
以下は平成元年くらいの話。
18で免許を取ると、お決まりのコースがあった。
大学の友達とは、横浜のベイブリッジ。
当時たしか出来立てだったと思う。
まだどこにもつながっていない大黒ふ頭のパーキングに車を停めて青く光る橋を眺める。
夜の何時かになるとライトアップが変わるとか言ってたっけ。
地元の友達とは、顔振峠に行った。
立川あたりから出発し、国道16号を埼玉方面へ。
怪しいモーテル的なのと、巨大なパチンコ屋、そんな16号だった。
たぶん今コストコやアウトレットができたところも当時はそんな所だったと思う。
狭山だかそこらへんのロイヤルホストだったか、ファミレスを左折。
国道299号へ入る。
飯能の駅周辺まで行って踏み切りの手前を左折する。
そこからは暗く、川と一緒に蛇行して道が続く。
そこは走り屋たちの庭。
週末になるとハチロクやスカイラインがうようよいた。
かなり長い距離を走る。
線路の高架をくぐってすぐ右折、そこが顔振峠の入り口。
険しく狭い、そして暗い山道。
両側には高い木々が鬱蒼と茂り、夜などはここでヘッドライトを消すとビビる。
怖い話をしながら走るとマジでやばかった。
途中、突然集落が出現し、民家が何件かある。
この集落を「ユガテ」というらしい。
案内板にこの文字を見るのも、なぜか不気味な感じがした。
どうやってここで生活してるのかは毎回話題になった。
山道は険しい。
ほんとにこの先に道が続いてるのかという恐怖感にかられる。
それでも山を登るに連れて木の間から夜景が見えるようになる。
峠の茶屋まで来れば、目指すところはもうすぐだ。
[出典] http://ameblo.jp/mautabgorotomoyusei/entry-10184997248.html
そして、
同じく平成元年くらいの話。
当時の首都高に埼玉線は存在していなかった。
埼玉方面へは高島平までしか首都高は伸びていなかった。
免許を取得した翌々日のこと。
日付が変わって少し経った頃、埼玉県蓮田市の自宅を出発。
高島平の入り口を入ってC1・都心環状線を目指す。
午前3時頃、首都高は「昨日の車」と「今日の車」が入れ替わる。
丁度、少しの間、車の流れが殆んど無くなる。
そのとき、首都高都心環状線は、恰好のドライビングコースとなる。
先輩たちの間では専らの噂だった。
免許を取った翌々日でも、ドライビングへの自信はあった。
高校は機械科があったから、免許取得前でも、ダートトライアルも何度もやった。何度も転倒しながら運転技術を高めた。
免許は合宿の教習に参加することで取得した。冬の福島だった。
仮免を取るのは、わけもないことだった。
すぐに路上教習が始まった。
路上教習は、雪道だった。
しかし、ダートを走ることを何度も経験していた自分には、何も難しくも、何も怖くもなかった。
教官も、そんな俺を信頼しており、ハンコはすぐに集まった。
ある日、教官は「タバコが吸いたい」と教習車を降りた。そして続けた。
「オマエ、この山の上の駐車場まで行って、そこで折り返して、ここに戻って来い」
雪の峠。
人生初の峠アタックの火蓋は、切って落された。
レブ一杯までエンジンを回しシフトアップ。
そして、シフトダウン、
ブレーキング。
テールをスライドさせ、ドリフト状態に持ち込む。
ヒルクライムが順調に終わる。
折り返し。
ダウンヒル。
目一杯ブレーキングを遅らせ、カーブに突っ込む。
ブレーキング。
コントロールが利かない!
ただ、ガードレールに突き進む。
激突する。
白いボンネットが視界に入り、フロントガラスにヒビ。
ガードレールを前転で乗り越え、落ちる。
多量の木の枝を折る音。
落ちる。
転がる。
崖を転がる。
何度も転がって、視界にガードレールが入る。
ガードレールの裏側からぶつかり、もう一度転がって道路に入る。
どうやら、一段下の道に、転げ落ちたらしい。
車内からようやく這い出したとき、雪まみれの教官が走ってくる。
「おーーい。ケガはないかーーー?」
「はい、ないです」
「よかった、ってか、こぉのぉぉぉぉ、ばかやろぉぉぉぉぉ」
俺は殴られた。クラッシュでは怪我をしなかったが、教官の体罰で怪我をした。
そうこうして取得した免許。
この首都高で、この間の雪辱を晴らす必要性があった。
俺は、首都高最速でありたい!!
後ろから、一台迫ってきた。
と、思う間もなく俺はぶち抜かれた。
テールライト。「え?、この前、俺が壊した教習車?」
違った。車種が同じなだけ。タクシーだった。
追いつこうと必死にアクセルを踏む。
しかし、万事休す。
そのタクシーの姿を捉えることは、もう出来ない。
自分の運転に不甲斐なくなった。
俺は、修行に出ることにした。
峠に。
この青年は、
正丸、顔振、定峰、などの峠に修行に出て腕を磨き、自信を付けて、首都高に戻ってくる。
タクシーにあっけなく抜かれてから、技術と自信をつけて首都高に戻ってくるまで一年足らず。
戻ってきた後、R32GT-Rで高速湾岸線を走り、高速湾岸線で最速となる。
こういうポジションの者は、後々、「高速湾岸線の帝王」と呼ばれるようになるが、この時代はまだ、そういう称号は発生していなかった。
当時、若干19歳。
若き湾岸線のエース。
彼のストリート活動期間は決して長いものではない。
しかし彼が築き上げた伝説は、幾多の走り屋たちが、幾年の歳月を費やしても、踏み越えることは出来なかった。
そういうことだから、2000年代となった今でも、彼は、「よしのり先生」と呼ばれ、今でも、走り屋たちからリスペクトされている。
以上の二名のお話は平成元年くらいのお話。
いずれも、恐らくは実話。
首都高で、
峠で、
埠頭で、
林道で、
様々な場所に、走りを志す者がいた。
様々な場所で、様々なスタイルで走りを極める。
そんな者たちの伝説。
そんな伝説を追いかけながら、
そんな伝説とオーバーラップしながら、
今を、近未来を、走ってゆこう。