
この記事は、
【御礼】いつもご覧いただいているみなさまへについて書いています。
そろそろ・・・何としても、補足・追加する必要性を感じているカテゴリーがある。
今年2011年の初っ端、
このブログの書き手は、そのカテゴリーで、あまりにも恐ろしい表現をしすぎているためだ。
「この後私は、失意の中、15時間以上睡眠継続したため、
1月1日の日の光を目にしていない。
この年、私に1月1日の陽は降り注がなかったのである。
・・・実際問題、この地球上に、「明けない夜」などない。
・・・しかし、人生の中には、稀に、「明けない夜」というものがあったりするのだ。
あの時の俺たちは、あの年一番の朝日を拝むことが出来なかったのだった。
そして、あの年、朝日を拝むことが出来なかったことについての根本的な原因は、
私たちに・・・何より私に、
「バックミラーを見渡す技能が無かったこと」だったのだ。
あの時、私は、来るべき旭日に向けて、前ばかりを見ていた。
後ろを全く見ていなかったのだった。
結果として、あの年の1月1日、
俺たちに夜明けは来なかった。
「新春初日の出暴走」は、確かに、「大失敗」したのだった」
https://minkara.carview.co.jp/userid/607203/blog/21048962/
「環状論」のカテゴリーは、読み返すせば読み返すほど、自分自身がゾッとするような表現が多様されている。
全然笑えない話だが・・・、
例えば・・・、
↓コレで、
□ □ □ □
今、2011年5月31日現在、何を連想する?
ってな話で。
「5台中4台が破損」残った一台も1月中に廃車・結果として、「全滅」で、
「6台中4台が破損」でなかっただけ、
まだよかった。
縁起でもないことを書いてしまうのも、「職業病」の一種だと思ってどうかそれはお許し頂きたい。
しかし、これ↓だけはわかって頂きたい。
「このブログの書き手が、そういう縁起でもない表現をするから、大きな不幸がやってくる」のではなくて、
「何かの気配が近づいてくるから、単にそれを感じて、近い表現をするようになる」
というだけだ、ということを。
「・・・なるほど。
ようやく俺も、「峠族」の端くれに成れてきた、というわけか。
峠の中に、車がいるか、対向車なのか先行車なのか、
峠のどの辺に鹿などの動物がいるか、小動物なのか、群なのか、
そういうの、
だいたい、
勘でわかってくるようになってきた。
ようやく、少しはわかるようになってきた」
https://minkara.carview.co.jp/userid/607203/blog/18551981/
つまり、↑これら↓は「職業病」だ。
「何かの気配が近づいてくるから、単にそれを感じて、近い表現をするようになる」
そんな書き手の話は置いておくとして、
「環状論」のカテゴリーの「主人公」は考えます。
では、
そんな21世紀を走り抜けて、(私は勿論、今いるほとんどの人は、生きていないだろうか)
22世紀になったら、どんなことが「正統化」の「根拠」となり得るか?
そういうことに思い至ったのは、それからずいぶん時間が経っていたが、
その「正統性」の「根拠」なるものが、
「前・始まり」と「後・終わり」とで「同じもの」である、ということにも気づいた。
○→●→○
https://minkara.carview.co.jp/userid/607203/blog/21086197/
何やら、妙な思考でありまして、
「考えれば考えるほど、思考が怪奇になっている」ようにも見えます。
もっと直情的な表現を使った方がいいかもしれない。
「なで肩の男は、どうしてもその後ろ姿にひ弱さが表れるという。
しかし、それでも私は、自分の後ろ姿がカッコいいと思われたい、と願った。
肩と、その線から印象付けられる後ろ姿がひ弱さを表してしまうというならば・・・、
それは腕を鍛えるしかないだろう。
肩形状は骨格の根本的な設計からくるのだから変更不可能である。
だったら腕っぷしを鍛える他なかろう。
特に、「腕前」を鍛える他なかろう・・・。
すべてが未熟すぎた。技能が足りな過ぎたのだ。
そして、相対的に新しかった4台は廃車。残った一台も1月中に廃車となった。
結果として、「全滅」だ。
それでもあいつらは、私に「ついてきたい」と言ってくれている。
こんな、なで肩の男である私の、後ろ姿が、他の奴にはないくらい良いのだと、
走る車両の後ろ姿が良いのだ、と
しかし現実問題として、「走る者」としての技能が・・・腕前が・・・皆無であったのだ。
誰よりも何よりも、私に、皆無だったのだ。
だからそれには、「なりたい自分たちの姿」「なりたい自分の姿」を現実のものとするには、「走りの技能」を・・・「走りの腕前」を磨くことが必要不可欠なものであることが明明白白であったのだった。
「走る者として」・・・それはつまり「走り屋」と呼ばれる者であることに他ならなかった。
私は「失格」のところからスタートした。
無論、「走り屋失格」だった。
それどころか、暴走族としてさえ、失格だった」
https://minkara.carview.co.jp/userid/607203/blog/21062133/
あいつらには、
闘志・・・実のところ私以上に盛んな闘志を持ったあいつらには、
自信と尊厳を与えてやりたい。
何も恥ずかしがることなく、「俺たちは世界最強だ!」と言えるようにしてやりたい。
羞恥心を払拭するための(具体的)根拠を与えてやりたい。
https://minkara.carview.co.jp/userid/607203/blog/16147327/
「そして、私の魂にも僅かな希望が出来るとするなら、そのとき何をするべきか?
答えは明白だった。
・・・それは、走り屋としての技能を磨かなければならない、ということだろう。
誰の? 私のだ」
https://minkara.carview.co.jp/userid/607203/blog/21084738/
(↓この部分は「アイデアメモ」という形で作成されていた)
「走り屋」、特に「日本の、峠の走り屋」というのには、ある「特別な意味」が含まれていた。
ギャンブル界の中心地がラスベガスであるように、
ミュージカルの中心地がブロードウェイであるように、
金融界の要衝がウォールストリートであるように、
モード界の最高峰がパリコレであるように、
庭球大会の最高峰がウィンブルドンであるように・・・、
いや・・・それら以上のものかもしれない・・・、
世界における、クルマの走りの中心は、日本の「峠」であるという。
「私」は気づいたら「その場所」にいた。
「日本の走り屋」という「特別な称号で呼ばれる者」となっていた。
21世紀初頭の世界において、
「日本の峠の走り屋こそ世界一のHashiriyaである」、という話がまことしやかに言われていた。
「世界一の走り屋」・・・それはもはや「神聖視」されていた。
ある意味、「本物の神様」だ。
「全知全能の絶対神」という意味ではない。
それは・・・ギリシャ神話だの、日本の古代神話だのに出てくるような、
「神々の伝説」という意味において・・・「本物の神様」と言って何らの差支えもないのだ。
ただただ「天上天下唯我独尊」と叫び狂うことによっては達成されない。
あくまでも、具体的神技と、そうした具体的根拠を持った伝説によって、
他者が認める、
主として、後世の者達によって語られる「神々の伝説」に他ならない。
しかしそれは、
「世界一の走り屋になる」ということは・・・すなわち・・・、
神になろうとして・・・それでもそれは困難で・・・日々、思い悩み、魂の限り苦闘し、その苦悩が続く、
という、いつ明けるともしれない旭を目指して暗黒の道をさ迷うが如きものだ。
しかし、気づいたら「その場所」をさ迷っていた。
気づいた時には、「日本の走り屋」という「特別な称号で呼ばれる者」となっていた。
その始まりが「いつだったか」はハッキリとは記憶していない。
(ここで、「主人公」は、環状線においてクラウンを失い、チームも失って数か月後、
「多摩湖道」にやってきたことを思い出します)
缶コーヒーを飲み終わると、俺は叫んだ。
「オラー、環状あがっぞー!気合いれーッ!」
自分の心の中に。
自分の心の中だけで。
自分の心の中だけで叫んでいる点が、平成元年頃の大阪環状族との大きな違いであろう。
https://minkara.carview.co.jp/userid/607203/blog/15266538/
そう。もっと厳しい言い方をするなら、
その背中を猛追するチーム員も、今はいない。
しかも、そこでは、
「確実なコントロールがもとめられるわけであり、
ここで行うことが「(神の目からみても)許容されている」のは、コントロールトレーニングだけであって、スピードトレーニングではない」
https://minkara.carview.co.jp/userid/607203/blog/15267981/
そこから、「ゆっくりと走り出した」のでした。
いつ明けるともしれない旭を目指して暗黒の道をさ迷うが如き、長い長い、魂のツーリングへと。
明けない夜はない!
そう信じて。
それは、このブログの書き手もそう信じている、ということを記しておきます。
「環状論」のカテゴリーの続きがいつ再開するか、
は不明ですが、暫定的に、こう記しておきます。(2010年5月31日編集)