この記事は、
【武田&副島】猛走峠さんがえぐり出した原発事故の本質【喧嘩対談の意味】について書いています。
↑お褒めに預かりまして、光栄です。
いや、マジで。
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私なりに、再要約すると
副島先生は経済学者として、
日本は全体として安全であるから、復活するんだ、 という経済的事実を
原発の目の前で立つことによって世界に発信したんです。
一方、
武田教授はもと核技術者として、
安全衛生の考えと法治の考え
そして科学者の良心を世界に発信したんです。
お二人共世界を見据えたんですね。
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■このあたりを猛走峠は気づきながら、ちょこばさんの
エントリーをベースにしなきゃ、整理できなかった。
とんだ筆不精です。
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■法律の恣意性 や 統計の真実性 は昨日書かせて頂きました。
(ちょこばさんに寄せられた)
ユーリックさんのコメント
数学は2であり
統計はほぼ2であり
会計はいくつにしましょうか
私、猛走峠も気づいてはおりましたが
武田教授も副島先生も統計はほぼ2であることを気づいた上で
武田教授は科学者として、2を主張し
また、
技術者として、
現代の法の考え方と、
それに基づいた、
現代の会計の「許容範囲(コンプライアンス・良心)」
2は、許容範囲外。
せいぜい1か、0になるよう、対策を発動してみせるべき、ことを発信した。
一方の副島先生は、経済学者として、
最悪でも2、自分の身体なら0だ、と主張し、
あとは、
事象全体が、確率の問題にすぎなくなる、
東日本全体が壊滅するワケではなくなった、
ということを自らの体で実証した。
(福一正門に立ってみせた)
つまり
「こんなものは、
100年前や200年前の法の考え方なら、
会計上0として処理してきた!」 と大見得をあの時点で切ってみせた。
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でも↑この考え方は、
弘(2型)さんの言う通りで人倫に反してるかな?
現在の人倫に反してる事くらいは分かってます。
被害者や被災者に、
「大丈夫。あなたは運が悪かっただけだ。全体としては、安全だから」って言えるってことでしょうか。
とても言えませんからね。
でも、
昔(前近代)の人は、
その犠牲者の当人となったとき
運命 としてこれを受け入れ、
また、社会全体としても、 運命 として、そのことを許容していた、と思うのです
(妄想。だけど、そうでしょ。これ)。
ダテに、
「運が悪かった」という言葉があるワケではないんですよね(妄想的な考察)。
近代でも、
イギリスの産業革命期とか、
排煙も、触媒無しで排出し放題。
有害物質も、垂れ流し放題。
もちろん、街は真っ黒け。
公害病だって、出たでしょ。
でも、
「全体としては、安全」でやってきた。
これ↑は、
現代の人倫に反しています。
主要国の法律も、今は、このやり方を許容していません。
「人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然」
と考えられています。
しかしながら、
「人は誰しも―――」
って、たいていの人が考える・言うようになったこと自体、
その歴史は驚くほど浅いってことですよ。
あんまり表記したくないんですけどね・・・
「間引き」やってた時代も、あるでしょ。
そして・・・
原子力でも・・・アメリカなんて・・・
つい30年くらい前までは、 黒人には線量制限がありませんでした(←根拠:蓮池透(元原発運転員)さんの話)。
https://minkara.carview.co.jp/userid/1345735/blog/28741705/
終結宣言 が出ているので、トラバはしません^^; m(_ _)m
被害者や被災者に、
「大丈夫。全体としては、安全だから。」
と言えないのは、
”現代だから”ではなく
”血の通った人だから” です。
「人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然」なのは
”人間の安全保障とかいったような名称・概念”ではなく
”人としてデフォ(初期値)"です。
と、ワタクシはお叱り? (苦笑)を受けてしまいましたが、
「人は誰しも―――」
って、たいていの人が考える・言うようになったこと自体、
その歴史は驚くほど浅いってことです。
人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。
これ↑は、【恣意】なんです。
これ↑の下↓に、
言論がなされ、
思考が展開され、
法律が作られ、
操業がなされているし、
エラい何かの判断基盤になっているけれども、
私も、その考え方に立っているけれども、
それは、信念? 思想? 信条? 愛(情)? そういったものであって、
やっぱり、【恣意】なんです。
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で・・・
また、あの話に戻ります。
例えば、
大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・
「安全」or「危険」の検討の結果:
「安全」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講じなくてよい場合 になってしまう。
↑
わかりにくいですなぁ・・・
要するに、
例えば、
↓法律が守れなくなった場合
大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・
そう。ひらたく言えば、
(現代の、)法律が守れなくなった場合
⇒どうするの?
⇒パターン1:従来の、法律の範囲内に戻るようにする
(非常事態から抜け出して、防護策・回復策を実行する)
⇒パターン2:別に^^;
(特に何もしない。)
(↑これを、「その場合、日本は、汚れた国になる。」と武田教授は表現してた。今になってやっと、深くまで意味がわかった。)
バカ言うなや!
パターン1に決まっとるやんけ―――
トーゼン。
でも、どーなの?
ホントにホントに、
「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆 と 巨大隕石 くらいしか、 地球上に、存在してない
んでしょ?
(まあ、異論はありますけどね。)
水爆 と 巨大隕石 以外は、
如何なる事象が発生しても、
「全体としては、安全」でしょ。
(まあ、異論はありますけど。
そのへんは、年明け・・・1月中ごろ?に、また、書きますかね)
100年、200年前は、それでやってきたんでしょ^^;
今は、
人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。
と、みんな考えてる。
でも、
これ↑は、【恣意】なんです。
これ↑の下↓に、
言論がなされ、
思考が展開され、
法律が作られ、
操業がなされているし、
エラい何かの判断基盤になっているけれども、
私も、その考え方に立っているけれども、
100年、200年前は、 違った考え方でやってきた んでしょ。
それでも、 「全体としては、安全」 だったんでしょ。
⇒パターン2:別に^^;
(特に何もしない。)
と、そういうことになるワケで。
ってか、相当程度、なったワケで。
大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・
「安全」or「危険」に主眼を置いて検討することは、
「やっちゃいけないことかもしれない」と。
そういうことです。
このくらい、繰り返して書くと、たいていの方に伝わったのではないかな、とね。
今日は、このへんで筆を置きます。
Posted at 2012/12/30 04:46:28 | |
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