この記事は、
【グレートウォール】アミューズのページが残ってる(苦笑)について書いています。
アミューズ主催のツアーが、
トムラウシで遭難(3年前)
北京で遭難(このあいだ。再発)という事故をきっかけとして、
今、山の話・・・をやっています。(復習? ^^;)
で、
話・思考の入り口であり、出口である部分? として、
「それ」は、
■冒険(アドベンチャー) なのか?
「それ」は、
■アミューズメント(クルーズ) なのか?
という大きな論点があるワケです。
どっちなのよ? と。(復習 ^^;)
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それでは、
■自己紹介乙
以前の、私(猛走峠)の記述:
「中央高速烈伝」のカテゴリーで、
「鉄道の走りにおいて、峠の存在は百害あって一利なし」
「おおかたの人や一般社会にとって、峠の存在は百害あって一利なし」
という、
不愉快な言い回しをしたが、
それに関して根源を理解するならば、
そもそも論として、
大昔の世界に想像力を廻らせなければならない。
むかしむかしの話。
山の向こうに行くには、当然ながら、山を越えていく必要性があった。
言い換えれば、峠を越えていく必要性があった。
峠を速く走れる者だけが、
山の向こう側へ、
より遠くへゆくことが出来た。
しかし、
峠を走るには、ドライビング技術が必要だ、と私は書いた。
しかしながらそのことは、
峠を走る技術のある者しか、山の向こうへはゆけない、
ということに他ならない。
そんな時代が、いつまでも通用するのか?
そんな、おおかたの人が、おおかたの車が、山の向こうへは行かない世の中が続いてよいのか?
そんな「閉塞」から、ドライバーを解放するものが、高速道路なのである。
だから、
真っ先に鉄道の本線は、
線形改良の対象になる。
続いて、
クルマの世界に置いて、線形改良の形として、高速道路が出来る。
そうでなければ、
峠を越えられる技のある者にしか、山の向こう側へは行けない。
そういう世の中となる。
何のことはない。
つい最近まで、そういう世の中は、続いていたのである。
高速道路が出来る前、あるいは自動車街道が整備される前は、
自らのクルマを遠くへ、というのは、選ばれた乗り手にだけ許された行為だったのではないか。
そういう時代、東京圏のマイカーの殆んどは、向こうにそびえる山並みのあちら側へは、ついぞゆかずに、車としての生涯を終えていたのではなかろうか?
(あまり酷使されていないので、海外輸出されるということが多かったらしいが)
ご年配のドライバーの方々、思い出していただきたい。
そうではなかったろうか?
だが、
このブログで、こんなことも書いた。
「走りを志す者は、峠を好む」
「峠を好む走り屋を、峠の走り屋という。なぜなら、峠を走るには技術が必要だからだ」
と。
言ってみれば、峠の走り屋が目指していることは、明らかに、時計の針を戻している。
しかし、最近、こんな趣旨のことを言っている人は、いなかっただろうか?
「技と、伝統を追求するには、場合によっては、時計の針を戻すことも必要なんじゃないでしょうか」
峠の走り屋ってのも、同じことだと思っている。
技を追い求めるには、
場合によっては、
時計の針を戻すことも必要だ、と。
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↑
何が言いたいのか?
わけわからん(笑)。
一般的には(笑)。
アミューズ主催のツアーが、
トムラウシで遭難(3年前)
北京で遭難(このあいだ。再発)という事故をきっかけとして、
今、山の話・・・をやっていますね。
で、
話・思考の入り口であり、出口である部分? として、
「それ」は、
■冒険(アドベンチャー) なのか?
「それ」は、
■アミューズメント(クルーズ) なのか?
という大きな論点があるワケです。
↑
こういうことの本質論を考えることについて、
今の私は、かなりの自信があるぞ(笑) ということです。
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船の歴史においても、そうです。
ほぼ、同じような文法で語ることができるワケです。
最初は、冒険だった。
バスコ・ダ・ガマや、
コロンブスや、
マゼランが航海していた時代は、
紛れもなく、
■冒険(アドベンチャー) だった。
それが、進化することによって、
■アミューズメント(クルーズ) の性質になってゆき、
近代海運の考え方になって、
免許だ
許認可だ
保険だ
船客傷害責任保険だ、
自賠責だ
責任は、船長の責任&船主の責任。
(事故の)法理として、
・刑事
・民事
・行政
だ――――と。
そういう世界になってますね――――(現在)と。
ま、↑こういう今の、近代海運の時代にもね、
ヨットはありますよ。
ヨットは。
ヨットは冒険ですよ。自己責任ですよ。ええ。
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登山の歴史においても、そうです。
ほぼ、同じような文法で語ることができるワケです。
登山だって、最初は、当然、冒険だった。
「そこに山があるから」
死の危険を顧みず、ヒラリー卿は
エベレストに消えた。
この時代、紛れもなく、
登山は、
■冒険(アドベンチャー) だった。
それが、進化することによって、
■アミューズメント(クルーズ) の性質になってゆき、
近代海運みたいな考え方になって、
免許だ
許認可だ
保険だ
旅客傷害責任保険だ、
下山に、ヘリコプターもアリだ―――
(スイス・マッターホルンなんてそうじゃんw)
責任は、ガイドの責任&旅行会社の責任。
(事故の)法理として、
・刑事
・民事
・行政
だ――――という話になってる。
そういうトコが、
けっこう多いですよね――――と。
↑こういう今の時代にもね、
ヨットのような、
冒険としての登山は、ありますよ。
その場合は、自己責任ですよ。ええ。
それ を 愛好する方々は、
自分自身のことを、
山屋 と呼ぶんですけどね。
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ただ、
トムラウシや北京近郊での遭難事故の話を
そういう、山屋の観点 で語るべきなのか――――
ということについては―――――
実は、ちょっと―――問題があるんですよ。
ちょうど、
大型客船の事故を、
「ヨットマンの俺としては~~~」とか言ってるような話になっちゃうんですよ。
これ。
しかも、
ちょこば(←山屋)説 が、
まさに、 それ なんですよ ^^;
実は。
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客船は、
■アミューズメント(クルーズ) の性質ですから。
近代海運の考え方ですから。
事故が起こると、
免許だ
許認可だ
保険だ
船客傷害責任保険だ、
責任は、船長の責任&船主の責任(など)。
(事故の)法理として、
・刑事
・民事
・行政
だ――――と。
そういう話になるんですけどね――――
ところが、ここ(大型客船の事故)に、
「ヨットマンの俺としては~~~」と話を持ち込むときは、実は要注意なんですよ(笑)。
航海は冒険です。
責任は自己責任です。
旅客傷害責任保険?
何を言ってるんだか―――
自己責任だから、
生命に対する金銭補償の受給権、
それ↑自体が存在しないんじゃん?
マスコミ曰く、遺族が絶句した。だと。
ふーん。遺族は絶句するよね。
⇒
ゴネ屋が湧いた時こそ要注意です。
↑
自己責任=生命に対する金銭補償の受給権=存在しない(by山屋)
だから、
ゴネ屋 という話になる(なってる^^;)んです。
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でも実は、↑これは、
大型客船の事故を、
「ヨットマンの俺としては~~~」とか言ってるようなもんじゃん? ^^;
という印象が、正直、あるんですよ ^^;
じゃあ、
ちょこば説は不適切!!
すべて間違いだ!!
ともならない。
間違いじゃない と思うんです。
なぜなら、
“アミューズ”と銘打ってるので、
「冒険」であることそれにまつわる危険─は
オブラートにくるんで…
アドベンチャーじゃないですよ♪
アミューズメントです♪
的なw
↑
渦さまの表現。
そう。
表面は、
“アミューズ”と銘打ってるので、
■アミューズメント(クルーズ、この場合は、バスツアーと同じ、かな^^;)です――――
とみせかけてあるが、
中身は、
■冒険(アドベンチャー) だった。
「そこに山があるから」
死の危険を顧みず、エベレストに消えた ヒラリー卿~~
の時代と何ら変わりない。
紛れもなく、
冒険(アドベンチャー)としての、登山 という性質になっていた――――
そういう構造があるもんで、
ちょこば説(←山屋目線)も、
これまた、
間違いではない と思うんです。
今日はここまで ^^;