
←画像はイメージです。多摩湖道ではありません。宮が瀬、虹の大橋。
多摩湖道でのドライビングトレーニングが二週間目に入ると、
とにかく、
キャッツアイを踏む回数が減ってきた。
また、バックミラーを占拠していた、かのミニバンのような車の姿はもう無くなっていた。
一週間に渡って、1日1回、毎日、多摩湖道に通いつめたお陰か、
一応のところ、
普通のドライバーがこの道において要求するところの速域では、ある程度はきれいに走れるようになってきた、そういう自覚が出始めた。
とかく、最初の週の惨めさは、私の運動神経の悪さと、初めてのことに対する適応性の悪さを物語っていたが、
それは、二週間目で、どうにかこうにか、「他人より劣る」という姿を露呈せずに済むようになったといえる。
さて、
私は、いわゆる「走り屋全盛期(平成元年頃であろうか)」を経験している人間ではない。
もっと下の世代であり、いわゆる「若者のクルマ離れ」が言われている世代。
そのため、
私の「走り」というものに向き合う精神は、あくまで自己の魂を鍛えていくという意味での、単なる修行行動に他ならない。
このような言い回しをすればカッコ良く感じられるが、
これは詰まるところ、
魂の引きこもり行動に他ならない。
対して、
「走り屋全盛期」を過ごした世代の方々にとっては、「走り」というものは、「社交的行動」に該当していた。
走り屋全盛期のこと。
平成元年頃、大阪。
グッサンは、NISMO仕様のS13シルビアを止めると、「ナンパ」を試みた。
NISMO仕様のエアロやホイールを纏ったグッサンたちには、
最強のナンパのコロシ文句が存在していた。
「ほな、これから環状走りに行かへんかー?」
ナンパは大成功だった。
しかし、このとき、グッサンたちは、この時代の用語で言う「クラゲ」だったのである。
後々、
グッサンたちは、本物の「環状族」となってゆくのだが、このときは、まだ環状族ではなかった。
「環状族である」
「走っている」
というコトを匂わせることが、何よりのステイタスだったのだ。
つまり、当時の大阪では、走り屋は凄くモテた。一番モテたといわれている。
平成元年頃の大阪では、改造マフラーの音を響かせると、それだけで、「モテること」に直結したという説もある。
(ちなみに、2000年代になると状況は一変し、「クルマに熱中している男はモテない」という一般的イメージが出来上がった。現在、改造マフラーのサウンドを響かせようものなら、「なーに、アイツ? キモーッ」語らんばかりの視線を受けることとなると言われている。
極端に言えば「クルマー? イジッてるー?」→「きもいー」ということ。)
●関連書籍等
南勝久 『ナニワトモアレ』、『なにわ友あれ』 講談社
『週刊ヤングマガジン』にて連載。大阪環状族をテーマにした漫画。
同じく平成元年頃、伊豆。
ブーーーーン。
エンジン音のやまびこが聞こえてくる。
あーアイツが走ってるなー。
オイラも走りにいくかー。
オイラもミラージュターボのエンジンをかけ、今日も峠に繰り出す。
あのサウンドは、R32GT-Rだな。
ほんっと、あのクルマは、響くよなーーー。
ツチヤって兄ちゃんは、まったくすごいぜー。
あの32に、1000万円以上つぎ込んでるしなーーー。
この間なんて、一晩で三回もガソリン満タンにしたんだから。
あの消耗の仕方は、半端ない。
オイラのクルマの油温・水温・ターボブースト圧が適正になってきたとき、
丁度、峠区間に入る。
そこで、あのにーちゃんは、追っかけられていた。
パトカーに・・・。
「コラーーー。ツチヤくーーん。いいかげんにしろーーー。うるさいぞーーーー」
同じく平成元年頃、埼玉県奥武蔵地区。
看板。
「公道でのレース行為は厳禁です。
こうした行為を見かけた場合、
車種・ナンバー・人数などを通報して下さい。」
とある青年が、この看板に笑いながらケリを入れる。
少々ガラの悪い男女の集団が盛り上がる。
盛り上がったところで、
更に、
力自慢の青年が看板を引っこ抜く。
バターーン。
「いぇーーーーい」
「ぴーぴー」
一同は盛り上がった。
「公道でのレース行為は厳禁です・・・」
の文字は見えなくなった。
「いいかぁ?二人ともぉ?」
「おう、いつでもOKだぜぇ」
「こっちもOKーっ!」
「カウントを始めるぜーーー!」
「いぇーーーーぃ」一同、最高潮まで盛り上がる。
ハチロクの運転席に座って、よしのりはアクセルを煽る。
シャコタンと直管マフラーのハチロクが、バリバリと咆哮する。
向こうもだいたい同じような仕様だ。
カウントしているヤツの声は、かすかにしか聞こえない。
「3、2、1―――、ゴーーーー!」
2台のハチロクが正丸峠へと飛び出していく。
そして、
同じく平成元年頃、多摩湖道。
ここでも、ストリートファイターたちが集まり、猛烈なアタックが行われていた。
伝説的な速さで。
当時は、熱かった。
マナーとか、
善悪とか、
ひとまずさておくとしても、
とりあえず、熱気に満ちていた。
いろいろなタイプの人間が、
様々な思いで、
走っていた。
2000年代に入ると、
これらの熱気は、どこかへ行ってしまった。
そして、
峠は、
ワインディングは、
再び、
静けさと山霧が覆う世界へと戻っていった。
そんな中、
再び峠道に入ってゆく者もいた。
そうした霧中の者たちにとって、「走り」というものは、
自己の魂を鍛えていくという意味での単なる修行行動、
詰まるところの、
魂の引きこもり行動に他ならない。
言い換えれば、「反社交的行動」。
しかし、
それで一向に構わない。
峠で、
走りを志す者であることに、
変わりはないからだ。
場合によっては、
ただひたすら、
走りだけを志す者も増えたからだ。
Posted at 2010/03/17 19:17:47 | |
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多摩湖道 | 日記