「人類最後の日の空。
あー、あと少しであそこに行けるのね〜。
早く隕石落ちてこねーかな。
はよ死なせろよ、神。
↑
どい様m(_ _)m
画像と文章を頂戴しまして、誠に誠に
ありがとうございますm(_ _)m
ま、でもですねぇ~~
隕石のレベルだと、
隕石が、
どい様の家に落ちるとか、
例えば、
どい様の家の前の、道とか塀とかガレージに激突とか・・・、あ、いや、失礼。
とにかく、
比較的、近くに落ちないと、
もうすぐ あそこ には 逝けない と思うんですわ。
隕石が、
地球の反対側のマヤの遺跡あたりに落ちちゃうと、
塵が地球を覆って―――、
農業が壊滅し―――、
かつてないほどの冬、
かつてないほどの食糧難が延々続き―――
―――滅亡まで、今しばらくの時間を要した、
どい様も、
ワタシも、
爆死じゃなくて、
餓死になった可能性が高い、と思うんですわ(苦笑)。
ラーメン星・・・じゃなかった、
ラーメタル星
(↑直径は地球の
9倍。109404km)
がキュボーンって衝突して、
地球が バカっ♪ って割れちゃうくらいでないと、
ただちに は、
あそこへ は 逝けないと思うんですわ。
ま、それでも、
人類全体として、滅亡の危機となる、
全体として、危険
であることは変わりない、
ですわな(苦笑)。
いろいろ考えると―――ですねぇ―――
「全体として、安全とは言えない事例」
「全体的に、非常に危険な事例」 というのは、
水爆 と 巨大隕石 くらいしかない。 ようです(苦笑)。
■水俣病も 統計学的には安全
■イタイイタイ病も 統計学的には安全
■煤煙による喘息等も、 統計学的には安全
■自動車は事故を起こしてしばしば死に至らしめる。
でも、「全体としては 安全」
街中で、半端ない暴走運転をする暴走族が、多数いる国でさえ、
全体としては、充分、安全
■小学校で、銃を乱射してたくさんの人が死んでも
全体から見たら、安全。
■地下鉄サリン事件も。(書き加えた)
■関東大震災も。
■東日本大震災も。
■戦争だって
■原爆だって
広島型や長崎型くらいまでは・・・
「全体として、安全とは言えない事例」
「全体的に、非常に危険な事例」 というのは、
水爆 と 巨大隕石 くらいしかない ようなのです。
↑
これが、(統計の)真実 であるようなのですね。
**********
つまり、
「真実」としては、
「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆 と 巨大隕石 くらいしか、存在しないようである、と。
↑でも、
この 「真実」 が、社会的に受け入れられるのか? といえば、
今現在、それ
は ダメ でしょ?
倫理的に受け入れ可能なのか?
ダメ でしょ?
現在、
法的に、そういうことでやっているのか?
違う でしょ?
被害者や被災者に、
「大丈夫。あなたは運が悪かっただけだ。全体としては、安全だから」って言えるってことでしょうか。
とても言えませんよね。
以下の記事は、
「人は数字では無い。」
■水俣病も 統計学的には安全
■イタイイタイ病も 統計学的には安全
■煤煙による喘息等も、 統計学的には安全
■自動車は事故を起こしてしばしば死に至らしめる。
でも、「全体としては 安全」
街中で、半端ない暴走運転をする暴走族が、多数いる国でさえ、
全体としては、充分、安全
■小学校で、銃を乱射してたくさんの人が死んでも
全体から見たら、安全。
■地下鉄サリン事件も。(書き加えた)
■関東大震災も。
■東日本大震災も。
■戦争だって
■原爆だって
広島型や長崎型くらいまでは・・・
(↑に関して、)たしかに事実の「ひとつの側面」として間違ってはいないと思います。
しかし、実際の被害や被災の対策を講ずる場合に「全体としては、安全」にどれ程の意味があるのでしょうか。
母数を全体にすると確かに被害は少なく「見えます」。
しかし、実際に何かしらの措置が必要なのは被害や被災にあった側なのだから、
母数=被害(被災)としなければ意味が無いです。
だって本当に何が必要かを知っているのは被害者や被災者だけなのだから。
人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。
人は法を守る為に生きているのではなく、
人が生きる為に法が必要なのです。
国民は国の資源では無いし、人は単なる社会の資源ではありません。
まして人の本質は数字などでは決して無いです。
今回の震災でも沢山の人が死にました。
そしてこれからも何年、何十年もかけてまだ増えます。
それも全体から見ればほんの僅かな数でしょう。
だけど
そんなふうに被害を見る事になんの意味があるのか
自分には解りません。
数億の中のたった一人でも、その人にとってはそれが全てです。
だって死んでしまったらもう何も出来ないのですから。
自分の人生を守る事も、大切な人を守る事も。 について書いています。
被害者や被災者に、
「大丈夫。あなたは運が悪かっただけだ。全体としては、安全だから」
って言えるってことでしょうか?
⇒ 現代では、言えませんよね。
昔は・・・
前近代は・・・、
そうやって考えてきた――― と思うのです(妄想。)
被害や被災を、「運命」として受け入れてきた と思うのです(妄想。)
昔の人は、
その犠牲者の当人となったとき
運命 としてこれを受け入れ、
また、社会全体としても、 運命 として、そのことを許容していた、と思うのです(妄想)。
ダテに、
「運が悪かった」という言葉があるワケではないんですよね(妄想的な考察)。
でも、現代では、違うのです。
近代でも、
19世紀なんて、
「水銀中毒(水俣病)も、全体としては、安全である」
なノリで、やってきたでしょ^^;
イギリスの産業革命期とか、
排煙も、触媒無しで排出し放題。
有害物質も、垂れ流し放題。
もちろん、街は真っ黒け。
公害病だって、出たでしょ。
でも、
マンチェスターが壊滅したのか?
リヴァプールが壊滅したのか?
といえば、それは違うワケで。
一部の個体が、「発症」したワケですね。
近代でも、
「全体としては、安全」でやってきた
と言って、概ね 間違いない でしょうね。
だって、
「真実」としては、
「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆 と 巨大隕石 くらいしか、存在しない んですからね。
じゃあ、
現代で、↑これが通るか? って話なんですけどね。
この 真実 とやらが。通るのか?
有害物質も、垂れ流し放題 ←犯罪指定されてますね。
排煙も、触媒無しで排出し放題 ←車両規則等によって禁止されてますね。
公害病だって、出たでしょ ←傷害の発生だ! 不法行為だ! 排出者は犯罪者だ!
でも、↑これは、「ごく、一部の事象」です。
「全体としては、安全」なんです。
「真実」としては、
「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆 と 巨大隕石 くらいしか、存在しない んですから。
「全体としては、安全」にも関わらず、
危険認定し、
規制だ、処罰だ、
防護だ、救済だ、賠償だ、
としているワケですね。
現代では。
「全体としては、安全」 にも関わらず、
人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。
という
信念? 思想? 信条? の下に、
言論がなされ、
思考が展開され、
法律が作られ、
操業がなされている、らしいのですね。
勿論、自分も、こう↓思っていますよ。
人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。と。
勿論、自分も、↑こう思っていますよ。もちろん。
ちなみに、この、一般的な考え方は、
「人間の安全保障」 とかいったような名称・概念だと思います。
日本も、
アメリカも、
イギリスも、
フランスも、
ドイツも、
中国は・・・ビミョーか^^;法律上は、まあ、違いますな。
中国人の思考とか操業形式は・・・アレみたいだけど^^;
取り敢えず、
20世紀後半期以降、
現代では、
人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。
とか、
「「その、悲惨な1人を出さないために!」という思想」
の下に、
言論がなされ、
思考が展開され、
法律が作られ、
操業がなされている、らしいと、いうことです。
勿論、自分も、そう思っていますよ。信じてますよ。
「人間の安全保障」の考え方の、「信者」なんでしょうね^^;
しかし、ワタシは・・・
自分が採用している説・信じている説は、
どういう条件において、倒れるか?
ということを考えるのも、けっこう好き なんですね。
人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然
「「その、悲惨な1人を出さないために!」という思想」
「人間の安全保障」の考え方
↑
これが、どういう条件で倒れるか?
「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆 と 巨大隕石 くらいしか、存在しない
という 真実が、
首をもたげた とき
(頭をもたげた)
倒れる のです。
統計学や自然科学の数値を出されると、
それはどうも、敗れ去る、ようなのです。
「全体としては、安全」 という答えが出るのです。
水爆 と 巨大隕石 以外は、
「全体としては、安全」 という答えが出る(笑)ようなのです。
だから、私は、
現代法の下での世界に於いて、
例えば、大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、
「防護手段はどう採るか?」という 「手段」のみを検討すべき、であり・・・
「安全か?」「危険か?」という議論は、
現代法の立場では、 「やっちゃいけないこと」だったかもしれない。
と書いてきたのです^^;
統計学や自然科学の数値を出されると、
それはどうも、敗れ去る、ようなのです。
「全体としては、安全」 という答えが出る、
「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆 と 巨大隕石 くらいしか、存在してない ようだ、
という 真実が、
ヌッ と 頭をもたげてくるから です。
20世紀後半期以降、
現代では、
人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っている
と、考えられています ね。
それを守るのは当然です
と、考えられています ね。
私も、そう考えていますよ。
でもそれは
そのように、 考えられている
そのように、 思っている
という思想・信条(心情)である、ようなのです。
つまり、「科学的真実」とか、「真実」ではないようなのです。
だから、
例えば、大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・
「防護手段はどう採るか?」という 「手段」のみを検討すべき、であり・・・
(繰り返し。)
**********
追加: ↑ここまで語ると、トラバ元の、こぺてりあ さんには、題意が伝わりまくった^^; と思うのです。
例えば、
大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・
「防護手段はどう採るか?」という 「手段」のみを検討(すべき)
⇒即決:
実際の被害や被災の対策を講ずる場合
↑
私(猛走峠)が言っていること。
「すべきでない」「やっちゃいけないこと」と評していること。
↓
例えば、
大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・
「安全か?」「危険か?」に主眼を置いて検討
「危険」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講ずる場合
「安全」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講じなくてよい場合
必ずと言ってよいほど、「安全」の答えが出る。
謀略とか、隠蔽とか、そんなんじゃなくて、
ホントにホントに、
「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆 と 巨大隕石 くらいしか、 地球上に、存在してない から。
という 真実が、ヌッ と 頭をもたげてくる。
「安全」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講じなくてよい場合
「人は数字では無い。」
実際の被害や被災の対策を講ずる場合に
「全体としては、安全」にどれ程の
意味があるのでしょうか。
↑
実際の被害や被災の対策を講じなくてよい
という答えを導く
効果 があると思いますね。
⇒
実際の被害や被災の対策を講ずる講じなくてよい場合
これは↓20世紀後半期になって、共通化した【人間の安全保障の考え方】です。
母数を全体にすると確かに被害は少なく「見えます」。
しかし、実際に何かしらの措置が必要なのは被害や被災にあった側なのだから、
母数=被害(被災)としなければ意味が無いです。
だって本当に何が必要かを知っているのは被害者や被災者だけなのだから。
人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。
【人間の安全保障の考え方】↑ですね。
人は法を守る為に生きているのではなく、
人が生きる為に法が必要なのです。
国民は国の資源では無いし、人は単なる社会の資源ではありません。
まして人の本質は数字などでは決して無いです。
今回の震災でも沢山の人が死にました。
そしてこれからも何年、何十年もかけてまだ増えます。
それも全体から見ればほんの僅かな数でしょう。
だけど
そんなふうに被害を見る事になんの意味があるのか
自分には解りません。
↑20世紀後半期になって、共通化した【人間の安全保障の考え方】(現在の、常識?か)
を基礎にして考えているから
わからない のです。
数億の中のたった一人でも、その人にとってはそれが全てです。
だって死んでしまったらもう何も出来ないのですから。
自分の人生を守る事も、大切な人を守る事も。
ま、↑このへんの考え方だの、スローガンだのは、
そう遠くないうちに、国連あたりで表現され始めるでしょうね^^;
「人間の安全保障」とかと同じようなカンジで・・・
そうだな・・・
「他人の子供でも、 自分の子供と同等に考えた 防護政策を」とか、そういう趣旨かと思います。
**********
私の論述を、こぺてりあさんの文章も使って、まとめると・・・
例えば、
大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・
「安全か?」「危険か?」に主眼を置いて検討
「危険」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講ずる場合
「安全」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講じなくてよい場合
必ずと言ってよいほど、「安全」の答えが出る。
ホントにホントに、
「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆 と 巨大隕石 くらいしか、 地球上に、存在してない から。
真実↑ 。
「安全」or「危険」の検討の結果:
「安全」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講じなくてよい場合
↓
↓
「人は数字では無い。」
たしかに事実の「ひとつの側面」として間違ってはいないと思います。
そりゃ――、
「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆 と 巨大隕石 くらいしか、 地球上に、存在してない
という、真実? があるでしょうからね。
しかし、実際の被害や被災の対策を講じなくてよい場合講ずる場合に「全体としては、安全」にどれ程の意味があるのでしょうか。
母数を全体にすると確かに被害は少なく「見えます」。
しかし、実際に何かしらの措置が必要なのは被害や被災にあった側なのだから、
母数=被害(被災)としなければ意味が無いです。
だって本当に何が必要かを知っているのは被害者や被災者だけなのだから。
人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。
人は法を守る為に生きているのではなく、
人が生きる為に法が必要なのです。
国民は国の資源では無いし、人は単なる社会の資源ではありません。
まして人の本質は数字などでは決して無いです。
今回の震災でも沢山の人が死にました。
そしてこれからも何年、何十年もかけてまだ増えます。
それも全体から見ればほんの僅かな数でしょう。
だけど
そんなふうに被害を見る事になんの意味があるのか
自分には解りません。
数億の中のたった一人でも、その人にとってはそれが全てです。
だって死んでしまったらもう何も出来ないのですから。
自分の人生を守る事も、大切な人を守る事も。
↑
↑
これが、
大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・
「安全か?」「危険か?」に主眼を置いて検討
することの、
「効果」だと思います。
だから、ワタシは、
(かくいうワタシが、
「人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然」という、
【人間の安全保障の考え方】に立脚しているから)
「すべきでない」「やっちゃいけないこと」と評しています。
カッコよく言うと?(カッコつけてる場合ではない)
『真実』は、『思想・信条(心情)』を破ってしまう から。
Posted at 2012/12/28 04:31:33 | |
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