風土にマッチした雰囲気などなど・・・。
鉄道好きの多くが対象としているのは、主として、
何か「ほのぼの」「のびのび」とした感じであるように思えた。
どうやら、そこに、
自分の魂との間に、差異を、違和感を感じていたようだった。
そんなことだから、
次第に、
同じ趣味の友達、
(少なくとも周りからはそう思われていたようだが、)
と気が合わなくなっていったようだった。
テツだった頃、
中学の頃、
いや、もっと前から、
何故か、
速く走るものばかりしか見ていなかった。
テツだった頃も、
何故かトバすこと、
トバしてることにしか興味がなかった。
とにかく、
トバすことばかり考えていた。
当時、日本の中で最も早く走る乗り物は、鉄道だった。
日本の鉄道が、
そこに至るまでには、
先人たちの、
人生を懸け、
命を賭けた奮闘努力の歴史があったのである。
当時の私は、トバすことばかり考えていた。
そんな私に、トバすことにかかる、奮闘努力の歴史は、脳髄に多大な共感を与えていたのである。
・・・テツだった。
かつて私はテツだった。
「最高速テツ」だった。
しかし、当時から、
わが国の鉄道は、「世界一の最高速」を前面に押し出した「戦い」「闘い」と、
「闘いの魂」「戦いの魂の強調」といった、
速さを通した「世界一を賭けた闘い」という、
頂を目指す精神を失いつつあった。
日本の鉄道から、「闘いの魂」が消えつつあったことが、
まだ、十代前半期の少年にもありありと伝わっていたのである。
しかしながら、
新幹線や電車のモーターが立てる加速音は、
そのときもまだ、私の心に響いていた。
正確には、
「まだ、響いていた」
という、
「過去の歴史の余韻」
ばかりではなく、
「これから何か起こる」
という、
未来を期待させる「福音」(ふくいん)の如きものであったように思う。
その「福音」は、
テツになる前から知っているものだった。
そういえば、テツになる前から、私は速さを追及していた。
モーターが立てる回転音とそれがもたらす速さを、幼い頃から、私は知っていた。
しかもそれは、
その「福音」は、
確かに、「福音」であったのだ。
このように言うと、キリスト教の「福音派」の方々から苦情が寄せられるかも知れない。
しかし、「福音」という以外に、適切な言葉が思い浮かばない。
それに、モーターが発する、高高速を目指そうとする音波は、トバすことばかり考えていた当時の私にとって、
また、私の人生観にとって、
「福音」
それ以外のものではなかった。
たぶん、私にとっての「福音」と、
キリスト教徒の人々がいうところの「福音」は、
たぶん、全く同じ意味だと思う。
「信仰対象」が違っているだけで、
たぶん、「福音」という言葉が意味するところに、
一ミリのズレもないと思う。
いま、上手く言葉にすることはできないが、
とにかく、
モーターが生み出す速さこそが「第二段階の武器」となるのである。
もしもこれからの闘いが、
この「第二段階の武器」を前面に押し出した闘いになる、
というのなら、
それこそまさに、「神殺しの儀式」が始まることになるかもしれない。
だが、どう考えても「奴」は「使徒」にすぎないと思う。
Posted at 2009/11/12 01:12:22 | |
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