この記事は、
シーシェパードが日本の調査捕鯨船と衝突 南極海--産経--について書いています。
「俺の夢は、俺たちを、世界一の暴走族にすることです」
↑バッカじゃねーの?
・・・整備工場に解体屋が引き取りに来て、トヨタ・クラウンたちが出て行ったとき、
一つの「悔い」が思い浮かんだのだった。
「1台は、何とか残ってるじゃないか・・・他の4台をパーツ取りにして・・・何とか、遺志を我が物として、残りの一台にドリフトマシンとしての走りを追求させることはできないものだろうか?」
去っていく姿を見て、そういう思いが到来したのだが、時遅し。
いや、「遅し」というより、その時の私の経験値等では、それが出来なかったであろう。
確かに、そういった系の車両はあった。しかも、あの「多重衝突」でもけが人が出なかったのは、車両によるところが大きかった。
損傷が極めて大きかった2台には、「走り屋仕様」のバケットシートが付けられており、その2台の乗り手は6点式フルハーネスで身体を括り付けられていたので、辛くも死傷を免れていたのだった。
そういうことがわかったのでさえ、随分後になってからだった。
だから何というか、勿論、
「1台は、何とか残ってるじゃないか・・・他の4台をパーツ取りにして・・・何とか、遺志を我が物として、残りの一台にドリフトマシンとしての走りを追求させることはできないものだろうか?」
という、極めて狭い意味での「雪辱の克服」が「出来なかった」ということに対して、
忸怩たる思いがあるのだけれども、
「それ(極めて狭い意味での「雪辱の克服」)」は、当時の私には、無理だった。
かといって、
「私が体調を崩したりして悪夢を見るとき、決まって、あの車両たちが出てくる。
私にとっては、今もなお、トヨタ・クラウンは悪夢と共に出てくる亡霊のようなものとなっている」
という状況が続いていいはずがない。
だから・・・私が、「トヨタ・クラウンという車種を、いずれ、自分と、世界の、
誇りとリスペクトの権化に昇華させたい」という思いを持つのは、ある種、必然的な流れだと思う。
しかも、「クラッシュした4台のドライバーが、カーライフから去ってしまった」しかも、「ありがとう」などと言って、無理な笑顔で去ってしまった、という事実もまた、私の心に大きな染みとして残っている。
だが、
「トヨタ・クラウンという車種を、いずれ、自分と、世界の、
誇りとリスペクトの権化に昇華させたい」
こう思ったのだが、自分自身で即座に否定したくなった。
それはこういう意味になるからだ。
「俺の夢は、俺たちを、世界一の暴走族にすることです」
↑
バッカじゃねーの?
即座に思った。
この時点で、もう私は二十歳をこえていたのだから、いい歳して何考えてんだ?
みたいな話である。
そもそもが、「トヨタ・クラウン」という車種が、そんな未来まで存続するのか?
ってゆーか、ウチの家族からは、「ああいうの、非国民っていうんだな」と言って、ボロくそ非難の対象となっているトヨタ自動車の造り出したモノに、そこまでの価値はあるのか?
それと、自分・自分たちの劣等感を、車両に投影しているだけではないのか?
それより何より、「世界一の暴走族」って何だよ・・・。
ふざけてんじゃね―の?
「暴走行為」をそこまで正当化出来るのか?
・・・と。
つまり、「俺の夢は、俺たちを、世界一の暴走族にすることです」
↑バッカじゃねーの?
という自己否定回路が頭の中になっていたのだが・・・。
しかし、(暴力行為も含めた)「暴走行為」でさえも、何処かでは必要とされているのではないか? という思いもあった。
要は、
常識的に考えて、「バッカじゃねーの?」な話で、頭で考えるとそうなるのだが、
魂のどこかで・・・直観的に考えると、
「いや、それが、正しいことなのだ」
としている、
という心理状態なのだ。
直観的に考えて、「それが正しいことだ」と思っている。
しかし、頭で考えれば考えるほど、それを「正当化」する根拠が見当たらない。
私が、少し親戚の家に行ったとき、テレビが点いていて、愕然とする場面が流れていた。
海賊旗を掲げた船舶が、捕鯨船に体当たり攻撃していた。
船首に黒い海賊旗がはためき、ドテッ腹目がけて突っ込んでくる。
「海賊???!!!」
ありえない・・・。21世紀にもなって海賊???
こんな暴力行為を堂々と。
こんな暴力行為をする海賊、世界中から、弾圧されて、大っぴらな活動なんか出来ないんじゃないのか?
こんな大っぴらな活動が出来ている、という現実そのものに、驚嘆した。
大げさな言い方をすれば、
「実のところ、俺は、シーシェパードの「海賊行為」、
「人類共通の敵(hostis humani generis)」とされる国際犯罪、
つまり、シーシェパードの「犯罪行為」については、正直、「共感」している」
https://minkara.carview.co.jp/userid/607203/blog/17249122/
暴力行為そのものに共感しているのだ。
勿論、共感しているからって、「取り締まるな」とか「賛成」とか、そういうことには絶対ならない。
私の立場は、「シーシェパードは、海賊として、徹底的に弾圧・殲滅されるべきである」というものであることは言うまでもない。
だって、「根拠」が、「環境保護」と「捕鯨反対」って・・・、それで・・・「その程度の理由」で船舶攻撃・暴力行為って・・・、
そんないい加減な・・・その程度の根拠づけで正当化されてしまったら、「何でもアリ」とほぼ一緒になってしまう。
だが、「そんな程度の根拠づけ」で「暴力行為が公然と存在してしまう」。
21世紀初頭とは、そんな程度の世界であった。
それと、あっちの方で、私の叔母が雑誌を読みながら言葉を漏らしていた。
雑誌の内容は、中華人民共和国政府による、チベットなどの侵略、警察による拷問・暴力行為・人民弾圧、ホロコーストについて書かれていた。
勿論、その紙面では、「日中友好」と日本の総理大臣が言っている姿もチラっと書かれていた。
そこに、テレビの内容が少し流れ込んだためか、私の叔母は、こう、言葉を漏らした。
「また、日本は、昔と同じ道をたどるのね・・・。その時の、世界最悪の相手と友好関係になって、後で、日本はずっと侵略と、侵略者の味方だった、って言われるんだ」と。
そして、テレビの内容が合わさって、続けた。
「日本の捕鯨船なんかに暴力振るってないで、中国の警察とか、盛大にボッコボコにしてやれば、きっと世界は良くなるよ」と。
正直聞いたとき、ハッとした。
そうだ・・・。
この世界には、暴力行為・暴走行為・破壊行為ですら、正当化出来るだけの「もの」が存在しているんだ!
シーシェパードが唱えるような、「環境保護」「捕鯨反対」なんて程度の、薄弱な根拠ではなく、
厳然とした、確たる、「根拠」が確かに存在している、
という、21世紀初頭の世界の事実に、そのときになって、ようやっと気づいたんだった。
だから、結論として、
「俺の夢は、俺たちを、世界一の暴走族にすることです」
こんな「夢」でさえも、十分に正当性をもつ。
それが、21世紀初頭の世界であった。
では、
そんな21世紀を走り抜けて、(私は勿論、今いるほとんどの人は、生きていないだろうか)
22世紀になったら、どんなことが「正統化」の「根拠」となり得るか?
そういうことに思い至ったのは、それからずいぶん時間が経っていたが、
その「正統性」の「根拠」なるものが、
「前・始まり」と「後・終わり」とで「同じもの」である、ということにも気づいた。
○→●→○
みたいな???
(これには、後日。)