
この記事は、
危ないです(ΘoΘ;)について書いています。
←秋が瀬橋を下から見る。この橋脚部分が1000メートル超のストレートとなっている。
私は、一昨日のブログで
「東京都23区の方に」と書いてあるけれども、私は23区内の居住者じゃありません。だから、まず、そういう意味で、私は「妄想と偏見によって塗り固められた江戸っ子意識」と何度も言ってるのです。
しかし、イイんです。
ニセモノがホンモノを越えることだってあるんですから 笑。
こう書きました。
しかし、以下の情報を見ると、「私」は、書類上・・・戸籍上・・・「血統書?」、
からいえば、
「私」は、ホンモノの江戸っ子だ、ということになるのです。
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20100506-00002207-r25
東京の祭りの代表格、浅草の三社祭が今年は5月14日から3日間にわたって開催され、浅草寺などの歴史的な面影を残す浅草の町が、神輿や屋台で活気づく。そんな浅草のある台東区や、映画『男はつらいよ』の舞台の葛飾区などを一般的に下町というけど、そもそも東京の下町ってどこからどこまでをいうの? このナゾを解くべく『江戸・東京の歴史と地理』を上梓するなど、江戸をテーマに執筆・講演活動を行う、歴史学者の安藤優一郎さんに伺った。
「1590年に徳川家康が拠点とした江戸城の城下町、今の日本橋周辺が下町の元祖です。当時、城や武家屋敷は軍事上の優位性から高台に建てられました。一方、商工業を営む町人の居住区は海や川に近い低地だったので、城の下の町という意味と、土地の海抜の低さから下町と呼ばれました」
その後、1657年の明暦の大火により江戸の大半が焼失したが、再建事業により江戸の市域は隅田川を越え、深川など下町と呼ばれる地域が東へ拡大。やがて全国から商人や職人が江戸に集まり、1700年代初頭には人口が100万人を突破。町人の居住区がさらに広がり、現在の荒川区、墨田区、江東区の一部までが下町と呼ばれるように。そして今でこそ下町の代表とされる葛飾区が下町と呼ばれるようになるのは、東京23区が成立した戦後だとか。
「再建事業とは区画整理のようなもので、裕福でない町民は郊外に追いやられ、本来下町だった日本橋などは、住む町から商いの町へと変わっていきます。その後、町民文化の中心になったのが浅草。歌舞伎などの芝居小屋が集められ、大衆娯楽の町へと発展します。現代の下町は、江戸の城下に住んでいた町人の子孫が、区画整理後の東京東部に作ったコミュニティといえるでしょう」
区画整理は、火災や関東大震災などで東京が焼け野原になるたびに実施されたそう。「下町」という表現は変わらずとも、それを意味するエリアは時代と共に変化していたんだ。
(中山秀明/GRINGO&Co.)
なるほど。
私の「本籍地」は東京都中央区。
この「今の日本橋周辺」。
だから・・・、「本来の下町」に当たるんですな。
すると・・・「私」は、書類上・・・戸籍上・・・「血統書?」、
からいえば、ホンモノの江戸っ子だ、ということになってしまうのです。
フッ・・・これだから「血統書」なんてモンは、いい加減なのだ。
(↑ブリーダーなどの方々、ヒドイつぶやきでゴメンナサイ・・・汗。)
さて、
交通法規的な話を一切除けたとしても、
この橋は、「高速セクション」としては、あまり評判が良くない。
と、その前に、
速度取締り、それ自体もやっている、という情報も得ている。
しかも・・・夜中に。
それと、
「とある、ラリー界の重鎮」に、お伺い立ててみたことがある。
「やっぱこの近くで、手ごろな加速テストの場所といったら、秋が瀬橋でしょー♪」
重鎮「いや。それは止めたほうがいい。あの橋の路面って荒れてるじゃないかー。それにあの幅じゃ、あっという間に、橋から飛び出すぞーー」と。
重鎮に言わせるに、秋が瀬橋の路面は最悪である、と。
それと、付け加えるべきことが・・・汗。
重鎮「あのさー、今のラリー車は、大半がノーマルエンジン。基本的にはドライバーの腕で何とかするの。加速テストとかやってみて、仮にそれがイイ結果だしたって、ラリーでの勝利には、結びつかないぞぉ」
Posted at 2010/05/31 13:09:40 | |
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