
「スターマイン」・・・打上花火の玉や、星、笛等を順序よく配置し、速火線で連結し、次々と連続して打ち揚げるもの。枠仕掛けの最後に裏打ちとして使用されることもある。
いままで、「彼」が四面道交差点で、「回想」していたのは缶コーヒーを飲みながらの一瞬の思い起こしに過ぎない。
ヒトの頭というのは、文章とは大きく違うため、考えるとき、バッバッバッと光景が浮かんできたり、音声化せずに頭の中の思考は超音速で廻る。
だから、様々なことを考えているときなど、花火のスターマインのように、様々な考えが、関連付けてよぎるわけである。
だから、彼の「追憶」や「演算」を、
ブログ主は、一ヶ月くらいかけて書いてきたが、
実際には、こうしたことは、缶コーヒーを飲みながら、一分程度で頭を廻るものである。
だから、本当に思うが、文章というのは、実に、容量が乏しい。
(ブログ主の表現力、特に、情報凝縮能力が未熟だ、という突っ込みどころがあるのだが。)
ああ、何で、一瞬で考えるようなことを、一ヶ月もグズグズと書かねばならないのか!
ああ、ホントにウップンが溜まる!
それはともかくとして、
対して、
走り出してしまえば、
それは空白の時間に近い。
データー、スペック、プライベート、思想、こういったものの順位は相当に劣後するようになり、あまり考えなくなり、自分のラインをどうとるべきか、とか、そういうことしか考えなくなるものだろう。
だから、某漫画では、バトル中に様々な思いを廻らすシーンがあったりするが、それは、適切なのだろうか?
走り出すと、ものごとは、淡々と、あっという間に進んでいくのが普通ではなかろうか。
さて、
(以下は完全にフィクションであるため、実在する人物・団体などとは一切の関係を有しません。)
しかし、ホントに因果なものだ。
自動車が発達し始めたドイツでは、ベンツが開発・製造していたガソリン車と、ポルシェが開発・製造していた電気車とが、シェア争いをしていた。
その後、決着がついたのはアメリカだった。
フォードがガソリン車を大量生産し始めたことで、規格は一気にガソリン車の方に決まったのである。
その後、ポルシェが作り出す車は、皆、ガソリン車に習ったものとなった。
それからもう100年以上後の時代、
2009年を境目にして、電気車がかつてないペースで普及していったが、
このとき、ポルシェは既にクラシック的なメーカーとなっていたので、電気車への転換は著しく遅れた。
だから、これから来る「奴」は、ガソリン車とのことである。
そんなことだから、
乗り手は、相当な懐古趣味な人間であると思って良いだろう。
俺が、とんでもない勘違いをしていなければ。
ただ、気になるのが、
「奴」の「出没日時」が、俺の走りの活動日時と、全くの同一であるということだ。違っているのは・・・、「場所」でしかない。
それに何か意味でもあるのだろうか?
始めから、「ターゲット」は俺だったのか?
俺をおびき出すために、
俺の走りの活動日時と、
全くの同一のタイミングで、
場所だけを違えているのか。
それとも、俺と人間性が酷似しているのか?
まあ、動力のセレクト基準やマシンセレクトは、俺とは違うので、俺のドッペンゲルガーの類ではないだろう。
そして、この「違い」が、
「奴」がガソリン車であることが、
アクセルオンの瞬間に最大値が開放されるトルクや、
高高速域に至ったときの伸びという点で劣るのだ。
このことが、
「奴」にとっての「ハンデ」で、
俺にとっての「第二段階の武器」なのである。
・・・ちょうど、缶コーヒーを飲み終わったな。
まあ、奴と俺との対戦においての必要なことは全て、本質的なところから思い出したか。
でも、
「奴」と「俺」のことだけ、
しかも、
技術的なことだけを思い起こせばいいものを、
因果だの起源だの血統だの・・・、
わざわざ俺の家庭のことまで・・・、
不必要だろう。
少なくとも、
「奴」と俺の家庭とは全く関係無いはずなのに、
「奴」との対戦において、そんな余計なことまで思い出したのは、
・・・何故だろう?
俺らしくない。
今日は、何か、変だ。
何故技術や対戦に必要なこととは無関係であろうことが思い出されるのか?
まあいい・・・、
勝負の時間ってのは、
一瞬で終わるものだ。
空白の時間に起こる、
空白の出来事なのだ。
缶コーヒーを片付ける。
右手の環八本線では、最後の「昨日の車」が去っていく。
Posted at 2009/11/29 16:50:47 | |
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