この記事は、
☆児童引渡し訓練・・・なんだかなぁ~(^_^;)について書いています。
俺のバッチャンは小学校の先生だった。
いつだったか・・・低学年の小学生に言うことを聞かせるための「マル秘テク」を聞かせてくれたことがあった。
それは、学級がはじまってから、比較的すぐに行うと効果的だったという。
必ず、一人や二人、
落ち着きのない子がいる、というのは、まあ、当たり前のことで。
そういう子供が最も落ち着きがなくなるのは、「整列」のとき。
ここで、「マル秘テク」を出せば、以降、ずーーーーーーっと、いうことを聞くようになるという。
校庭に整列。
あえて先生を先頭にして列をつくるのだ。
そこで、例によって落ち着きの無い者がグズり出す。
つられてグズり出す奴らもいる。
そこで、児童に背を向けた状態で、
正確に名前を言いあげ、素早く「注意」をする。
すると、ビックリして児童は言うことを聞くようになる、と。
で、これに関する「マル秘テク」が何か、何故そんなことが可能なのか?
といえば、教師の視点から、その場所では、
列の後ろの方まで、校舎の窓に映って見えていた、
のだという。
それを「活用」することが「テクニック」だったのだ。
つまり・・・「バックミラー」ってわけだ。
それにしても、「新春初日の出暴走」の「失敗」は、私の精神に、巨大な壁のようになって、重く立ちふさがった。
あの頃、先頭を走っていた私には、バックミラーを見渡すだけのスキルがなかったのだった。
しかも、それが、根拠のない自信と一緒になって、
先頭を走っていたクラウンのリヤに、ありありと表れてしまっていたに違いなかった。
勿論、高速走行中に「ターッチ♪」とかやりだす奴は、あり得ない!
高速走行中、しかも初心者マークが取れてないような奴は、真剣に走ってるべきだったのだ!
(それを言うなら、そもそも、一台あたり一名乗車ってのが間違っていた。先輩=助手席、後輩=運転席の、各車二名乗車にすべきだったのである)
だが、いずれにしても、
先頭を走っていたクラウンのリヤには、スキルの低さと根拠のない自信が現れていたであろうことに、違いはなかった。
結果、多重衝突は起こるべくして起こった。
追突事故(2台とも大破)
□→ □□左列 進行方向⇒
さらに追突(大破)。 □=私
□=側壁に衝突。破損停止。
工事現場用の足場を満載にしたトラックが、積荷をバラケタような・・・、
大量の太くて重い鉄パイプが路上にバラけるような音が鳴り響いたのだった。
幸いだったのは、これだけの多重衝突にも関わらず、けが人が出なかったことだった。
クラウン5台中、4台が破損した。
いずれもひどい損傷で、3台は大破。
しかもそのうちの2台は、駆動輪に大ダメージを負っており、1メートルも動かすことが出来なかった。
その中でも幸運だったのは、
このクルマたちのトランクに、牽引ロープなど、純正装備より多めの車載工具が残っていたこと、
ボディーカバーが残っていたこと、だった。
出口は目と鼻の先だったので、取り敢えず環状線を降りなければならなかった。
大破した不動車2つを引きずって、
3台+2コが、ずるずると環状線を降りていった。
幸い、降りた口のすぐそばがコインパーキングだったので、
悪戦苦闘しながら、不動物(不動車)をそこに退避させる。
この作業中に、さらに(フロントを破損していた)一台がオーバーヒート???を起こし不動車となり、
さらにもう一台も車輪と干渉した車体破損のせいで、損傷したタイヤが脱落して走行不能になった。
事故車両は全滅。残存車は私の一台だけだった。
仕方なく、4台の不動車にボディーカバーを、
(保管時にかけられていたものをそのまま譲ってもらったもの)
かけたのだが、
コレがなんだか死を意味する儀式のようで一瞬ゾっとした。
ここまで済ませたところで、
「メンバーがひょっとすると、気づかないだけで大怪我をしているのではないか?」
という思いが浮かび、病院に行って検査を受けることにした。
(結果、幸い、怪我はなかったのだが)
その病院で初めて、
「ああ・・・本線(環状線)上に、事故での破片、そのままになってるな・・・」ということを思い出す。
それと、
嗚呼…あの事故車両たちを、整備工場に引き上げなくては・・・と思う。
正月の時期は、どこも休みだしな・・・。
苦悩の末、「(自動車業を営む)センセイ」に電話した。
「ちょっとーーーーーー!新年早々何よ――――――――!」
・・・怒られた。
「怪我は?ない。そう。ちゃんと事故マニュアルに沿って、処理しとくのよ!!
後は、工場長に掛けて。レッカー出して貰って!!!
切るよ!」
ガチャン!!
と・・・「工場長」に頭下げ下げ、
レッカーで「不動車両」たちを整備工場にピストン輸送することになり・・・。
そして、
病院での検査も終わった「メンバーたち」と私は、帰宅することになった。
たった一両のクラウンに、
満員乗車で。
四人を送り終えて帰宅したとき、私は泣いていた。
あまりの情けなさに泣いていた。
そして、仕方なく寝ることにしたのだが、
この後私は、失意の中、15時間以上睡眠継続したため、
1月1日の日の光を目にしていない。
この年、私に1月1日の陽は降り注がなかったのである。
・・・実際問題、この地球上に、「明けない夜」などない。
・・・しかし、人生の中には、稀に、「明けない夜」というものがあったりするのだ。
あの時の俺たちは、あの年一番の朝日を拝むことが出来なかったのだった。
そして、あの年、朝日を拝むことが出来なかったことについての根本的な原因は、
私たちに・・・何より私に、
「バックミラーを見渡す技能が無かったこと」だったのだ。
あの時、私は、来るべき旭日に向けて、前ばかりを見ていた。
後ろを全く見ていなかったのだった。
結果として、あの年の1月1日、
俺たちに夜明けは来なかった。
「新春初日の出暴走」は、確かに、「大失敗」したのだった。