
この記事は、
もう沖縄は独立した方がいい BY 居眠り王について書いています。
←画像は、『湾岸最速バトル―スカイライン伝説』より。有名な、湾岸線の海底トンネル。
「我々は、アウトバーンで極めて熾烈なバトルに晒されている。だから、首都高の速度規制を全廃していただく必要性があるのと、我々ストリートファイターは、首都高を無料で通行できる特権を付与してもらう必要性があります」「激しい国際的バトルに勝ち抜くためには、日本においても一般車への配慮などしている場合ではありません。一般車が多い時間帯でも、バトル、編み抜け、バンバンやります!」
↑この「論法」にどれだけの「説得性」があるのだろう?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100616-00000073-scn-cn
菅首相「沖縄は独立した方がよい」発言…中国人「いいこと言う!」
6月16日17時14分配信 サーチナ
菅直人首相が副総理・国家戦略担当相だった2009年9月、民主党の喜納昌吉参院議員に、「基地問題はどうにもならない」「もう沖縄は独立した方がいい」などと語ったことが分かった。中国でも同話題が紹介され、インターネットでは、沖縄を独立させろなどの声が集まりはじめた。
菅首相の「沖縄独立」発言は、喜納昌吉参院議員(党沖縄県連代表)が著書「沖縄の自己決定権-地球の涙に虹がかかるまで」で明らかにした。中国では、多くのメディアが同情報を伝えた。
記事を掲載した中国のニュースサイトには、沖縄はもともと独立国で、中国に服属していたとの主張や、独立させてから中国の属国にせよとの意見が集まりはじめた。菅直人はよいことを言うとの書き込みもある。(編集担当:如月隼人)
↑
一昨日は、「中華人民共和国の歴史的不当性」を語り、
昨日は、「基地問題はどうにもならない」→「もう沖縄は独立した方がいい」という発想の虚偽性について語った。
今日は、「沖縄の自己決定権」→「独立国」という考え方の、「前近代性」について語ろうと、思う。
「道州制」とか毎日聞くけれども、
「日々、街道を意識している走り屋」の感性として、
「道州制は、未来的な、進んだ制度です!」という言葉に対しては、
「そうとは思えない。むしろ、過去の遺物に見えるけれども、何故?今さら?また?」
とコメントせざるを得ない。
だって、明治前まで、
日本は、
ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと、
道州制だったのだから・・・・汗。
(地名、街道名にモロに残っていますね。ま、そのへんの話も、追い追い。
「日本はずーーーーーーーーーーーーーーーっと道州制」ということは、
街道系の走り屋(←しかも走ることが宗教化している奴)
にしか、
わからないと、思います)
https://minkara.carview.co.jp/userid/607203/blog/17810944/
という話の続きといえば、続き。
「日本はずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと道州制だった」、
「しかもそれが、地名、街道名にモロに残っている」
という認識に立つと、
「道州制」というものそれ自体が、江戸時代以前の枠組みへと戻る、という色合いが強い、とみることができよう。
いま、メディアで言われていることは、
「江戸時代以前の枠組みへと戻す」
そんな性質を感じることが多い。
で、
「沖縄独立」発言、というのも、
日本国沖縄県という枠組みが、
「いつ形成されたのか?」
といえば、それは明治時代。
と、いうことは、
「江戸時代以前の枠組みへと戻そう」
と、言うことと、同質ではなかろうか?
ちょうど今なら、
リョーマ人気とか、
幕末ブームの今なら、
こんな書き方をしても、けっこう大勢が理解できるのではなかろうか?
で、一つ、言いたいことがある。
「我々のアタマは、明治期以降に形成された枠組みしか、受け入れられないようにできているぞ」と。
「理解出来ない」
というわけではないけれども、
それを「理解」「共感」する奴は、相当ヘンだぞ、と。
ただ、
今、
書きたい・問いたいことがある。
「日本は、何故、どうしても、明治以降の、近代国家の枠組みへと変化しなければならなかったのか?」
「そして、今なお、国際情勢・国際社会とは、幕末期と本質的には変わっていないのではなかろうか?」
ということ。
要は、
幕末期(近代)は、
「白人優越主義」のための「軍国主義」が、世界中に普及していた。
現代では、
白人個体数が減少したため、白人優越は多少、影をひそめたが、
むしろ「軍国主義」は、世界共通の常識・本質として、
国家や思想を問わずして、世界中に普及しているのではないか、と。
そうすると、
「軍国主義」という言葉で、
日本では「主義」「思想」として扱ってるんだけれども、
おそらく、地球的には、「警察」とかと同じで、
「思想」ではないのではなかろうか?
と。
それに関連して、
「線引き」「国境線」の話になるのだけれども、
最近は、テレビで、「ロシア語講座」とかでも、
「ヤク―ツク」「イルクーツク」みたいな、
シベリア域の街もフツーに映るようになっているけれども、
あの、「人種」(アジア系だが、ロシア人で、ロシア語を話す)を見て、「何も感じない」としたら、かなり感性が鈍いだろう。
つまり、
「極東域」の国境は、「軍事力による分割線」になっている。
「日本の近代化」が遅れた場合、「日本の範囲」もまた、変わっていたと思う。
と、コレが、私の、「北海道方面」の認識なのだけれども、
「沖縄方面」に関しては、「懐古主義的」な価値観も相俟って、少し違う考えも持っている。
でも、
結論から言って、
「米軍による沖縄の物理的制圧」の事実が変わらないので、
どのルートをとっても、
「今日現在」の「米軍基地問題」は変わっていない。
何故なら、
「米軍基地問題」は、「沖縄で最も問題視されている」だけであり、
東京でも、神奈川でも、厳然として存在しており、
首都圏の制空権が、米軍によって牛耳られている、というのが、現状であるから。
「結果論としては変わらない」
この続きは、また、明日以降に、日を改めて。必ず。
いや、何でって、
一番大切な視点、
沖縄県、日本国、我々!
そう、
「我々」
って観点から、
語ってないんですよ。
「我々!」
「俺たち」
という視点が抜け落ちたら、
このブログは、御終いですのでね。
に、しても、
昨日の、ワールドカップ、対オランダ戦は、残念。
でもどうしてだろう?
私は、前回大会も、その前も、
複数人で、一人でも、テレビにかじりついて、テレビを揺すりながら、熱く応援していたのだけれども、
どうしてか、
今回の大会には、熱くなれない。
テレビ観る気に、ならない。
ようやく、昨日、オランダに敗れて、
「ああ、残念!」
と。
なぜだろう?
きっと、「それどころじゃなくなってる」のかもしれない。
ワールドカップを介したナショナリズム、というか、
「俺たち」自身の!
ってことで頭がいっぱいなのか???
さて、
昨日のブログで、
丹羽宇一郎・御手洗富士夫『会社は誰のために』平成18年 文藝春秋 p220を引用して、
丹羽氏の認識・発言を、
「平成18年」・・・、そんな最近の時点で、こんな程度の認識だったのか!
と、
嘆きましたが、
まーーー、
同書のp30では、
「ただ一つ、迂闊だったのは、前年の所得によって税金が引かれることです。私はこれを知りませんでした。給料を返上した上に税金を払わなくてはいけないわけです。お金のことは全部ワイフに任せきりですから、もしかしたら一番痛んだのはワイフの財布だったかもしれません」
と、
「前年の所得によって税金が引かれることです。私はこれを知りませんでした」
ということを、
「一番痛んだのはワイフの財布だったかも」
と、↑ダジャレ????????汗
を交えて語っているので、
まあ、「こういうヒト」なのかもしれない。
それはそうと、
数年前に盛んに言われていた論法だけれども、
「国際競争が激しいので、日本での規制を緩和、法人税率を引き下げていただく必要性があります」「激しい国際競争に勝ち抜くためには、日本においても人件費の抑制が必要です」
↑この「論法」にどれだけの「説得性」があるのだろう?
「我々は、アウトバーンで極めて熾烈なバトルに晒されている。だから、首都高の速度規制を全廃していただく必要性があるのと、我々ストリートファイターは、首都高を無料で通行できる特権を付与してもらう必要性があります」「激しい国際的バトルに勝ち抜くためには、日本においても一般車への配慮などしている場合ではありません。一般車が多い時間帯でも、バトル、編み抜け、バンバンやります!」
↑この「論法」にどれだけの「説得性」があるのだろう?