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猛走峠のブログ一覧

2009年10月21日 イイね!

ろ過前&ろ過後、全体&詳細

ろ過前&ろ過後、全体&詳細昨日までの「ツーリングレポート」をぼちぼちと書いていくことにしよう。
ぼちぼちと、日数をかけて書くのである。

まず、走行距離について、車の累積走行距離によると、
東京出発が、走行距離72,333kmの時で、帰宅時が74,832kmになっていた。
つまり、東京、福岡を往復すると、2499km。
「ちょうど2500km」と表現して何の差しさわりもない。


通常、文学的・文芸的には、日数を経れば経るほど、同じ回想をすればするほど、美化と主観性が増幅してゆき、ついには数理的データーや客観性と離れていってしまうことが多い。
しかし、「走り」しかもその「技術の向上」を最大のテーマ・目標とする、このブログでは、こうした、人間の文学的・文芸的な思考とは、逆のルートを辿ってゆくべきだと思っている。
したがって、日数を経れば経るほど、同じ回想をすればするほど、美化と主観性の割合は縮小、次第に文芸性を喪失してゆく。また、入手・記録されたステージデーター、感覚、数理的データーたちは、数理的・技術的な検証を繰り返し加えられ、文芸的思考の世界から離れて、技術と数理的な世界へと入ってゆくべきなのである。
それが、文学的に面白いか、
感動のない無味乾燥な世界なのか、
それは今考えるべきことではないし、
また、著者が未熟である関係から、
「経験」という現象から、美化と主観性を取り除いていく過程で、「美化と主観性」を「抽出」してやる必要性があり、
つまり、「経験」を、技術と数理的な世界へともってゆく過程で、「美化と主観性」に嫌というほど触れなければならないのだ。
つまり、「美化と主観性」を「抽出」する過程でこれに触れ、そうすることで経験の世界からこれを取り除いていき、残ったものは、技術と数理的な要素のみである、という、「フィルターろ過方式」なのだ。
いってみれば、「美化と主観性」の「フィルター」にかけて、これを取り上げ、「除去」し、残った透過物が、技術と数理的な要素のみだということだ。


日数を経れば経るほど、同じ回想をすればするほど、美化と主観性の割合は縮小、次第に文芸性を喪失してゆく。また、入手・記録されたステージデーター、感覚、数理的データーたちは、数理的・技術的な検証を繰り返し加えられ、文芸的思考の世界から離れて、技術と数理的な世界へと入ってゆかなければならない。

では、ここで確認すべきことがあるのではないか。
舞台は、県道70号線。いわゆるヤビツ峠だった。
そもそも、ヤビツ峠は、神奈川県道70号秦野清川線にある、海抜761mの峠のことである。この「ヤビツ峠」という名を漢字表記すると、「矢櫃」という漢字を当てることになるが、通常は片仮名表記が好まれる。

このステージについて言い方を変えると、「神奈川県道70号秦野清川線」であろうし、
もう少し違う言い方をするなら、「宮が瀬レイクライン」となる。
「宮が瀬北原」交差点で県道64号と分岐し、秦野市の国道246号線へと到達する、33km程度の道だ。
ヤビツ峠こと、県道70号丹沢山地内で数少ない南北をつなぐ車道の峠で、他の林道は一般車両通行禁止のため、ヤビツ峠が丹沢山地唯一の南北をつなぐ一般車両通行可能な道である。

そういうことであるからか、車同士がすれ違うのもままならないほど大変狭い箇所が多いにも関わらず、この道の「ユーザー」はかなり多い。
「ユーザー」が多いことからか、実のところ、「定義」が、「集団ごと」あるいは「走り屋個人ごと」によって様々なのである。

まず、一般的な話をするなら、
秦野からヤビツ峠への道を「表ヤビツ」と、
宮ヶ瀬からヤビツ峠への道を「裏ヤビツ」と、
呼び分けられることがあり、
即ち、二種類のステージが存在している。

このうち、「有名」なのは、いわゆる「表ヤビツ」の方であり、距離が短いが、斜度は最大10%程度と急で、途中にある菜の花台からは秦野をはじめとして太平洋側を一望できる。
つまり、ここからの夜景は、関東一円でも有名である。
ただ、それよりも何よりも、『頭文字D』のコミックス、神奈川編で、プロジェクトDがチーム246(ツー・フォー・シックス)と、ヒルクライム、ダウンヒルの対戦をするステージとして、全国的に有名となったようである。
つまり、全国的には、「ヤビツ峠」=表ヤビツと認識されているのかもしれない。
ちなみに、この「表ヤビツ」は、『頭文字D』の作中の、
「ここじゃ、半端なチューニングカーじゃ通用しないぜ」
という台詞にもあったように、ハイパワー・チューンド・カーがヒルクライムを行う場所だとされている。
車両でいえば、スカイラインGT-R、スープラ、RX-7、ランエボ、インプレッサなどのハイパワーターボ車であろうか。
だが、これが「ヤビツ峠」の全てではない。
現実の「ヤビツ峠」には、この「奥」があるのだ。

この「奥」が、「裏ヤビツ」と呼ばれている。
しかも、厄介なことに、この「奥」、「裏ヤビツ」では、二種類の「すみわけ」がなされている。

裏ヤビツのなかでも、表ヤビツに近い側は、川沿いの渓谷の中に、車同士がすれ違うのもままならないほど大変狭く荒れた舗装路が続く。これが「ラリーストの道」と呼ばれ、その名の通り、「ラリーを志す者たち」が、比較的小さなノーマルエンジンにロールバーというラリー仕様車(スターレットやシティーなどの軽量FFだったと伝えられている)で、ストップウォッチを片手に、自らのタイムを向上させようとしていたエリアなのだ。
さしずめ「中ヤビツ」とでもいうべきだろうか。

そして、私が、これまで「ヤビツ峠」として、ドリフト族のソリストたちのことを記してきたのは、裏ヤビツの中でも、宮が瀬湖側のエリアである。
ここの車両は、スカイラインGT、ハチロク、シルビア、SX180、マークⅡ、チェイサーなどの後輪駆動車であろう。

要は、秦野から宮が瀬へと至る、約30キロの道には、三つのステージが住みわけ的に存在しているのだ。

先日までで、せっかく、
「美の世界」「フィギュア的・マヌーバ的」な世界の方々、裏ヤビツの中でも、宮が瀬湖側のエリアの方々の魂に、「共感」してきたわけであるから、もう少しこのエリアの方々の魂に共感しながら話をすすめていく。

ドリフト。

ガードレールギリギリに外から振っていって、
ケツを流し、
意図的にスリップさせて、
オーバーステアを発生させる。
ステアはカウンターをあてつつ、
イン側・ガードレールギリギリに食いつくように走行させ、
極限の美を追求する。

何のために?
速く走るために?
―こうしたドリフト走法が、ターマックにおいては「カニばしり」と揶揄されるようになって久しい。

何のために?
大勢の観客に見せるために?
―こんな暗い峠道に一体どれほどのギャラリーがいるというのか。
 しかもここは、「一本道」なので、ギャラリーが「本線」を見物するためにあがってくる「側道」「旧道」が存在しない。


では、何のために?
何のために極限の美を追い求めるのか?
―それを理解するには、「奉納ドリフト」というものを理解する必要性がある。

「奉納ドリフト」・・・「奉納コンサート」の類似観念だろう。
「奉納コンサート」・・・有名どころでは「明治神宮奉納コンサート」。
Posted at 2009/10/21 22:11:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月20日 イイね!

環状予告

環状予告片道1200km超のロングツーリングも、本日未明に帰宅して終わった。
大半を一般道を走行することによってまかなうという、極めて忍耐力を必要とするツーリングだったが、何とか、無事に終えることができた。
この件に関するまとめと続きとは、また明日。

ひとまず、このことを記しておくのと、今回は、次のステージの予告をしておこう。
「次のステージ」は「環状」だ。
これは、「大阪環状線」だけを指してそう呼ぶわけではない。
この「環状」という意味には、まずは「環状になっている」「環状となっている」という意味があるわけだから、首都高の「都心環状線」はまず含まれるし、
それと、完全な環状にはなっていないが、「環状8号線(愛称:カンパチ)」などと、「環状」の名称が付けられているもの、
あるいはまた、「環状」のカテゴリーにおいて語ることが適切だと、私が判断したことについてである。

あと、今回を「予告」として、「環状」のカテゴリーに入れたのには、少しだけ意味がある。
勿論、宮が瀬→環状と話を進めるのが、もっとも話がしやすいことが理由の第一だが、
もうひとつは、20日という日程上の都合上、
また、私がこのブログの用い方を再確認するためだ。

このブログは、「日記」として用いることを「第一目的」としているが、
そもそも、「日記」には、備忘録的・記録的要素がその中心となる。
つまり、○月○日○時○分、××出発→。○月○日○時○分到着のような、
「ツーリングレポート」は、一般的に言ってこちらの、「タイムリーな」「日記部分」に記される。
これは、カレンダーをクリックすることで備忘録的な意味をもつものだろう。

一方、峠ごとの回想、案内、実践レポートは、それぞれのステージ名などを冠した、カテゴリーわけ」からのアクセス・確認をするのが、
読者にとっても、自分にとっても良かったと思っている。
つまり、こちらは、カテゴリーをクリックすることがよいのである。


これらは、「読者」と「自分自身」の確認として必要なやり取りだろう。

それと、画像は、福岡の、泊まったビジネスホテルの窓から、外を撮影したもの。
早朝。
朝起きて、食事をとる。
すると、やはり、おかしなことをやらかした(笑)。
この写真の少し後のことだ。

このホテルの七階に泊まっていたが、
食堂での、朝食後、
七階の自分の部屋に戻るつもりが、何をおもったか?
三階に泊まっていたものと誤認した。
カードキーを三階の、エレベーターからの位置関係が同じ、
自分のとは別の部屋のドアに差し込んだ。
当然だが、何度カードを入れてみても、開錠されなかった。
あきらめずに何度も何度も通す。
しまいに中から、
「何ですかー?」と応答が・・・。
相変わらず、食事は・・・、苦手か。

では、明日からまた、「ツーリングレポート」等を現在進行形で確認しつつ、
ヤビツ峠の話を回想部分でいれていくことになろう。
また、明日から、宮が瀬エリアのヤビツ峠を語っていこう。
Posted at 2009/10/20 23:33:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | 環八(環状) | 日記
2009年10月19日 イイね!

不本意なる共鳴

不本意なる共鳴再び、「地獄の1200km超ツーリング」が幕を開けた。(帰路)

現時点で、車両にメカニカルトラブルは出ていない。
メカニカルトラブルが出たのは私の方なのだった。

私が、わざわざロングツーリングに望んだのは、自身のドライビングの「マラソン力」(厳密には「競歩力」「耐久力」)を自分で確認するためだ。
それは、案の定、凄く客観的な形で、現象として出てくる。
例えば、「歯が壊れる」とか。

そう。
前歯の詰め物が、外れかけた。
正確には、詰め物よりも、自分の歯の方が柔らかくなってしまっているらしく、自分の歯の方が欠けてしまった。
緊急修理が必要だった。
福岡にて、すぐ近くに、歯科があったため、修理をしてもらった。
保険証を持ってきていたため事なきを得る。

歯を修理したところで、いま、帰路についている。
再び、1200km超のツーリングの幕が、切って落とされている。

今まで、走りというものを、「美」と「数」に分けて語ってきた。
「美を求める走り」には「散華の美」が宿り、
「数を求める走り」は「淡々と技術を追求するだけ」と。

そういう語り口だったから、
「数を求める走り」の世界に生きる私は、
「70~80%の力しか出さない、その70~80%の力を如何に向上させるか」という、クレバーさを備える者として、
「美を求める走り」の「散華の美」を
「美しいー!」「ブラボー!」「ブラバー!」と賛辞を叫びながら、
「他人の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想だ・・・」と
他の世界の住人のこととして、完全な他人事として、せせら笑いながら、
しかも上から目線で、
考察してきた。
ここからは、
「美」と「数」として分けて考えることより、
同じく「走り」という共通の話として、
「共感」を前提として語ってゆきたい。

「君も、ドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族なら、ドリフト族として、限界の美を求めるソリストになるために、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」

念のため言う。
私は、ドリフトのフィギュア的要素、この種のマヌーバを、馬鹿にしているわけではない。
実際の私は、共感してばかりである。
第一、昨日の朝、例によって、食後、またおかしなことをやらかした。(これは、恐らく、次回談。)

ともかく私は、
「ポテンシャルを引き出すこと」ためには断食だ、
「レスポンスを向上させる」ためには断食だ、
こういう種族の人間にグルーピングされるのだろう。

けっして、
「自らは70~80%の力しか出さないで、生きながらえておきながら、
他人の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想だ・・・」と他の世界の住人を他人事としてせせら笑いながら、
内心で「バッカじゃねーの?」と思いつつ、
「美しいー!」「ブラボー!」「ブラバー!」と賛辞を叫びながら、
冷静に考察している・・・、
こういうタイプの人間ではない。

共感。
いや、共鳴。
「散華の美」とやらに、身体が共鳴しているのだ。

「君も、ドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族なら、ドリフト族として、限界の美を求めるソリストになるために、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」

ただ、私にとっては、本能的、身体的に共鳴していて、感動的であるのだけれど、
精神的には不愉快である。
私は、苦痛と向き合うことが大嫌いだ。
むしろ、傲慢な人間性を中核としている。

私が、わざわざロングツーリングに望んだのは、自身のドライビングの「マラソン力」(厳密には「競歩力」「耐久力」)を自分で確認するためだ。
こうしたおこないと、その動機づけは、あくまで技術的要請によって不本意に行われることとなる。
Posted at 2009/10/19 11:30:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月18日 イイね!

身体的・機械論的苦痛の、走りに対する一般性について

身体的・機械論的苦痛の、走りに対する一般性についていま、福岡に来ている。正確には、木曜の夜から来ている。
勿論、いつもの車で来ている。
本来は、「走りのトレーニングのためだけに」来たいところなのだけれど、
残念ながら、誠に残念ながら、私は、「専業の走り屋」ではない。
残念ながら、他の大切な用事のために来ただけ。
観光する時間もない。
東京を出発した時の走行距離が、72333kmで、福岡到着時が画像の通り、73552kmなのだから、片道1200km超のロングツーリングということになる。
途中地点の神戸で、走行距離は72943kmだった(15日のブログ)。
メーターには、とある理由で1万キロの差がある。これは、機会があれば後日。


昨日の画像は、途中通過地点の尾道だ。
山陽道の左手に、瀬戸内海が見えたわけで、実際の景色は、こんな程度の画像では表現できない。尾道は、「瀬戸内海で最も美しい」とされる地域なので、昨日まで、美についてさんざん話したので、少し話しに触れておきたい気もしたが、やはり、「美について」自分はまだよく理解出来ていないため、そこまで見事な論評づくりは、まだ無理である。掲載する画像にタグボートとはしけを選んだ理由は、自分でもよくわからない。


さて、上記の「現在進行形の日記」と下記の「思索」が密接にリンクしつつある。

「美の世界の住人」、もっと正確・具体的には、「美の世界の住人が持っている身体的苦痛」を「ひとごと」と言い切れない自身の現状がある。
これは、「自身の現状」あるいは「自分のひ弱さ」を原因として「自分の中から出てきた私の特性」「個体の癖(悪癖)」なのだ・・・、そう思うことが多いのだが、
実のところ、「レスポンスを引き出すこと、とはそういうこと」で、
単に私が「技術的誤解」をして「個体の癖」と感じているのか。

あくまで、それは人によりけりだと思うが。

ひとつ、射撃手・スナイパーの例を挙げよう。
スナイパーは、ひときわ高い精度が要求されるのだから、
その手元が狂うこと、
また、瞬間的な判断力が鈍ることがあっては、ならない。
そんな彼らには、実際に緊迫した事件に出動することになるらしい、とわかると
その日は朝から何も食べないのだという。

また、それこそ走りの話だが、
レーサーには、食事をしないでレースに臨む者が多いという話を聞いたことがある。
そう考えると、私も何らの問題はないのかもしれない。
「ポテンシャルを引き出すこと」ためには断食だ。
「レスポンスを向上させる」ためには断食だ。
「ポテンシャルを引き出すこと」とか「レスポンスを向上させる」とは、「そういうこと」で、単に私が「技術的誤解」をして、「個体の癖」と感じているのか、わからない。
ひょっとすると、ここに、
フィギュアだのスピードだの、
美だの数だのという異質な観念は入ってこないのかもしれない。

そういえば、歴史上、初めて、マラソンをやった人間は・・・死んだ。

スプリントとマラソン、「速さを求める走り」の中にもこの二つがあるのだけれど、
いずれにせよ、「身体的苦痛」を避けては通れないのかもしれない。

いま、私が、わざわざロングツーリングに望んだのは、自身のドライビングの「マラソン力」(厳密には「競歩力」「耐久力」)を自分で確認するためだ。
それは、凄く客観的な形で、現象として出てくる。
例えば、「歯が壊れる」とか。
Posted at 2009/10/18 04:14:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月17日 イイね!

身体・精神≠魂

身体・精神≠魂こんな程度の画像でも、この写真がどこ地域だか、わかる人にはわかるだろう。
いま、用事で、東京から離れたところに来ているのだが、
ここの地域を通過して、関門海峡を越え、さらに西に、来ている。


「美の世界の住人」の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのであるし、そうでなくては、表現される動線を見たとき、私たちの魂が揺さぶられることもない。
「美の世界」の動線は、「散華(さんげ)の美」と表裏一体だ。
だからして、その途中で、多くのソリストたちは、挫折、散華、玉砕してしまう。
しかしながら、動的な美を表現するソリストたちは、この刹那的にして危険極まりない段階を踏み越えなくては、その奥にそびえる普遍的にして安定的な美を表現する境地には辿りつけないのであろうから、
「美の世界の住人」の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのであるし、そうでなくてはならないのだ。
一方私は、数の世界に生き、
「70~80%の力しか出さない、その70~80%の力を如何に向上させるか」という、
「環状高速的技術論」を説いてきたのだから、
私は、とてつもなくイヤな奴に見えるだろう。
「自らは70~80%の力しか出さないで、生きながらえておきながら、
他人の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想な・・・最悪だなコイツ。」と。
しかしながら、残念無念。
本当は、こんな「最悪な奴」でありたいところなのだけれど、
自分の現状は、「美の世界の住人」を「ひとごと」と言い切れない自身の現状がある。
昨日、そう書いた。

実のところ、私は、食事が苦手だという傾向を持っている。
「何だそれは?」と不思議がる人は、身体において相当恵まれた状態であろうし、
「あー、わかる」と思った人は、私以上にそういう傾向があるのだろう。

わかりやすくいえば、食後に私は「まともに動くことが出来ない」場合が結構ある。
食事が済んで、腹がいっぱいになっている状態では、私はロクなことをしない。
この中から「走り」に関連することを抜き出すと、まず、「方向音痴」になったりすることだ。
もっといえば、自身の長所・秀でた能力が、一気に、短所・欠点へと転じていく。
ちょうど、数学で数、+80が-80に変身するのと、似ている。
ひょっとすると、私が持つ長所・秀でた能力は、こういう変な特性をもっているのかもしれない。

元来、自分は、抜群の方向感覚を持っている。
しかし、方向感覚抜群な自分が、相当しょっちゅう、「急性方向音痴」になることがあるのだ。
「原因の特定」が、できない方が幸せだったのだが、原因は明らかだった。
「急性方向音痴」は決まって、食後に発生した。
食後、腹が一杯になって、
いい気分で走り出す→道に迷う。

しかも、悪いことに、これを「防ぐ」手立てがないのだ。
なぜなら、「論理的思考」が、それ以上に、激しくおかしくなるからだ。
つまり、同じく私の秀でた能力である、「地図を読む能力」が、激しく低下・誤読をし始め、害を発したりする。


これは、車を使う以外の時でも発生した。
つい先日も発生した。
宿泊しているホテルの近くのファミレスで、落ち着いて晩飯を食べた後のこと。

とある男性が道を尋ねてきた。
「あの~、ビジネスホテルに戻りたいのですが。道がよくわからなくて」
「ビジネスホテル?どの?」
「これ」(男性はおもむろに、ホテル名の書かれたカードを取り出す。)
「ああ、ここ、僕が泊まってるとこと同じですよ」
「そう?よかった」
「いま、僕らがいるこの道を、このまま、まっすぐ歩いて下さい。
400メートルくらいありますかね。
とにかく、まーっすぐです。
そうしたら、左手に、つまり、もう、単純に、並びにありますから」
「あっ、そうですか。ありがとうございます」
このときの私の、反射的な応答こそが、正解だったのだ。
この男性は、単に、まっすぐ歩いていけばよかった。
男性は3メートルほど歩き出した。

ところが、何をトチ狂ったか?
私は、自身が「インチキを教えてしまった!」、そういう感覚に囚われた。
そのビジネスホテルは、この先にはない!
次の十字路を左に曲がったところだ!

私は、男性の背中から少し大きな声をかけた。
「すみません!」
「へっ?」
「ごめんなさい。インチキ教えちゃいました」
「はあ」
「その先の、交差点を左に曲がるんですよ」
「あっ、そうですか」
「はは。自分もここは不慣れでして。よく考えたらホテルはそっちの方向です」
当然私の左腕はインチキな方向を指していた。
「いやー、わざわざどうも。助かりました」
男性は再び歩き出した。
男性の背中が遠ざかり、交差点を曲がっていった。
左のほうへ。
後から訂正された情報を信じて。
普通の人間の常識的な感性に基づいて。
後から付け加えられた情報の方が正しいと信じて。

しかし、実際、このとき、道を尋ねた相手は、とんでもない特性を持っていた。
通常の人間ではあり得ないような、変な特性を示していた。
後から訂正した方の情報が間違っているという。

そのあと私は、自分の買い物をしに、ファミレスのパーキングに止めておいた、傍らの自分の車に乗り込んで、そのまま出て行った。
自身のミスに気が付いたのは、買い物を済ませて、再びこのファミレス地点に戻った時のこと。
なんで?
なんで、この先を左に曲がるわけ?
あり得ない。
いいんだよ、まっすぐで。

さっきのやりとりからは30分以上経過していたか。
その男性の姿はないにきまっている。
ごめんなさい。


食後の私は信用ならない。
食後に私が言うことは、常軌を逸したミスを犯していることが多い。
食後の私は、方向音痴であったりする。
食後の私は、論理的思考が吹っ飛んでいる。
食後の私は、体調が悪いことも多い。
食後の私は、極度の躁鬱状態だったりする。
食後の私は、ドライビングセンスが低下しているようだ。
食後の私が峠を攻めることは出来ない。
食欲が満たされた、満足感に浸って、
いい気分で、峠を走ることは、私には許されていないのだ。

私には、走ることは、気持ちの良いことではない可能性が高い。
身体的に、気持ちの良いことでは決して、ない。
ひょっとすると身体は、走ることが、好きではないのかもしれない。
しかし、私の魂が、走ることを求めている。
走ることの性能を引き上げることを求めている。
文芸的に言うところ、魂の欲求を満たすためには、身体の欲求を犠牲にしなければならない。

文芸的に言えば、私の身体は、走ることが好きではないのかもしれない。
もっと文芸的に言うなら、栄養失調寸前の状態で、自身を魂と向き合える限界状態に追い込んでやる必要があるのだ。

ただ、技術論的に正確にいうなら、食後に峠を攻めることは避け、
食事と食事の間くらい、空腹の少し前くらいが、良いのだろう。
空腹の少し前、缶コーヒーを飲み、自らに気合を入れた状態がベストだ。
とはいえ、こんなタイミングでのコーヒーが、胃を痛めるというのは、百も承知なのだけれど。

私の身体は、走ることが好きではないのかもしれない。

だが、当然本音は、
「身体および精神の快適性と、魂の快適性は一致していて欲しい」し、
心と身体と魂の全てが平等に満たされた状態で、
快楽的にぶっ飛ばし、
かつ、
「70~80%の力しか出さない、その70~80%の力を如何に向上させるか」という、クレバーさを備え、
その「環状高速的技術論」は多摩湖道というパトリオティズムとアイデンティティーで満たされ、
そんな快楽と自信と正当性の確信の下で、
「自らは70~80%の力しか出さないで、生きながらえておきながら、
他人の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想だ・・・」と他の世界の住人を他人事としてせせら笑いながら、
内心で「バッカじゃねーの?」と思いつつ、
「美しいー!」「ブラボー!」「ブラバー!」と賛辞を叫びながら、
冷静に考察している・・・。


本当は、そんな「最悪な奴」でありたかったのだけれど、
自分には、「美の世界の住人」を「ひとごと」と言い切れない自身の現状がある。

私の身体と表層的な精神は、走ることが好きではないのかもしれない。
私の魂は、走ることを求めている。
私の現状は、魂を満たすために、身体と精神を犠牲にしている。
身体・精神≠魂。
Posted at 2009/10/17 02:37:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記

プロフィール

「omnes viae Romam ducunt」
何シテル?   09/26 04:50
今を、近未来を、速く!上手く!美しく!走りたい。どこの歴史上の、どこの伝説の誰よりも。 「数の世界」を愛する者のひとりとして、いつの日にか「私」が「最速」の象...
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