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猛走峠のブログ一覧

2009年10月26日 イイね!

混同(ヤビツ峠)

混同(ヤビツ峠)昨日は、千葉まで出かけた。かといって、レジャーに出かけたわけではなく、「中古パーツ店」に。
フロントに使っているタイヤが、もはやスリップサインにかかるほどに減っているため、これを新たなタイヤ(とはいえ中古。)に変えようという試み。
その中で「タイヤ品種」を選択するなら何にすべきか?

そりゃー、
「日本の走り屋ならば、アドバン・ネオバを知っておかねばならない!」
早速、ネットで在庫調べ。
すると、千葉の店に、適合サイズの在庫品があると判明。

善は急げ。
早速、その店に向かい、購入!組み付け!
と、なるはずが、「とある重大な不具合」によって、ネオバ購入・装着ならず。
ホイール・バランス調査と前後ローテーションで何とか凌ぐこととなってしまう。

それこそ、「私は、今まで気づかなかったことに気づかされてしまった」わけである。

この続きはまた明日。

さて、
「神技」が象徴化され、
「神技」が伝承され、
「混同」が生じ、
元来、「信者」であった者が、「神」となる。
これについて、
「混同」という観念を、詳しく考える必要性がある。


民法520条
「債権及び債務が同一人に帰属したときは、その債権は、消滅する」

混同とは、債権と債務が同一人に帰属し、存在意義を失うことをいう。
それは、自分が自分に対して請求をしたり、自分の財産から、自分の財産に対して弁済をしたりするということは、通常は無意味である。
そのため、わが国の民法は、債権(債務)の消滅原因として、「混同」というものを規定したのである。

ここでいうところの「混同」の意味は、
「公私混同」とはずいぶん違う。
「公私混同」の場合には、「たしかにAがあり、たしかにBがあるんだけれども、AとBを区別なく取り扱う」という意味である。
では、ここでいう「混同」は、「今となっては確かな形としてのAはない、確かな形としてのBはある、だから、Bを以ってAも扱ったものとする」、そういうことである。

「混同」の典型的な例は、「相続」である。
「相続」は知っての通り、親が亡き後、親の財産を子が引き継ぐことをいうが、
ここで、ひとりの親と、ひとりっ子の間に、生前、債権債務の関係、金銭のやり取りが、あったとすると、それは「相続」によって、「意味を為さないもの」となり、「混同」が生じ、そうした債権債務関係は消滅する。

また、結果的には、「私」と「数の神」との混同が生ずることを望んでいる、という旨の私の記述も、この意味である。
そもそも、「数の神」って何だ?
という疑問が呈されるのが一般的である。
つまり、「数の神」という「確かな形としてのA」はない、だから、「Aの象徴」として、「確かな形としてのB」をもってくるしかない。
だから、
結果的には、「私」と「数の神」との混同が生ずることを望んでいる、という旨の私の記述も、
この意味である。

では、ここに、「正当性」ないしは「正統性」をめぐる、ひとつの「問題」が発生する。
「本来のカミとして存在するA」と「確かな形で存在する・したB」との間を橋渡しする「なにか」である。
それは何か?
おそらくそれは「神技(しんぎ)」なのではないかといわれている。
「神技(しんぎ)」についていえば、よくよく、「誤認」がつきものである。
人間以外の動物の、人間よりも秀でた能力を、「神技だ!」と誤認するケースは多々ある。

例えば、「犬は人間より嗅覚が優れている」
では、「犬は嗅覚の神様なのか?」
それは、たぶん、違うと思う。
いや、おそらく、違う。

では、何を持って神技か、といえばやはりそこには、「信仰」という要素が介在する。
「落ち葉拾い」のような、「奉仕活動」は、最もわかりやすい。
しかも、これは、「奉納ドリフト」における「神前の舞」の「ダンシングライン」を「極限化」するためのものだから、なおわかりやすい。

ここで、「神技」を媒介として、「神性」の「伝承」が自然発生的に起こってゆくのである。
ここに、「混同」の効果が発生する。
即ち、「神」と「信者」という関係が、解消される。

ここで、「伝承」とは、読んで字の通り「伝え承る」、
古くからの技術やしきたりを受継いで伝えて行くことなわけで、
当然、「伝える側」と「受継ぐ側」が存在し、この関係を言い換えると、「師弟」となる。

ここで、師弟間の情報の伝え方が、即ち「伝承形式」となるわけだが、
ここには、「完全相伝」と「一子相伝」の二つの種類が存在する。

そこに、少しばかりの問題点も考えられうる。
この「伝承」と「正当性」の話は、また次回になろう。

ともあれ、
「神技」が象徴化され、
「神技」が伝承され、
「混同」が生じ、
元来、「信者」であった者が、「神」となる。

つまり、「そして、そのシルビア使いは神となる」。
Posted at 2009/10/26 03:10:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月25日 イイね!

そして、そのシルビア使いは神となる。(ヤビツ峠)

そして、そのシルビア使いは神となる。(ヤビツ峠)画像はまたも福岡で、「さーて、これから東京に帰るか」というタイミング。

さてはて、私にとって「歯」は弱点(?)のようで、疲れが溜まると歯が割れてしまう。
昨日もまた、カキっ!と歯が割れる。
やはり、ロングツーリングの歪みが私の身体に出ているのか?
それにしても、高速を使うか否かは別として、距離自体は、長距離トラックの人々は普通にこなしているわけだから、それに比べて自分の今のドライビング能力は、体力不足であることが伺える。

「歯が欠ける」で思い出したが、
自分は、「滑らす」ことも苦手としている。
いつの年だったか・・・。(思い出したらまたの機会に書きたいが)
純正のノーマルタイヤで、スノードライビング1時間程度をして帰宅したことがあった。
東京・埼玉の人間は、スノードライビングは大の苦手なので、必ずと言っていいほど、曲がれずに事故っているクルマが多々あったわけですが、
そのような中、ズルズルと、ドリフトさせるでもなく、ぎこちなく滑りながら、どうにか帰ってきたわけですが、その帰宅後、数日間、歯痛に苦しんだ覚えがある。

たぶん、今の能力で、「滑らすドライビング」、「ドリフト」に手を付けると、多分、歯は真っ先に壊れるとおもわれ・・・、とにかく、ドリフトに私が手をつけるまでに、まだやることが山ほどあるのは確かだ。

さてはて、そんな自分の弱点に気が付いてしまったわけだが、
私が気づいたことはそれだけではない。




わたしは、気づいてしまった。
我々、走り屋という種族が、何万年も前から続く、古い伝統に縛られた存在であることに。

わたしは、気づいてしまった。
多くの宗教家も気づいていないであろう、「峠の神様」の実際に。

たいていの峠道、伝統的な街道には、神を祭った「神社」がある。
この状況は、アミニズムを信仰の原型としてきた日本人は、何らの違和感も抱かない。

それでいい・・・。
これらの神社には、当然にして、「山のカミ」が「御神体」として祭られている・・・

そう思うだろう?
それが・・・、
厳密には・・・違う・・・のだ。

結果論としては、「間違い」では決してないのだが、
厳密には・・・違う・・・のだ。

恐らく、宗教家の多くも、この「実際」に気づいていない。

たいていの峠道、伝統的な街道には、神を祭った「神社」がある。
しかし、こうした社の御神体は、もともとの「山のカミ」ではない。

では、何か?
「山のカミ」を敬い、これを信仰してきた「信者」、
そのなかでも「伝説的な信者」なのだ。

これが、どういうことを意味するのか?

それはこういうことだ。

ドリフトをしていた走り屋が、いずれその山の信仰対象となり、
この走り屋が山の祭神となる。

とある峠道に、
「奉納ドリフト」を行っていた、シルビア使いのソリストがいたとしよう。
「奉納ドリフト」は詰まるところ「神前の舞」であるわけだから、
「極限の美」を追い求めることが要求される。
そのため、ガードレールぎりぎりまでを、
その「舞の動線」「ダンシングライン」として使わなければならないため、
「落ち葉拾い」が必然的に発生することとなり、
その道を掃き清める「信者としての奉仕活動」が発生する。
ここに、そのソリストは、「峠のカミの信者」となった。

ここまでは、通常の感性でも、理解可能な現象だろう。

しかし、ここからが肝心な部分だ。
掃き清められた道でソリストが行うドリフトには、ますます磨きがかかってゆく。
当然、飛距離も伸びて行き、スキール音が綺麗に響き渡るようになってゆく。
それと反比例して、クラッシュ率も次第に低くなってゆく。
つまり、刹那的な美を求める段階から脱して、極限かつ安定した、まさしく、優雅にして雄雄しき美を発するようになる。
そういう段階では、マシンのチューニングも進む。
エンジンの回転数は上がり、官能的な叫びを上げる。
マフラーは改造され、山一面に排気音がこだまする。
そして、マフラーエンドからはバックファイアが出て、
まさしく、「山のクルマ」が出来上がる。

こうしたクルマ、こうしたソリストに出会ったとき、我々は背筋を正さずにはおれない。
その圧倒的な気に、リスペクトの態度を表明せずにはおれない。
それは、我々が「走り屋」だからとか、そういうローカル・ルールではない。
もっといえば、人間以外、山々の動物たちの方が、こうしたソリストたちに畏敬の念を抱いている。
つまり、その峠において、そうしたソリストたちは、霊長類ヒト科の生き物として、神々しさを放っているのである。

さて、これが、
「昔々、クルマという機械がありました。
それは、多くの人間にとって、とても魅力的な機械でした。
あるときは、自転車の代わりとして、ちょっとした移動に使われ、
あるときは、驚くほどの速さで走り、
あるときは、この上なく美しく舞いました」
こういう「伝説」として語られるほどの未来になったとき、
このようなソリストたちは、間違いなく、この峠の「神」となる。
「祭神」として祭られるようになる。

つまり、こうしたソリストが神となったのだ。
こうしたシルビア使いが「神」となったのだ。

ここまで読んで、笑った読者が多いだろう。
以前なら、私も、笑った。

しかし、実は、峠にある神社の御神体の伝説を調べてみると、
「木こりの○○は、この山を心から敬愛し、~そのような彼を神として崇め」
とか、
「むかしむかし、この街道で馬を走らせることは困難でしたが、彼の、神がかった、飛びぬけた乗馬センスは、この峠をアッという間に通過することを可能としたのでした」
とか、
「彼は、イノシシの背に乗り、いっときでこの峠を越えたのです。
彼が猪年生まれだったからか、そういう因果関係は今となってはよくわかりませんが、彼がイノシシを操る能力は、神がかっていて、彼がイノシシの背にムチをあてると、イノシシたちは走ることを最高の歓びとして、神明を賭して、彼のために走ったのであります」

実際のところ、峠にある神社の御神体・祭神について、調査してみると、こうしたケースばかりである。「木こり」とか「馬使い」「イノシシ使い」はては、後ろの二者は、「峠最速の神様」といって何ら差し支えない。

つまり、もともとの「山のカミ」という存在がいて、そこに、「神の力」「神技」が宿っていた。
ただ、こうした漠然とした「神技」を、「象徴化」して、信仰対象を明確化してやる必要がある。人間は本能的にそれを望んでいるのだ。

「神技」が象徴化され、
「神技」が伝承され、
「混同」が生じ、
元来、「信者」であった者が、「神」となる。

これについて、
「混同」という観念を、詳しく考える必要性がある。
Posted at 2009/10/25 00:41:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月24日 イイね!

淵上の足→神格化の一般性(ヤビツ峠・一応・・・)

淵上の足→神格化の一般性(ヤビツ峠・一応・・・)画像は、昨日に引き続いて、山陽道(一般国道2号)の岩国近辺である。
ツーリングとか、燃費の話から入っていくんで、この画像でいいでしょう。

我が家のコルト(1300cc・NA)の、ロングツーリングにおける燃費は、
おおよそ14km/ℓと考えてよいだろう。

私の足は、淵上の足ではない。

「淵上の足(ふちがみの足)」とは、日産自動車の社員で、
「燃費の神様」
と呼ばれている淵上夏次のエコドライブテクニックのことである。

ふつうなら、ここからあと、「淵上の足(ふちがみの足)」と日産自動車の持つ技術について話すことになるだろう。
それがオーソドックスな、みんカラのブログスタイルであると思う。
しかし、このブログでやりたいのは、そういうことではない。

ここから先、少し、宗教的な話に入っていく。
このブログの価値観は、「走りそのものは、宗教的要素が強い、いや、走ることは宗教そのものだ」という類のものであるため、必然的にそうなる。

上で、「燃費の神様」という言葉を引用した。
別にこれは、私のオリジナルの言い回しではない。
「普通の言い回し」だ。
我々、日本人は、とかくこういう言い方を好む。
こういう言い方を好む「理由」について、具体的に、「峠」・「山」においてのアミニズムの事例を挙げながら、話してゆきたい。
(峠とか山とかいう話一般という点においてのみ、「ヤビツ峠」というくくりが許容されるだろう)



わが国の歴史というものは、
とにかく、長い。
とにかく、永い。

また、わが国の特殊性として、日本人の血統というものが、伝説上の起源において祖を一にしているらしいということ。
そして、それが、単なる妄想としての話ではなく、人間の遺伝子(ミトコンドリア)を調べると、たった一人の母にゆきあたるらしいと。
つまり、物証的な全人類同一起源説が、その縮図として、わが国には伝承されているらしいこと、がある。
ただ、この二者を、今、人知で強引に繋ごうとすることは、性急過ぎるのかもしれない。
それを行おうとすると、「我こそは伝統主義者」「我こそは保守主義者」と主張する論者達が、「X!」「Y!」と言い始めた、面白可笑しいテレビ画面の現状になってしまう。

では、私は、テレビのコメンテーターを笑っている場合だろうか?
いや、そんな場合ではない。
いまから私は、「我こそは伝統主義者!」と自称しながら、「X!」「Y!」と言い始めるハメになる。
これから、私は笑い者にならざるを得ない。
しかし、ここからの話は、「峠の走り屋」(「峠族」)にとって、必要不可欠なので、やらざるを得ない。


さて、
いま、峠を走る、我々を「神の視座」から、自分たちを少し客観的に見てみよう。
我々は、無神論者かつ無信論者で、現代的な価値観を持ち、かつ、相当にリベラルな感性を本質的に持っているのだろうか?

否。
全く逆だ。
我々がやっていることは、太古の昔から、人類が、繰り返し繰り返し、行ってきたことに他ならない。
だから、我々は、相当な懐古趣味で、伝統の上に、本質的には伝統に縛られて生きている者に他ならない。

それが、「マシン」という要素が介入することで、まさに、「手を変え、品を変え」という表面上の効果が発生したことで、違うことだと錯覚したような状態で、
先祖たちと全く同じことを行っていることに、
最近、私は気づいた。

「クルマ」という「マシン」に限定しなければ、
我々が行っていることは、それこそ、太古の昔から、人類が行ってきたことそのものである。

また、「クルマ」という「マシン」を使っていた時代のみという縛りをかけて見てみても、
私は、
父たちが行ってきたこと、
祖父たちの世代が行ってきたこと、
曽祖父たちの世代が行ってきたこと、
これを単に繰り返して、行っているに過ぎないという現実に気づいてしまった。

しかも、「マシン」・・・マシンの美的感覚・・・「マシンのモデリングのイデア」についていえば、もう、60年近くもそれが変わっていない、という恐ろしい事実にも、最近気づいてしまった。

50年前にアウトバーンを走っていたポルシェと、走り屋の車とを、特にリヤを並べてみる。
径の太くなった改造マフラー、横一文字にそびえるGTウイングあるいは門型ウイング。
びっくりするほど、その「ファッション・センス」は似通っている。
いや、我々の「ファッション・センス」がもう、何十年も変わっていないということを意味する。
私は、「ファッション界」「モード界」に生きる人間ではないので、こうした現象が、実は珍しくないのか、それとも、やはり珍しいのか、それがわからない。

しかし、我々は、こういう、「生きた化石のような世界」に生きる、「古い伝統に、進んで縛られているだけの種族」なのである。
したがって、「伝説」と「神秘性」を尊んで生きる種族なわけで、
かといって、「従順に信仰してそれで終わり」なのではなく、
最終的には、自らが「伝説」となり、
「神」となることを望んで走り続けているわけで、
当然、「自らが神になる」という「響き」・「自称行為」に対し、
多くの「走り屋」は何らの抵抗をも持たないし、私もそうした側の人間なのである。

けれども、
過剰な謙虚さが故に、「自らが神になる」という、響き・自称行為に対し、抵抗感を持つ走り屋・「走り家」の方々も多いことだろう。

ここから先の「混同」というテーマの話は、そういった謙虚・謙譲の美徳を持つ方々とこそ共感したいことなのである。

たいていの峠道、伝統的な街道には、神を祭った「神社」がある。
こうした状況は、アミニズムを信仰の原型としてきた日本人は、何らの違和感も抱かない。
そして、これらの神社は、
当然にして、「山のカミ」が「御神体」として祭られている・・・そう思うだろう。
そう・・・、それでいいのだ・・・、
それでいいのだ・・・が・・・、
実は、厳密には・・・違う。

果たして、我々の中のどれだけが、この現状に気づいただろうか?
恐らく、宗教家の多くも、この「実際」に気づいていない。

たいていの峠道、伝統的な街道には、神を祭った「神社」、
こうした社の御神体は、もともとの「山のカミ」ではない。

では、何か?
「山のカミ」を敬い、これを信仰してきた「信者」、
そのなかでも「伝説的な信者」なのだ。

これが、どういうことを意味するのか?
それはまた明日以降。
Posted at 2009/10/24 14:45:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月23日 イイね!

燃費、象徴的ネーミング、日本の宗教観?(ヤビツ峠)

燃費、象徴的ネーミング、日本の宗教観?(ヤビツ峠)まず、昨日の、「もうすぐモーターショー」の話と「エコの話」に続けて、
「燃費の話」。
東京⇔福岡、片道1200km超、往復2500kmツーリングの「まとめ」が、まだ終わっていない。
ただ、ご安心を。
燃料を注いだデーターなど、きちんと保管・集計してあるのだ。
燃料を注いだ回数は、全部で9回。
量にして、177.81ℓ。
走行距離は2499kmであるから、
2499÷177.81=14.054…..km/ℓ。
つまり、我が家のコルト(1300cc・NA)の、ロングツーリングにおける燃費は、
おおよそ14km/ℓと考えてよいだろう。

・・・私の足は、淵上の足ではない。

我が家のコルトの燃費は、カタログ上、10・15モードで、20km/ℓであるので、
この「カタログ上の理論値」を、大きく下回っている。

「淵上の足(ふちがみの足)」・・・こうした象徴的ネーミングが、以下の回想・考察においてのキーとなることに留意していただきたい。


それでは、宮が瀬の回想に戻るが、
いままで書いてきたことは、決して他人事ではない。
「君も、ドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族なら、ドリフト族として、限界の美を求めるソリストになるために、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」

そこで、今度は、私の魂をも含めた話へと入ってゆくこととなる。

自分が、どこの歴史上の、どこの伝説の誰よりも、
「数の世界」を愛する者のひとりとして、
いつの日にか「最速」の象徴となりたい。
たしかに、私はこのページをそういうテーマで書いているし、
そういう目標をもって生きている。

だからして、「数の世界」「スピードの世界」「最速の世界」しか追い求めないようにとられがちだ。
だが、「それを追い求め、頂点を極めるのにふさわしい者」、
そういう者になるための通過点として、
「ドリフトの世界」「フィギュアの世界」「美の世界」「神前の舞の世界」「奉納ドリフト」というのは、
私が、日本に生まれ、ここを母なる大地として最速に至るステップを踏んでゆくのなら、
これを経験しておく必要性が、どこかの時点で出てくるのではないかとも思っている。

もっと、平易な言い方をするなら、
「速く走ることができることは、最速の走り屋としての絶対条件。
加えて、ドリフト・・・奉納ドリフトが出来て、日本の走り屋としては超一流」

そういう、「超一流の走り屋になるためのイニシエーション」として、いずれ、ドリフトという段階を踏まなければならないだろう。

それと、もうひとつ。
わたしは、
いつの日にか「悟りを開いた私」が「数の世界の象徴」となり、そして結果的には、「私」と「数の神」との混同が生ずることを望んでいる。
こう書いた。

こう書くと、
ずっと、いつまでも、「神は神」「信者は信者」ではないのか?
という疑問が呈されることになろう。

「神は神」
「信者は信者」
唯一絶対神を頂く、世界の多くの地域ではこうであろう。

あるいはまた、
「神」
「カリフ(カリスマ)」
「信者」
こういう構造をとるところもある。


では、太古の昔からの信仰形態である、アミニズムを基調としたわが国の場合はどうなるのであろうか?
ここまで書けば多くの人はもう、ピンとくるだろう。
わが国では、
「神と信者は混同する」
Posted at 2009/10/23 18:13:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月22日 イイね!

走りが帯びる宗教性と奉納ドリフト(ヤビツ峠)

走りが帯びる宗教性と奉納ドリフト(ヤビツ峠)もうすぐ、東京モーターショーが開幕する。
いろいろと新しい・・・「五年後の車」(?)を、「コンセプト」として展示するわけだろうが、
残念ながら、五年以内の私には、あまり関係ない気がしている。

ただ、「エコカー」という観念に、少しだけモノ申したい気もしている。
「エコ」というのは、とにかく、エンジンを回さない、エネルギーを使わない。
「ない」「ない!」「しない」という意識だけが強調されている。
され過ぎている。
しかし、積極的にエンジンをブチ回していくことで、結果として、エコな技術が身についてゆくのではないだろうか?
たしか、日本のエンジン技術は、そうやって、エンジンをブン回すことを徹底的におこなって、その結果として、高効率でパワーを出すことを体得し、省燃費の技術が確立されてきたのではなかったろうか。
V-TECやMIVECは、そうやって生じたものだったと聞いているし、
本来、ターボも、省燃費対策として出ていた時期かあったという話も聞いた気がする。
そうすると、電気モーターも、ひょっとすると、高高速でブン回し、400kmオーバーの最高速を求めていったその先に、「悟りの境地?」が存在しており、そこに「かつてないほどのエコを達成する技術」が待っているのではないか?
そういう気がしている。

とはいえ、
五年以内だったのならば、コルト系やランサー系の車しか乗っていないだろうし、
乗るつもりがないのであるから。
コルト系やランサー系で魅力的な電気モーター車が出るとか、
i-MIEVのスポーツ版が、驚愕するほどスポーツ走行性能に優れているとか、そういった、走りに関するインパクトがない限りは。
走りにまつわる「道具選び」には、宗教性が伴っているから。

また「走り」、これ自体については、一種の宗教性が宿っている。
宗教を、信仰スタイルを、コロコロと変える人は、極めて珍しい人であろう。
だからして、私も、車での走りを志す以上、今の同系統の車に乗り続けることが望ましい。
つまり、「自動車メーカーは変えにくい」という、少し宗教性にかかる、そういう意思がはたらいている気がする。

走りにまつわる「道具」・・・「車」の、メーカー選定でさえ、そうした「宗教性」が発生してくるのだから、
「走りそのもの」特に「峠での走り」それ自体については、もはや宗教そのものだといっても過言ではない。

今日は、意外と多くの人が知らない、D1の起源についてみてゆかなければならない。

ヤビツ峠の宮が瀬湖側のエリアに集うドリフト族の攻め方は半端なかったという。
極限の美を求めて、ガードレールぎりぎりまでを、その走行ラインとしていた。

何のために?
速く走るために?
―こうしたドリフト走法が、ターマックにおいては「カニばしり」と揶揄されるようになって久しい。

何のために?
大勢の観客に見せるために?
―こんな暗い峠道に一体どれほどのギャラリーがいるというのか。
 しかもここは、「一本道」なので、ギャラリーが「本線」を見物するためにあがってくる「側道」「旧道」が存在しない。

では、何のために?
何のために極限の美を追い求めるのか?
―それを理解するには、「奉納ドリフト」というものを理解する必要性がある。

「奉納ドリフト」・・・それは「神前の舞」であるといってよい。
こう言っても多くの人は、ポカンとするだけであろう。

だから、それを解消するために、「有名どころ」の「類似事例」を挙げてやる必要性がある。

「明治神宫奉納コンサート」・・・これを知っている人は多いだろう。
明治神宫(めいじじんぐう)は、東京都渋谷区にある神社で、
明治天皇と昭憲皇太后を祭神とするため、近代日本の発展の、まさに象徴的な神社であるといえよう。
初詣では例年日本一の参拝者数を集めることで極めて有名だが、この神宮では、数々のミュージシャンがコンサートをすることでも有名である。
雅楽の第一人者に始まって、ポップス系のミュージシャンやロックンローラーであることが多い。

要は、峠での「奉納ドリフト」もまた、こうしたムーブメントのひとつなのである。
「奉納ドリフト」・・・それは「神前の舞」なのである。
「神前の舞」である以上、人間のギャラリーがいないか、ごく僅かだとしても、手を抜くことは決して許されない。
極限の美を求めて、ガードレールぎりぎりまでを、その走行ラインとすることが、必然的に、義務として求められてくるのである。

そのため、ガードレールぎりぎりまでを、その「舞の動線」「ダンシングライン」として使わなければならないため、「落ち葉拾い」は必然的に発生するものなのである。
確認すると、「神前の舞」としての「奉納ドリフト」、「神前の舞」のクオリティーを引き上げるための「落ち葉拾い」、そしてまた、これが、「伝統的な奉仕活動の形態」としての「清掃活動」に、必然的な形で回帰しているわけである。

「奉納ドリフト」。
ただ、少し残念なことに、
宮が瀬エリアや奥多摩エリアのドリフトで、こうした言い回しが使われていることは、私はまだ聞いたことはない。
「奉納ドリフト」という名称が実際に用いられているのは、埼玉県の三峰山で、「三峰神社・奉納ドリフト」という名称がかなりメジャーである。
それは、この山が、山頂部に神社を頂き、道路がその山頂に向かって設けられているというコース形状によって、こうした信仰を、はっきりと意識するからであろう。

ただ、他の峠で、「奉納ドリフト」という名称が用いられていないからといって、これが三峰山だけの現象であるということは出来ない。
実際のところ、他のエリアでも、山岳信仰と奉納ドリフトという関係性が成立していることが多い、という事実である。

そういうことであるから、むしろ、三峰山において、「奉納ドリフト」という呼称が確立していることは、実に幸運なことである。
なので、今、語っている、ヤビツ峠・裏ヤビツ・宮が瀬側でも、「奉納ドリフト」が行われている、ということを確認しておきたい。

こうした「奉納ドリフト」こそが、現在のD1の、真の意味での起源であるといってもよい。

さらに、この事例で私が言いたかったのは、「ドリフトと落ち葉拾い」という表象的事実ではない。
動的な美の限界を求める行為に宿る魂が、峠という場所と結びつき、時として信仰と評するのが適切な、崇高なる領域まで高められる、ということを書いてきたのだ。

しかも、これは、他人事ではないのだ。

「君も、ドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族なら、ドリフト族として、限界の美を求めるソリストになるために、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」

そこで、今度は、私の魂をも含めた話へと入ってゆくこととなる。
Posted at 2009/10/22 22:03:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記

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「omnes viae Romam ducunt」
何シテル?   09/26 04:50
今を、近未来を、速く!上手く!美しく!走りたい。どこの歴史上の、どこの伝説の誰よりも。 「数の世界」を愛する者のひとりとして、いつの日にか「私」が「最速」の象...
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