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猛走峠のブログ一覧

2012年10月21日 イイね!

読んでいけばいくほど、つくづく思うこと。

先日の記事の文章:





さんざんwikiの記述に頼って考察しているものの・・・


実は・・・私が率直に思っていることは・・・


そりゃあ・・・↓対策は・・・良かったと思うのですが・・・

「その後1988年3月13日の終航まで、青函連絡船で2度とこのような大きな事故がおきることはなかった」
その理由は・・・

対策の結果というよりも、


洞爺丸台風みたいなのが・・・来なかった・・・というだけなのではないか・・・と思ったりもしている・・・。





こちらのつづきから。
そして、今日は、また別のサイトからの引用↓なのですが・・・読めば読むほど、







対策の結果というよりも、


洞爺丸台風みたいなのが・・・来なかった・・・というだけなのではないか・・・


という思いが強くなっていく。


ココ↓に書いてある描写がホントだとすると、これほどのシケって、そんなにあるんだろか??? と。






11時に函館に3便として着岸した「洞爺丸」は4便として14時40分に出港というダイヤであった。14時までに上り便はすべて欠航が決まっていたが、「洞爺丸」は定時出港の予定を変えていなかった。理由は戦時標準船より性能がよいこと、台風の津軽海峡接近時刻は17時頃と予測し、「定時出港」なら「洞爺丸」の性能があれば台風接近までに陸奥湾に逃げ込めるという判断である。14時8分、函館駅ホームに札幌からの急行「まりも」が入線した。4便への接続列車である。道内各地から本州を目指す人が「洞爺丸」に乗り込む。その中に国鉄北海道総局支配人、札幌・旭川・釧路・青函の各鉄道管理局長という国鉄重役陣がいた。国鉄本社での管理局長会議に出席するためで、青函局長だけは所用のため翌日の便を利用するために別行動し、他の管理局長は「洞爺丸」一等特別室に落ち着いた。
 「洞爺丸」の船長が4便出港のため船橋に立ったのは定時出港10分前だった。他の船員たちも出港の準備に走り回っている。しかし、「洞爺丸」の行く手を「第十一青函丸」が塞いでいた。海峡の時化のために函館山まで行って帰ってきたところだった。乗っている進駐軍関係の乗客を「洞爺丸」に移乗させることが決まっていて、「第十一青函丸」着岸まで「洞爺丸」は動けないことになった。船長は台風の接近のことを考えると、出港を1分でも遅らせたくなかった。定刻の出港予定時刻が過ぎた、「第十一青函丸」は4便定時出港時刻を過ぎた14時48分に着岸した。だが、すぐには出られない、乗客の移乗があるのだ。乗客の移乗が終わって15時、船長の心に焦りが生じていただろう。
 乗客の移乗が終わった、タラップも外されて出港準備はすべて整ったはずだった。桟橋から出港可能を示すブザーが鳴らない、船長の焦りがピークに達したとき、桟橋助役が船橋に現れた。「どうしたんだ?」と船長が厳しい口調で聞くと、進駐軍用の荷物車と寝台車を積み込んでいるとの事だった。荷物車は既に可動橋に差し掛かっていた。
「この急いでいるときに荷物車はともかく、寝台車の積み込みはできない。船尾の二等航海士に寝台車積み込みはしないと伝えてくれ」
 船長は大声で言ったという。桟橋助役も渋々引き揚げ、桟橋職員に「寝台車積み込み中止」を伝えた。ちょうど荷物車を積み込んだ機関車を切り離したところだったので、中止は楽だった。
 「洞爺丸」の係留索が外され、出港の汽笛が鳴った。船首を牽引する補助汽船の準備もできた。しかし、荷物車を積み込んだばかりの可動橋が上がらない。たまりかねて船尾で指揮を取っていた二等航海士が怒鳴った。すると停電で可動橋が動かないと言う。
 時計を見ると15時10分、4便定刻を30分過ぎていた。その間に台風は50キロも海峡に接近し、「洞爺丸」が陸奥湾に逃げ込めるかどうか微妙な時刻になっている。停電が長引くならここで台風をやり過ごした方が良い。
「出港準備解除、本船はテケミする。」
 船長が静かに言った。テケミとは「天候警戒運航見合わせ」の頭文字を取ったものである。テケミの指示が船内から桟橋へと広がった頃、可動橋は音をたてて上がった。この日、函館市内は断続的な停電に見舞われ、この停電もそのひとつで僅か2分で復旧したのだ。結果的にはこの2分が「洞爺丸」の運命を決めた。可動橋が上がっても、テケミの指示は取り消されることがなかった。
 そして、船長の予想どおり、函館は昼だというのに薄暗くなり、強い雨を伴った東からの強風が吹き荒れた。

 15時現在の台風の観測結果が発表された。青森県の西方沖100キロの海上にあり、中心示度は968ミリバール。依然として北東へ時速100キロで進行中。17時頃に北海道南部に上陸して深夜までに北海道を横断するという予報であった。
 予報が海峡から少し西にずれた。予報円の東端を通っても函館直撃で、海峡の東へ抜ける見込みはなくなった。

 函館港内は複雑な状況になった。まもなく5便「大雪丸」が函館港内に到着する予定である。函館駅の岸壁はふたつ、第一岸壁に「洞爺丸」、第二岸壁に「第十一青函丸」が着岸のままテケミとなっている。本来なら「洞爺丸」が4便として出港して入れ替わり第一岸壁に「大雪丸」が着岸して夕方に6便として折り返しの予定であった。さらに第二岸壁も「第十一青函丸」がいなければそのまま「石狩丸」が着岸の予定である。ところが両岸壁がテケミ船で埋まったため、「大雪丸」「石狩丸」ともに着岸すべき岸壁がなくて、沖で錨を降ろして停泊するしかなかった。「大雪丸」には一般旅客が、「石狩丸」には進駐軍旅客がいる、このまま沖でテケミさせる訳にはいかない。本来なら「洞爺丸」の乗客を降ろして沖に出すべきだが、「洞爺丸」は天候回復後すぐに出港の予定でいる上、千人近い旅客が乗っているので混乱を避けるためにも岸壁から動かせない状況だった。
 そこで、「第十一青函丸」を沖に出し、まず5便「大雪丸」が第二岸壁に着岸して旅客と貨車を降ろし、すぐに「大雪丸」を沖に出して「石狩丸」を第二岸壁につけてそのまま着岸テケミとした。貨物便で客がおらず、函館(貨物専用の有川桟橋)へ向かっている貨物便の「日高丸」「十勝丸」は沖でテケミとすることになる。
 15時17分、94便として「北見丸」が函館を出港、港外に出たところでそのまま錨を入れてテケミとなった。前後して5便「大雪丸」が函館港外に到着、続いて「石狩丸」が港外に到着した。その数十分後には「日高丸」も函館港外に到着、「日高丸」は港外で岸壁が空くのを待っている「石狩丸」を追い抜いて、16時半に港内の安全な場所に錨を入れて停泊した。
 ますます風は強くなり、港内は避難船や停泊船で混乱が始まっていた。港内では約8000トンの死船となった貨物船「アーネスト」がブイに固定していた係留索が切れて漂流し始めた。この船はイタリア船籍で、メキシコから石炭を積んで室蘭へ向かう途中に室蘭港外で座礁事故を起こし、修理のために函館に来ていた。船主は廃船を決めて鉄屑としての買い主を捜すため、函館港内のブイに繋いで停泊させていた。船員は8人のみで、機関に火を入れることすらできなかった。この自分の意志では動けない大船が風で勝手に動き出したのである。停泊船は機関を暖めてはいたが、避難船がひしめくなか動くことができない。タグボートの出動を依頼する無線が飛び交った。その中で第二岸壁では「第十一青函丸」と「大雪丸」の入れ替えが行われていた。
 「洞爺丸」の船内には千人近い乗客がそのまま残っていた。港外からのうねりがとどくたびに「洞爺丸」は大きく揺れて岸壁に船体を擦った。船酔いする客も出て下船を主張する客もいたが、給士(ボーイ)は乗客が降りることを認めなかった。それでも業を煮やした乗客の何人かが、桟橋職員用のタラップや船尾の可動橋から勝手に下船していった。乗船名簿に名前を残しながら下船した乗客は60人にも及んだ。この後の地獄から逃れた幸運な人たちである。

 その頃、青森港では16時20分に「渡島丸」が到着、そのまま着岸テケミとなった。隣の桟橋では「羊蹄丸」が9便として定時の16時半に出港するかどうかで悩んでいた。青森では風はそれ程でもなく、雨も降っていなかった。だが気圧が下がり続けて981ミリバールを示し、台風の接近を示していた。しかし、風は出港時刻が近付くに連れて弱まる一方で、16時すぎには殆ど吹いてなかった。「羊蹄丸」船長が首を傾げると、外が明るくなった。見ると青空が広がって風が止まっている。誰もが「台風の眼」だと直感した。ただそれまでの台風情報に比べると気圧が高い、それは他の台風と同様、津軽海峡に達するまでに衰弱したと誰もが想像した。今出れば台風を追いかけることになるから、船長は台風通過後の吹き返しを見極めるまではテケミと決意した。300キロの暴風圏を持つ台風が時速100キロで動いているという情報から、暴風圏が去るまでの3時間だけ海峡の様子を見極めてから出港させることにしたのだ。

 函館港でも「洞爺丸」の船長が気圧計と睨めっこをしていた。台風がいつ、何処を通過するのか、それを見極めようとしていた。雨はますます強くなり、バケツをひっくり返したような勢いである。17時13分、旭川から急行「あかしや」が大雨をついて到着。本来は後続の6便の接続列車であるが、席に余裕がある限り急ぎの旅客を4便に乗せることになった。桟橋では「あかしや」から降りてきた客に等級ごとの番号札が配られ、空席数を調べて先着順に「洞爺丸」に新たな客を乗せた。「洞爺丸」の船内はほぼ満席となった。
 その頃、船長はある変化に気づいた。気圧が982.8ミリバールで底を打って上がり始めたのだ。船長は信じがたいものを見た気持ちに襲われただろう。だが17時に函館付近通過という予報を思い出し、台風の中心が最接近したと判断した。気圧が高いのだからかなり離れた処を台風が通過したと最初は判断しただろう。観測結果から推測すると台風は海峡の西にあり、これから南から西へ向きを変えながら吹き返しがあるはずだ。しかし、船は台風の進行方向と逆に向かうのだから、後は吹き返しの風向きと様子を判断すればすぐ出港できる。そう考えた。
 急に外が明るくなった。船長は驚いて外を見た。雨が止んで青空が広がっていたのだ。雲は茜色に染まり、綺麗な夕焼けを彩った。東の空には虹が出ていたのではないかと思う。
 台風の眼だ…誰もがそう思った。船長もその判断に自信があった。ただ気圧が思ったより高いのが気になったが、船長は他の台風と同様、北上するに連れて衰弱したと考えた。どうってことのない低気圧に台風が変わってしまった、そう思ったに違いない。足の速さは衰弱しても変わっていないようだから、吹き返しを見定めるのに1時間、あとは出ても台風の進行方向と逆へ向かうのだから、風浪はすぐ弱まるはずである。船長は一等航海士を船長室に呼びだし、静かに告げた。
「遅れ4便として18時半に出港する。18時スタンバイ。」
「遅れ4便として18時スタンバイ、了解しました。」
 一等航海士が復唱し、「洞爺丸」の18時半出港は決定した。


2台風との闘い

 17時25分、第二岸壁の「大雪丸」が乗客の下船と貨車の積み卸し作業を終えて離岸した。入れ替わりに「石狩丸」が第二岸壁に入ることになる。17時45分、「石狩丸」は錨を上げて第二岸壁へ向かい、「着岸見込み18時25分」を無線で伝えてきた。ほぼ同時に函館の空は不気味な真っ黒な雲に覆われ、強い南の風が吹き始めた、やがて風は南南西に変わり、平均風速は20メートル、突風が30メートルという強風になった。台風を追っていた誰もが「吹き返しがきた」と感じた。風は今がピークで、じきに風は西に向きを変え、台風が遠ざかるとともに少しずつ弱まって行くだろうと。しかし、今までの咳やくしゃみをするような風ではなく、深く深呼吸をするような、重く不気味な風だったと言われている。
 港内には様々な避難船の他、航路を示すブイが沢山浮いている。それをよけるために船は速度を落とすのだが、速度が落ちると舵の効きが悪くなるので、風に流されはじめた。「石狩丸」はそんな苦労しながらなんとか岸壁に接近し、船と岸壁が平行になったところで一度錨を入れた(この時の「石狩丸」船長は、第四章で紹介した「石狩丸」難航事件の際の船長である)。風は南南西、ちょうど岸壁の方向から吹いている。着岸するためにはこの30メートルにも及ぶ強風に向かって真横に動かなければならない。横に動くということは進行方向に対する表面積が大きくなり、風の影響をまともに受けるのだ。「石狩丸」の船長は無線で桟橋に補助汽船(タグボート)の増援を頼んだ。通常は2隻で横へ押して着岸させるのだが、3隻、4隻と補助汽船を増やし、5隻でやっと風の力に勝って「石狩丸」はゆっくりと横へ動いた。
 「洞爺丸」ではその間も出港の準備が続けられていた。「第十一青函丸」から下ろした進駐軍用寝台車も積み込んで、荷物車や寝台車4両と8両の貨車で車両甲板もいっぱいになった。「洞爺丸」の船長が出港のため船橋に立つと、目の前で「石狩丸」があまりの強風のため着岸に苦労しているところであった。あまりの強風で補助汽船を増やしても岸壁に近づけない「石狩丸」の様子を見て、二等航海士は不安を感じて港口に近い有川桟橋に電話で気象状況を問い合わせた。南南西から32メートルの突風が吹いているという返事を船長に伝えた。
 船長は自ら問い合わせた青森桟橋の気象状況を聞いて、「行ける」と確信していた。青森では986ミリバールまで気圧が持ち直し、風も南南西10メートル。天候は回復しているように見えていた。
 しかし、船長の目に信じられないものが飛び込んだ。気圧計である。再び気圧が下がり始めているのである。台風の眼を自ら観測し、台風の中心が過ぎ去ったことをこの眼で確認している。風は一時期強くなってもすぐ西に変わって弱まるはずで、気圧も上がり始めるはずである。その上、二等航海士の報告によると函館港外は30メートル以上の風が吹いていることになる。
 何かがおかしい。船長は一度出るのをためらった。この現象はなんなのか、船長の気象知識からは判断できなかった。この船長は「天気図」の渾名を持ち、青函連絡船船長の中でも名物といわれるほど気象についての知識が豊富で、連絡船の船乗りの中で気象の知識については彼の右に出る者はなかった。その船長を戸惑わせる現象が目の前で起こっているのである。
 台風の通過をこの眼で確認した。台風は猛スピードで遠ざかっている。今が台風の中心で気圧はこれから上がるに違いない。強風は大気が不安定だから吹いている可能性もある。取りあえず出港しよう、港の外に出てみて、あまりにも激しかったら港外で錨を入れて待てばいい。大型の台風といっても足が速いのだから、そう長く待たされることはないだろう。その時間なら港外で耐えられる自信が船長にはあった。銅鑼の音が聞こえた。出港5分前だ。
 相変わらず「洞爺丸」の前では「石狩丸」が難儀している。相当ひどいと船長は思った。予定時刻の18時半をまわった。まだ「石狩丸」は迫り来る強風と戦っている。5隻の補助汽船が全力で「石狩丸」を岸壁に押しつけた。係留索がなんとかかかり、「石狩丸」はやっと陸に固定され始めた。
「レッコーショアライン(係留索を外せ)」
 船長が三等航海士に命じた。三等航海士が復唱の後、船首と船尾にこの命令を伝えると「洞爺丸」と陸を繋いでいた係留索が外された。
「ワンロングブロウ(長声1発鳴らせ)」
 出港の汽笛が鳴った瞬間の18時39分、「洞爺丸」は遅れ4便として函館港を出港した。左舷機関を微速で回す指示を出し、船体が僅かに右を向く、船長が補助汽船に牽引を命ずると、船首とロープで連結された補助汽船が「洞爺丸」を牽引して船首を沖の方へ回転させ、合わせて操舵手が舵を右へいっぱいに回して「洞爺丸」は強い風に押されるように函館岸壁を離岸した。客室には乗客1167人が乗船、乗組員と公務職員147名の合わせて1314名が乗っていた。

 対岸の青森では「羊蹄丸」の船長が「洞爺丸」の出港を聞いた。青森桟橋では風は10メートル前後と比較的弱く、気圧も上がってはいたが981ミリバールが986ミリバールである。船長は気圧が思ったより上がらないと感じ、「台風の中心は過ぎたが、それほど遠くへは行っていない」と慎重な判断をした。風も弱いが気になるのは風向であった。17時に台風が北海道に上陸して、時速100キロで遠ざかっているなら青森では風向きはもう西に変わっていなければならない。それが南南西の風と言うことは、台風はまだ渡島半島のあたりにいるのではないかと感じた。船長は低気圧が渡島半島の西を通るときの怖さを知っていた。どんな速度の速い低気圧でも、北海道の東海上に到達すると大陸の高気圧に行く道を塞がれて速度が落ち、その間に他の低気圧や前線の刺激されて発達することが多いことを、知識でなく経験で知っていた。
 いずれにしろ、風向きの変化と気圧の上昇をきちんと見極めるまでは船を出すべきではない。そう判断した。乗客が給士を通じて苦情を言っているのも耳にしている。声高に「船長は臆病で意気地無し」と非難しているのも知っていた。
 「洞爺丸」の船長と比べて気象知識が少ないことが彼を慎重にさせた。ここは耐えなければならない。本当の海峡模様を見極めてから出よう。「洞爺丸」の航海が順調に行くのを確認してからでも遅くないだろう。それまでは臆病で意気地無しになろうと、そう判断した。

 「洞爺丸」が函館を離岸した10分後、青森から下り最後の運航船になった53便「十勝丸」が函館港外に到着、港内は避難船でひしめいているため、函館山の沖に錨を入れてそこで風が止むのを待つことに決めた。無線で「石狩丸」が着岸に相当の苦労をしたのを、知っていたのだろう。これをもって「洞爺丸」以外の全連絡船がテケミ、函館港内外で、函館・青森の両岸壁で運行再開の時を待つことになった。

 「洞爺丸」は岸壁に船尾を向け、港外へ向かう航路に乗った。補助汽船が切り離され、両舷機関半速で港口を目指していた。港口が近付くと機関を全速にして巡航速度へと速力を上げ始めた。防波堤が近付いてくると「洞爺丸」の船体は異常な揺れを感じ始めた。信じられないような大波浪が「洞爺丸」を襲いはじめたのである。波飛沫の固まりが船橋の窓に当たり、窓ガラスは壊れそうな音を上げた。波頭が風で飛んできているのである。船首の甲板員はびしょ濡れになった。防波堤を交わすと、ひときわ大きな波と猛烈な風が「洞爺丸」に襲いかかった。瞬間風速は40メートルを超えた。
 不意に汽笛が鳴った。誰も汽笛を鳴らす操作をしていないのに勝手に汽笛が鳴ったのである。二等機関士が船橋に飛び込んでなぜ汽笛を鳴らしているのかと聞いてきた。あまりの強風に煙突付近にある汽笛操作用のワイヤロープが引っぱられ、別の部品に引っかかって汽笛が鳴っていることが分かった。二等機関士が吹きさらしの端艇甲板に出て、汽笛の中間弁を閉じて汽笛が鳴らないようにした。汽笛が勝手に鳴り出すような強風は、航海士や機関士はもちろんのこと、船長にも全く経験のない出来事であった。
「これはひどい、アンカーを入れる」
船長は言った。素人目に見てもこの状況で海峡へ出て行くのは無謀である。船首の一等航海士と甲板員達に投錨の指示が伝えられたが、誰にも聞こえない。その間に機関は微速に落とされ、舵を左に回して船首を風上に向けた。横波を食らわないよう、波が来る方向に船首を向ける必要があったのだ。船長は船橋の窓を開けて、笛で投錨の指示を出したがこれも聞こえない。最後は手振りで投錨を指示して、やっと船首の船員達に「投錨」の命令が伝わった。「洞爺丸」の錨が荒れる海の底へ落ちていった。
「投錨時刻、19時01分。」
 三等航海士が時計を見て船長に報告した。防波堤から僅か1300メートルの場所であった。

 「洞爺丸」の船客には航海を中止し、風が止むまで港外で停泊して待つことは知らされなかったようである。多くの船客が船は青森へ向け航行しているものと信じていた。ただ、あまりの波浪に相当難儀していることは予想できたが。だが、船について知識がある者、連絡船によく乗る者は錨を降ろす音で停泊したと気づいたようである。船内は変わった様子はなく、売店や食堂も通常通り営業され、乗客は普段と変わらない様子であった。遊歩甲板では多くの乗客が、港内の避難船が海面を照らすサーチライトの光と、めったに体験できることのない大波を眺めてはしゃいでいた。誰も4時間後の地獄を想像すらしていない。
 「洞爺丸」から函館市街の夜景も見えていた、と思うと街中に青白いスパークが走り、船の灯りを残して街は暗黒になった。あまりの強風で電線が各所で切れ、ショートして全市停電となった。
 暗黒の海で、台風から避難する船達と台風との闘いが始まろうとしていた。

 風は弱まるどころか、南西に向きを変えてさらに強くなった。函館港の最大の弱点である南西の風が40メートル以上の強さで吹いてきたのだ。波は巨大なうねりとなって函館湾、そして函館港内にも押し寄せていた。
 その強風で函館港内は大混乱となった。前述の死船「アーネスト」が再び風で流されはじめたのである。港内は防波堤と様々な岸壁を結ぶ航路を残して避難船でびっしり埋まっていた。その中で8000トンの大型貨物船が機関始動できないまま南風にのって北へと流されたのである。風下の船に混乱が生じ、様々な船がタグボートや連絡船の補助汽船の出動を要請した。殆どの船が錨を落としているため、これを巻き上げるのに時間がかかる。なんとか錨を巻き上げても船の機関は巨大で、きちんと暖気をとらないと機関に負担が生じて故障の原因となる。この強風下での機関故障は生命とりになる。また機関を始動しても船は原理上加速するのに時間がかかる、その上低速では舵が利かず、何処へどう進むか予想できない。むやみやたらに機関を全速へ持って行くと、あらぬ方向に進んで他の船と衝突する危険がある。小型で力のあるタグボートの力が絶大なのだが、この風ではタグボートは出港できない。
 連絡船も「アーネスト」と衝突する危機に陥った。「アーネスト」の風下に「大雪丸」「日高丸」「第六青函丸」「第八青函丸」「第十二青函丸」がいた。いつでも逃げられるよう、サーチライトで「アーネスト」の姿を追い、錨を巻き上げて機関はいつでも始動できるように用意した。

 「北見丸」と「第十一青函丸」は港内は逃げ場が少なく、何かあったら危険と判断して最初から港外に逃げていた。それを知った「大雪丸」と「日高丸」の両船長は「ここも既に安全な場所ではない」と判断し、港外への避難を考えていた。「アーネスト」だけではない、「アーネスト」から逃げる国鉄外の船が風に流されて突っ込んでくる可能性もある。
 まず「大雪丸」が決断した。補助汽船も出られず、この強風下漂流されるだけの大型貨物船を交わしきる自信がないために港外への避難を決意したのである。19時16分、錨を上げて機関を動かしたがねあまりの強風に船は思うように動かず、後方に投錨仮泊していた「日高丸」に接近しすぎて衝突しそうになった。そこでやっと前進が利いたが、今度は舵が利かず前方の「第六青函丸」に吸い込まれるように近付いた。「第六青函丸」は汽笛を連呼して「大雪丸」に危険を知らせたがもうどちらもどうすることも出来ず、「第六青函丸」の側面に「大雪丸」の錨が接触し火花を散らした。しかし、幸運にも他に接触箇所はなく、「大雪丸」は「第六青函丸」を甲板にいる船員同志の顔がはっきり見える距離で交わした。さらに偶然にも船首が港口を向いていた。「大雪丸」は全速で直進し、荒れ狂う函館湾に出た。
 続いて港外へ出たのは「日高丸」である。「大雪丸」と「第六青函丸」の接触を目の当たりにしつつ、自船の状況を見ると、陸まで200メートルしかない事に気づいた。さらに錨が利かずに錨を引きずって流される「走錨」という現象が発生し、陸岸が刻一刻と迫ってきた。船長は港外避難を決意して総員配置を命令した。「日高丸」では手の空いている船員はなるべく休息をとるように船長が命じていたのであった。錨を巻き上げて、風と波に右へ左と揺られながら「日高丸」は「大雪丸」の後を追うように港外へ出ていった。
 「アーネスト」はさらに流され続けた。そして風下の「第十二青函丸」に接近したのである。「第十二青函丸」も走錨が起きて自由が利かない。「アーネスト」の巨大な船体が「第十二青函丸」に覆い被さった。船員に緊張が走った。船首スレスレのところを左舷から右舷へと「アーネスト」は流れていった。船長ははすかさず全速前進を命じ、「アーネスト」の風上へ出た。今度は防波堤との衝突が予想され、船長は港外避難を決意、錨を引きずったまま「第十二青函丸」も港外へと出ていった。

 その頃、函館駅第二岸壁に停泊中の「石狩丸」にも異変が起きていた。船員は見張りの甲板員とボイラー焚き当番の火手を残し、配置を解かれて夜食を取っていた。20時少し前、見張り当番の甲板員が食堂へ駆け込んできた。
「船長、大変です。ホーサー(係留索)が切れます!」
 甲板員は緊張した顔で怒鳴った。夜食をそのままに船員達が甲板へ上がると、船を陸に固定している鋼鉄製のワイヤーが、火花を散らしながら切れようとしていた。すかさず総員配置となった。機関室では急速暖気の手配が取られた。機関長は不測の事態に備えて機関をいつでも使えるように準備させていたのである。錨が巻き上げられた。船長は桟橋に補助汽船の出動を頼んだ。着岸時と同じように補助汽船が「石狩丸」を陸に向けて押し始めた。だが今度は風の力の方が上であった。「石狩丸」は風下に押されて、係留索は全て切れた。同時に船長が全速前進の指示を出した。機関長は海軍時代に過酷な機関使用の経験があり、無理を承知でいきなり機関を全速にした。「石狩丸」のスクリューがすごい勢いで周り、鋭い加速力を持って「石狩丸」は前進を始めた。岸壁に「石狩丸」押しつけていた補助汽船は、あまりの「石狩丸」の出足の鋭さに船首を引っぱられ、横転するのではと思うほど大きく揺れた。
 「石狩丸」はそのまま全速前進し、空いている錨地を見つけてそこに錨を降ろした。

 19時53分、国鉄海岸局が全連絡船に無線電報を送った。連絡船の現況を全船に知らせるためのもので、「十勝丸」「洞爺丸」の2隻が港外でテケミしていることを知らせるものであった。これを受け取った連絡船はすぐに自船の状況を返信しなければならない。航路近辺にある12隻中11隻の連絡船がこれに応じたが、19時57分に「第十一青函丸」は
「停電につき、あとで電報を受ける」
とだけ返答して、これに返信しなかった。船内が何らかの理由で停電し、電報を送れない状況に陥って船内で応急修理しているのだろう。この連絡は非常用電源によると思われた。

 20時の少し前から、函館湾には巨大なうねりが押し寄せるようになった。南西の風に吹かれて波が巻き上げられ、うねりになる。しかも函館湾の場合、南西方向からのうねりは風の吹走距離が長く、非常に巨大なものに成長する。さらにうねりとうねりが重なりあって、巨大な三角波になる。
 港外に出た船は強風に加えて、この巨大なうねりとも戦わなければならなくなった。船はうねりに船首を没し、波が直接船橋を叩く。大音響に続いてうねりに乗り上げ船は上昇し、うねりが去るにつれて奈落の底へ落ちて行くのである。ジェットコースターに乗せられているような縦揺れに、横揺れが加わってどの船も木の葉の如く揺れていた。棚に収納しているものはすべて落下し、引き出しはそのまま抜けて出てきた。「洞爺丸」の船室では乗客が右へ左へ前へ後へと転がり、他の船でも船橋や機関室の船員がすっ飛ばされたり転倒したりしていた。床においてある椅子や机は滑りだして、無線室で無線通信をしている通信士達はあまりの揺れに椅子を部屋の隅にロープで縛り付けて固定し、無線機器の前の地べたにあぐらをかいて通信業務に専念することになる。

 港外でテケミしていた「十勝丸」でも状況は同じだった。総員配置であったが火手の見習いだった一人の若い船員は、釜焚きがうまくできなかったためにこの状況下では使い物にならず、波浪で棚から落ちた物や抜け出した引き出しを片付け、整理整頓していた。うねりがひどく不安になって外を見ると並んで停泊している船があるのに彼は気付いた。
 その船の電灯が突然消えた。「あれっ」と思うまもなく、その船は船首を空高く上げて棒立ちになった。そして船尾から順にねじられるようにゆっくり沈んでいった。沈むときの波のすごさは例えようがなかったという。

 同じ頃、港外に出た各船に今まで青函連絡船が経験したことのない異常が起きていた。
 車両甲板に海水が浸入してきたのである。過去に一度だけ経験があったが、その時は車両甲板の入り口付近に出たり入ったりというのが主であった。でも今度のは違う、船尾から大量の水が一度に入り、船首が下がったときに車両甲板の最前部まで水が入り、船首が上がってもそれが全部出ていかずに次の水が入って来るという有様だった。次第に水が増えて、ある深さを持って「滞留」し始めたのだ。この「滞留」という経験は青函航路に車両渡船が就航してから初めての出来事で、それによって何が起こるのか、誰にも想像できなかった。

 台風は18時には積丹半島の寿都付近に到達したと気象台は発表した。だが気圧はさらに下がって函館付近では980ミリバール近くまで下がっていた。「石狩丸」では50メートルまで読める風速計の針が振りきっていた。「洞爺丸」の船長はこの気象状況に納得が行かなかったようだ。

 この頃、北海道は後志、倶知安の北にある港町の岩内町で小さな火災が発生した。ところがこの火災は風に煽られて風下の民家にあっと言う間に燃え広がり、海岸に達したところで漁船の燃料を入れたドラム缶に引火、爆発して吹き飛び、火の粉は街中に降り注いだ。その火の粉が瞬くうちに次の火災をあちこちで引き起こし、岩内町の4500戸の住宅のうち3300戸が焼失、死者・行方不明者63人を出すまでにそれほど時間はかからなかった。

 20時03分、台風のため函館港外に避難していた進駐軍のLST(米軍上陸作戦用舟艇)がSOSを発した。このLSTには米兵191人が乗っている。SOSを傍受した近くの船は助けに行く義務があるが、どの船も自分の身を守るのに精一杯でそれどころでなかった。海上保安部が付近船舶に問い合わせをしたが、「洞爺丸」と「十勝丸」が自船も難航中で救助どころでないと返答しただけで、あとは無言であった。「洞爺丸」のすぐ近くに海上保安庁の巡視艇「りしり」が停泊していたが、これも台風から自分の身を守るのに精一杯で、他船の救助どころでなかった。
 LSTはやむなく、近くの陸岸に強制的に座礁することを試みた。これに成功して20時30分、SOSを解除した。
 さらに大阪の商船会社が保有し、名古屋から室蘭へ雑貨を運ぶ途中に函館港外に台風避難をしていた貨物船「第六真成丸」(2209トン)が「洞爺丸」の近くに投錨仮泊していたのだが、錨が利かずに巨大なうねりに流されて、風下である北へ北へと流されていた。20時26分に函館湾の北に広がる七重浜海岸に座礁、船体はしっかりと砂浜に食い込み、10度ばかり傾きつつも危険はなく乗組員も無事であった。座礁を知られるSOSを打電しようとしたが、あまりの波浪で海水を頭から被ったため、無線アンテナが使い物にならずSOSは発射することができなくなっていた。

 このように、既に函館港内外の海はひとつ間違えると大きな事故が起きる地獄の海になっていた。
 連絡船各船は、後部開口から入ってきた海水が車両甲板を浸し、車両甲板と機関室やボイラー室、石炭庫を繋ぐ換気口や出入り口から水が漏れていた。これがさらなる事故を生むことになる。しかし、この時はまだ誰も青函連絡船が事故を起こして沈むなどとは、夢にも思っていなかった。


3北見丸

 前述してきたように、「洞爺丸」「大雪丸」「北見丸」「日高丸」「十勝丸」「第十一青函丸」「第十二青函丸」は港外へ出て台風と戦っていた。港外に出た船には台風をやり過ごすための作戦として、ふたつの選択肢があった。
 ひとつは「洞爺丸」のように船首を風や波の方向へ向け、錨を降ろしてその場で動かずに耐えること。もう一つは船首を風や波の方向に向け、錨は降ろさずに機関を動かして波間に船を進ませる方法である。前者の方法は「洞爺丸」の他、「日高丸」「十勝丸」が取ることになる。後者の方法を選んだのが、「大雪丸」「北見丸」「第十二青函丸」である。この後者の方法を踟厨という。

 「大雪丸」は港外へ出て、最初は投錨してやり過ごすつもりでいたが、すぐに走錨を起こして防波堤にぶつかりそうになった。そこで錨を上げて航行を続けることにした。錨を上げて前進を始めると後部開口部から海水が浸入。水は機関室へ流れて発電機がショート、主機への潤滑油ポンプが停止して機関が停止してしまった。船長は「いかなる手段を使ってでも機関を全速で動かさないと沈没する」と機関部員に迫り、全速前進を命令。機関部の必死の努力ですぐに機関は直り、「大雪丸」は前進した。今度は「洞爺丸」と衝突しそうになって、巨大な風浪で自由が利かない状況下なんとか「洞爺丸」を交わし、さらに前進するとそこに「北見丸」がいた。「北見丸」を避けようとするが、あまりの強風で操船が思うようにできず、回避に40分もの時間を要した。「北見丸」を交わした「大雪丸」はさらに前進、台風による巨大なうねりがいくつも続く、不気味な海鳴りがする暗黒の津軽海峡へ乗り出して行った。船長は関門航路から、一等航海士は他社船から、それぞれ乗り込んだばかりだったので、行く先については二等航海士が指揮を執っていた。

 「北見丸」は94便として貨車を積み込んで函館を出港し、港外に出たところでそのままテケミとなった。恐らく天候が回復すればそのまま青森を目指すつもりでいたのだろう。港外で投錨して仮泊していた。
 20時頃から猛烈な風とうねりによって走錨が始まった。船長はすぐに踟厨航法を取ることを決め、錨の巻き上げを命じたが、波が揚錨機ずある船首を洗っていたため、作業は困難となって錨は引きずったままにすることにした。後部の開口部から海水が浸入し、機関室とボイラー室に海水が浸入、焚火が困難になっていたが、航行の自由はある程度あったのではないかと考えられる。
 21時頃、「北見丸」は葛登支沖まで来た。南西側に陸地が張り出す最初の地点で、風もうねりもここなら少なくて済む。「北見丸」は当面の危機を脱し、余裕が出てきた。船員達は「この調子なら本船は大丈夫だ、頑張ろう。」と励まし合った。
 船体は左舷へ10度傾いたままだった。船長はこの傾きが気になったのであろうか、ヒーリング装置を使用してこの傾きを取ろうと考えた。10度の傾きを気にするほど余裕が生じていたのではないかと考えられる。ヒーリング装置とは貨車積み込み時に船の傾斜を補正する装置で、詳しくは第三章を参照されたい。
 まず後部船橋に行って遠隔操作でヒーリング装置を操作したが、どういう訳かうまく作動しなかった。そのために機関室にあるポンプを直接操作してみることになった。二等航海士と操舵手が機関室へ行き、ヒーリング装置のポンプを直接操作した。
 ところが、傾斜は直ろうとしない。タンク内を水が動いているのは間違いないが、船の傾きはそのままであった。15分ほど過ぎると船は少しずつ傾きを取り戻しはじめた。ところが今度は水平を越えても止まらず反対の右舷への傾きを急速に増した。傾斜の増し方が急で、船員達は慌てて周囲のものに掴まった。
 やがて25度で傾きは止まった。しかし、大した量でなかった船底の汚水が、急激にその量を増して一気に右舷側に流れてきた。機関長が「左舷に傾きを変えろ」と怒鳴る。
 操舵手は何処かに穴が空いてそこから海水が流れてきたと考えたが、他の船員は操舵手がヒーリング操作を誤ったと考えた。しかし、ヒーリング装置は水平の少し手前で止めるという手順通りに動かされていた。言い合っても仕方がなく、船員達は総出で排水に力を尽くした。それでも右舷への傾斜は少しずつ増えいった。船底に溜まった汚水は見た目には大した量でなかったが、見えない部分に大量に潜んでいたと考えられる。それが船体が水平近くになった瞬間、右舷へ流れ出し、右舷へ流れた汚水のために重心が狂って右に傾き、続いて左舷に残っていた汚水が一気に右舷へ流れてバランスを崩したと考えられる。
 22時20分、「北見丸」は右舷への傾斜に耐えられず、葛登支岬の東方3キロの地点で右舷に横転、沈没してしまった。SOSも遭難を知らせる無線も発することができなかった。夜が明けるまで誰も「北見丸」の沈没を知らなかった。
 乗組員達は暗黒の海に投げ出された。近くに陸地の影が見えるが、南西からの風とうねりがそれとは逆方向へ船員達を流した。船員達はこれから数時間に渡って、暗く冷たく荒れ狂う海と戦わなければならなかった。

4洞爺丸

 「洞爺丸」の船橋では操舵手が、船が通常航行しているときと同じように舵輪を握り、コンパスを見ながら船首方向を大声で報告していた。船橋は一番高いところにあるから一番揺れが激しく、何かに掴まってないと立っていられなかった。船長と一等航海士は窓枠をつかみ、二等航海士はレーダーにしっかり張りついていた。三等航海士はテレグラフに抱きついていた。操舵手は舵輪の前の台の上にのって舵輪を操作していたが、その台があまりの揺れで操舵手を乗せたまま動き出した。操舵手が舵輪に抱きつくと、台は船橋の隅まで飛ばされた。
 その頃、「洞爺丸」は船首が風に立たず、右へ左へと振られていた。レーダーは「洞爺丸」が錨を支点に振り子のように右へ左へと振られているのを表示していた。右へ振られたときは右から波浪を受けて、左に振られれば左から波浪を受け、次から次へと押し寄せる巨大なうねりに弄ばれていた。
「少しひけてます」
レーダーを覗いていた二等航海士が叫んだ。振り子のように振り回される「洞爺丸」の後の海岸線が徐々に近付いて来たのだ。錨が利かず、錨を引きずって流される走錨が「洞爺丸」にも起きていた。
「スローアヘッド、ツーエンジン(両舷機関、微速前進)。」
船長は叫んだ。叫ばないと猛烈な風の音と船橋に波がぶち当たる音のため、命令が他の船員に聞こえないのだ。三等航海士が機関室に機関運転命令を知らせるテレグラフ(テレグラフの詳細は次章で説明)を操作する。だがまだ「洞爺丸」は波に押されて少しずつ後ずさりしていた。
「ハーフアヘッド、ツーエンジン(両舷機関、半速前進)。」
船長が怒鳴って、機関の出力が上げられた。船は錨を支点に振り子のように振られている、そのため波が来る方向に合わせ、右から波を受けるように左舷機関のみ全速にするなど、操船方法が複雑になってきた。

 「洞爺丸」の機関室ではかつて経験したことのない事が起きていた。
 前述の通り、車両甲板に海水が溜まり、いろいろな点検口から水が機関室とボイラー室に流れてきていた。最初の漏水は左舷発電機上の脱出口からで、大粒の雨のようにざあっと降っては止まり、またざあっと降って来るという繰り返しであった。左舷発電機は水を被って周辺は湯気で真っ白だった。続いて左舷天窓から海水が流れた。天井の電球が音をたてて割れ、見る間に左舷側のあらゆる場所から海水が落ちてきた。左舷側にいた二等機関士以下全員がずぶ濡れになった。
「発電機と配電盤にカンバス(覆い)をかけろ」
機関長が怒鳴った。船橋から機関の命令を伝えるテレグラフが、「右舷全速前進」を命令してきた。蒸気弁が開き、右舷機関の回転数を上げなければならない、カンバスをかける作業に手を取られ、人出が足りない。じきに右舷からも水が流れ落ちてくるはずだ。
「総員配置につけ」
機関長が怒鳴った。非番の機関部の船員たちが船員室から機関室にゾロゾロと降りてきた。船底の機関室も船橋と同様、戦場の様相を見せていた。
 ボイラー室も浸水が始まっていた。右舷と左舷に3つずつボイラーがあり、うち右舷のもの全部と左舷の2つの合わせて5つのボイラーが使用されていた。やはり左舷から水が漏れていた。
 ボイラーに石炭をくべる「釜焚き」をしている火手は、立っているのがやっとの揺れの中で懸命に釜焚き作業を繰り返していた。一人が釜口を操作するハンドルにつかまり、一人が石炭を掬って船が揺れて水平になった瞬間に口を開いて5~6杯のの石炭をささっと投げ込む。船が大きく揺れた瞬間にスコップを持ったまま飛ばされた火手がいた。
 車両甲板では、救命胴衣をつけた甲板員が排水溝の手入れや機関室やボイラー室を結ぶ扉を固定する金具の増し締めに懸命になっていた。甲板員達にとって、この車両甲板に水が溜まるという状況は初めてどころか、聞いたこともないことであった。車両甲板には後部開口から波が打ち上げ、先端部まで海水が往復していた。大きな波が来ると甲板員達は貨車の上に逃げたり、エビのような姿勢で車両緊締具にしがみついたりしていた。次第に車両甲板に滞留する水の量は増え、水が移動する勢いも激しくなって甲板員の作業は危険となった。
 左に傾斜していた船体が、大波を食らって傾斜を右に変えた。この時、船体は激しい胴震いをたてて、激しく揺れた。車両甲板の水が左舷側から右舷側へと一気に流れ、作業していた甲板員達は足下を掬われそうになって、危険と判断して車両甲板から逃げた。同じ揺れの衝撃で、機関室では機関長が左舷から右舷へと跳ね飛ばされ転倒、その上に水が流れてきた。同時に、もう海の一部となってしまった車両甲板の下は右からも左からも浸水が始まり、それを止めることは誰にもできなかった。

 船室にも混乱が生じていた。この日はかなり荒れて揺れるであろう事を予想し、船にある金だらいを全ての船室に配置した。船客が船酔いしたときに嘔吐するためのものである。ところがこれが船のあまりの揺れで船室内を前後左右に走り回り、とても使える状況でなかった。そして船客用の茶碗がしまってあるロッカーの引き出しが抜け落ちて、やかんが吹き飛んだ。給士がそれをひとまとめに紐で縛った。
 大きな揺れが来ると老人や子供が船室の畳の上を端から端へと転がっていった。そして通路に落ちてあちこちで子供の泣き声が聞こえた。腹這いになって揺れに耐える船客もいた。船室にロープを張り巡らせて、大きな揺れに耐えようとする「かつぎ屋」たちの姿もあった。
 二等入口広間に整然と並べられていたソファは動き回ってバラバラになってしまい。寝台船室では寝台から客から転がって落ちていた。だが、そんな二等船室の一角で、外国人客の一人が手品ショーで場を落ち着けて、そこだけ恐怖を忘れて笑い声が響いていた。

 ボイラー室では「洞爺丸」の運命を決定付ける悲劇が起きていた。






と。ココ↑に書いてある描写がホントだとすると、

洞爺丸台風みたいなのは・・・今まで、来ていなかった・・・というだけなのではないか・・・と。






それで、

今一つ思うのは、


原発って、

津波に×

振動に×

なんだけれども、

ひょっとして、
超強力な台風にも???

ということだけれども
(まあ、
送電線遮断されて、
地下の発電機が浸水して、
ステーションブラックアウトが継続すれば、まあ、そういうことか^^;)、

今日のトコは、その件は置いておきましょう。





あと、引用記事に、



「SOS、洞爺丸。函館防波堤灯台267度8ケーブル地点に座礁せり。」
「本船は500キロサイクルでSOSを打ったからよろしく。」
 「洞爺丸」が22時39分から41分にかけて陸上に向けて打電した。国鉄の海岸局も函館の海上保安部も震撼した。青函連絡船のSOSが初めて入電したのである。だが、船は座礁したのであって、沈没するなどと考えた者はいなかった。七重浜のような砂浜に座礁すれば、船は砂に食い込んで安定するはずである。陸上にいる誰もが「洞爺丸」に何が起きているか正確に把握することはできなかった。
 国鉄の対応は補助汽船を現場に急行させた。しかし、あまりの大波浪に港外にも出ることができずに引き返すことになった。風が若干弱まったとは言え、波とうねりはピークに達していた。この状況で小さな補助汽船を出したところで、新たな遭難を増やすだけである。誰も陸上から七重浜海岸に救援隊を出そうとは考えていなかった。これは誰も沈没を予想していなかった証拠である。船はその場に安定して止まり、乗客も船の中で無事で、救助船が来るのを待っている。誰もがそう思ったに違いない。
 天は「洞爺丸」を見放したのか、船内の電灯の光がすうっと暗くなった。一度明るくなったと思った瞬間、「洞爺丸」の電灯は消えて真っ暗になった。船内に乗客の悲鳴が響いた。

「今何度まで傾いている?」
傾きが大きくなった「洞爺丸」の船橋で一等航海士が聞いた。
「45度です。」
操舵手が滑り台のように床を滑って答えた。
「大丈夫だ、船は起きあがる。」
船橋のガラス窓が割れて船員たちの帽子が飛んだ。鋭い風と波が船橋を洗った。船体の傾きは止まることなく増えていった。車両甲板から金属の塊がぶつかり合う鋭い音が響いた。車両甲板の車両たちが一気に横転したのである。「洞爺丸」はさらに傾きを増して一気に90度近くまで傾いた。船橋では右舷側から水が噴き出した。一等航海士は水に吹き上げられて望遠鏡に掴まった。救命胴衣を着けていた二等航海士はレーダーから離れて水に浮き、三等航海士はテレグラフにまたがっていた。船長はそのまま水没したようだ。船員たちは今は上になった左舷の窓から、脱出していった。既に左舷船腹は水平になり、マストも煙突も水中に没した。
 22時43分、「洞爺丸」は七重浜沖600メートルの地点で横転、沈没した。船体は130度回転したところで煙突を海底に突き刺すような形で止まった。


「SOS、洞爺丸。函館防波堤灯台267度8ケーブル地点に座礁せり。」
「本船は500キロサイクルでSOSを打ったからよろしく。」
 「洞爺丸」が22時39分から41分にかけて陸上に向けて打電した。国鉄の海岸局も函館の海上保安部も震撼した。青函連絡船のSOSが初めて入電したのである。だが、船は座礁したのであって、沈没するなどと考えた者はいなかった。七重浜のような砂浜に座礁すれば、船は砂に食い込んで安定するはずである。陸上にいる誰もが「洞爺丸」に何が起きているか正確に把握することはできなかった。
 国鉄の対応は補助汽船を現場に急行させた。しかし、あまりの大波浪に港外にも出ることができずに引き返すことになった。風が若干弱まったとは言え、波とうねりはピークに達していた。この状況で小さな補助汽船を出したところで、新たな遭難を増やすだけである。誰も陸上から七重浜海岸に救援隊を出そうとは考えていなかった。これは誰も沈没を予想していなかった証拠である。船はその場に安定して止まり、乗客も船の中で無事で、救助船が来るのを待っている。誰もがそう思ったに違いない。
 天は「洞爺丸」を見放したのか、船内の電灯の光がすうっと暗くなった。一度明るくなったと思った瞬間、「洞爺丸」の電灯は消えて真っ暗になった。船内に乗客の悲鳴が響いた。

「今何度まで傾いている?」
傾きが大きくなった「洞爺丸」の船橋で一等航海士が聞いた。
「45度です。」
操舵手が滑り台のように床を滑って答えた。
「大丈夫だ、船は起きあがる。」
船橋のガラス窓が割れて船員たちの帽子が飛んだ。鋭い風と波が船橋を洗った。船体の傾きは止まることなく増えていった。車両甲板から金属の塊がぶつかり合う鋭い音が響いた。車両甲板の車両たちが一気に横転したのである。「洞爺丸」はさらに傾きを増して一気に90度近くまで傾いた。船橋では右舷側から水が噴き出した。一等航海士は水に吹き上げられて望遠鏡に掴まった。救命胴衣を着けていた二等航海士はレーダーから離れて水に浮き、三等航海士はテレグラフにまたがっていた。船長はそのまま水没したようだ。船員たちは今は上になった左舷の窓から、脱出していった。既に左舷船腹は水平になり、マストも煙突も水中に没した。
 22時43分、「洞爺丸」は七重浜沖600メートルの地点で横転、沈没した。船体は130度回転したところで煙突を海底に突き刺すような形で止まった。



「洞爺丸」の場合は少し違う。同じように機関運転が不能になった段階で、七重浜海岸へ向かって流された。その頃、七重浜沖には長大なうねりが運んできた砂が海底に溜まり、海岸から数百メートルの沖に大きな砂の丘が出来ていた。「洞爺丸」は流されている途中でその丘に触底し、船長と一等航海士はそれを砂浜に座礁したと誤認した。そのまま風下に流されながら丘にバウンドし、何度目かの触底で船底にある右船底にある「ビルジキール」が丘に突き刺ささり、風下への漂流は止まった。突き刺さったビルジキールは海底をしっかり噛んでしまうが、風上から来る波浪により「洞爺丸」を風下へ押し流す力は止まらず、船体を右舷船底を軸に回転する方向に動かした。船長が船橋の船員たちに救命胴衣の着用を命じた頃にこの現象が起きたのであろう。船体は徐々に右舷へと傾きを増し、傾斜が50度に達した頃に車両甲板の貨車が転覆、同時に左舷側の錨のチェーンが切れて横転したと考えられている。




ここで、

座礁した(乗り上げた)ハズなのに、転覆してしまった><

というケース。


これ、今は懐かしい? トラバ元記事↓にもチョロッと触れられている、









だって本当に危なかったら
イタリアの豪華客船転覆みたいに
船長脱出しちゃいますから。
今の日本はそういう国なのでとりあえず大丈夫(笑)







イタリアの豪華客船転覆 。


これも、たぶん、


座礁(乗り上げた)事故なのに、

転覆事故になっている


というケースでもあるんでしょうね。



あちらはたぶん、

潮が引いてしまって、浮力が失われて、横倒しになってしまった、

とかそういう理由とは思いますが。






あと、

今日の、引用記事に、↓このような記述がみられる。



さらに国鉄は、津軽海峡輸送改善の究極の対策として、津軽海峡の海底にトンネルを掘る「青函トンネル」構想を打ち出した。戦前から構想があったものの、戦争や占領政策のため調査は頓挫していた。「洞爺丸」沈没事故をきっかけに既に始まっていた海底調査が本格化し、数年で海上からの調査はすべて完了した。
 1964年(昭和39年)5月8日、北海道側で調査坑(後の先進導坑)の掘削が始まり「青函トンネル」は事実上の着工となる。現在の津軽海峡の動脈である青函トンネルは「洞爺丸」の悲劇が建設に拍車をかけたのは間違いではなく、「洞爺丸」の犠牲者の恨みの声がなければ、青函トンネルはなかったかも知れない。


これ↑は、この人のオリジナル分析というより、
多くのところで言われているし、
そうだったんでしょう。


それで、ひとこと、書き記しておくと、

仮に、

仮に、対馬海峡あたりで、

日韓を結ぶフェリーの類が大事故が起きたとして、




じゃあ、

究極の対策として、日韓トンネルを^^;


などという話になったとしたら、私は、大反対しますね。



海難事故がいっくら起きようが、

それによってどれほど人が苦しんで死のうが、

現状としては、

日本と韓半島を、結んではいけない

と思っています。私は。



そもそも、トラックのダブルナンバー制にも反対だし、

万が一、

万が一、日韓トンネルなんてぇモンが造られたとしましょう、

そのとき、

じゃあ、日本の高速道も欧亜車道規格で^^v

右側通行で グローバルスタンダードに ^^v

な―――んてことは、

私は、受け入れることができません。



取り敢えず、それは、書き記しておきます。
Posted at 2012/10/21 03:45:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | 欧亜車道は未開通。 | 日記

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