この記事は、
出る杭は打たれる^^について書いています。
「出る杭は・・・打たんとのう」。
ホントに出る杭が・・・、
出た杭が、打てるのか?
そもそもな疑問。
「出る杭は打たれる」
そういう諺があるが、それは、天に、ハンマーを持った「絶対者」がいる場合の話。
杭の集合体といえるような人間の世で、どれだけ本当なのやら・・・。
だってそうだろう?
もし、ヒトが、一本一本の杭だとするならば、
そこから抜きんでた杭を、打つことが出来るのか?
杭のところまで、目線を下げてみれば簡単にわかることだ。
出た杭を、その他の杭のところから見てみるといい。
それはもう・・・見上げるようなもので、
「そこから出る杭を打つ」などということは、決してできない。
「出る杭は打たれる」
・・・20世紀末や21世紀初頭で、人間社会に起こったことは、
そんなに上等なものではなかったのだ。
「引っ込んだ杭が、容赦なく足蹴にされる」
・・・そうなのだ。
出る杭を打つことはできない。
それはまるで、天に唾するように見えてしまう。
もしもそれが、一本ではなく、
ぶっとい、高くそびえるのが、3本くらいだったら、一体、どう見えるだろう。
もしも引っ込んだ杭が、
ぶっとい、高くそびえる、3本くらいの大きな杭に囲まれていたのだったら、一体、どう見えるだろう。
想像を絶するほどの恐ろしさである。
だから、その時代のヒトの多くは、
「出る杭を打つ」ことを決してしなかった。
「出た杭のしもべ」となり、引っ込んだ杭を容赦なく足蹴にした。
「出る杭は打たれる」
そういう諺があるが、それは、天に、ハンマーを持った「絶対者」がいる場合の話。
勿論、私がハンマーを持った「絶対者」ならば、
理不尽に出た杭を打つことだろう。
逆に、引っ込んだ杭を同じ高さまで引っ張り上げることも、やぶさかではない。
だが、世の中、
ハンマーを持った「絶対者」というのが、根本的に考えて、いるのだろうか?
私は、「いる」と思っているが、
多くの者は、「いない」と思っているとみえる。
ハンマーを持っているのは、天の絶対者ではないだろう。
同じ、「杭」なのではなかろうか?
もし、「意識を持った杭」に「幾本かの触手(足?)」が生えていて、その気色悪い触手が、ハンマーを振るうとすれば、そのハンマーには何が出来るだろう?
自らよりも引っ込んだ杭を、「足蹴にする」ことしか出来ないのではないか?
しかし、そんなことが・・・、そんな気色の悪い光景が、ヒトという動物なのか?
だから、
出る杭を打たねばならない。
出た杭を打たなければならない。
こちらの杭から、出た杭を見ると、それはもう・・・見上げるようなもので、
「ここから出る杭を打つ」などということは、決してできない、
そんなふうに見える。
勿論、反対にこちらが打たれる可能性が強いだろう。
それでも、出る杭を打たねば、霊長類ヒト科の動物として、
後世、この時代の人間たちは、「霊長類ヒト科の動物として、ゲスな部類の者」とみられることになろう。
Posted at 2011/01/15 18:43:36 | |
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