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猛走峠のブログ一覧

2012年12月31日 イイね!

真実と情熱の間。

この記事は、

猛走峠の妄想と、独り言です。

他のブロガーのフリをしている箇所もありますが、

ほぼ全て、猛走峠のひとり芝居です。



【裏話】統計「解析」は恣意的であるが規制が多い【揺らぎと宇宙のお話
などについて書いています。


****************************

2009年08月05日
走り屋失格


今を、近未来を、速く!上手く!美しく!走りたい。
どこの歴史上の、どこの伝説の誰よりも。

私は、「数の世界」を愛する者のひとりである。
「数の世界」とは、人類がこの宇宙に宿る現象を、人類が理解可能な言語のひとつとして表したものである。それは一見すると絶対的であって非感情的であるが、実のところはきわめて社会的で相対的な観念に他ならない。
そのため我々は、数字を、特に自らを評価するためのものさしとして持ち込んだとき、これを最大化したいと熱望する傾向がある。
さらにこの中に、極めて感情的で、俺達の本能をことさらに刺激する概念が存在する。

「最速」。
「数の世界」を愛する者のひとりとして、いつの日にか「オレ」は「最速」の象徴となりたい。
さらにいつの日にか「悟りを開いた自分」が「数の世界の象徴」となりたい。
そして結果的には、「私」と「数の神」との混同が生ずることをも私は望んでいる。

「最速」。
これは一見すると、特別な者だけが掴み取ることの出来る特別な存在であるかのように思える。
しかしながら実際のところは、おそらくほとんどの者が、その生涯において最終的には、究極の最速世界を通り抜けることになると思われる。
ヒトも含めて、全ての者の営みは生まれた時から今このときに至るまで、宇宙に波紋として広がっているように思う。しかしながらその波紋の速度は一般的に考えると、光の速さ程度に過ぎないと思われる。対して、生命が終わるとき、その魂は、一瞬にして(いわゆる)十万億土の彼方へと移動してゆく必要がある。
つまり、光速で宇宙に広がっていった自らの波紋を、超光速の自らの魂が一瞬で追い抜くのである。

それは、現在、地を這いまわり、心底悩みながら「最速」を追い求めている俺達の努力は、馬鹿馬鹿しくも無意味なものに帰するということである。
だが、こうした無常観を唱える輩に対して、そうした無常観を相当持ち合わせている私自身に対して、オレがガツンと言ってやる必要がある。

「井の中のカワズ大海を知らず。然れども空の深さを知る」。
確かに、今も、近未来も、地を這い回るしかないオレ達が求める「最速」などというものは、最終的には無意味なものと化する。しかし、地を這い回ることを通して求めた最速が、空の深さを知ることになるのではなかろうか。
さしずめ、井の中の蛙として生きるしかない、今の、近未来の俺たちにとって、空の深さを知ることが、どれほどに魅力的なことであろうか。
また、空の深さを知るために努力しているという自己満足感と自己陶酔感が、どれほどの快感であるのか、それを言語化することはもはや不可能である。そして、これらは、最終的には全く持って無意味な存在に成り下がるからこそ、今、ひときわ強い輝きを放つのである。
だから、今を、近未来を、速く!上手く!美しく!走りたい。

私の魂は猛烈に愛している。
自分を、家族を、この国を、美しきこの国の峠を。
峠。
それはこの国の山という自然界に切り込まれた一筋の人間のゾーン。
この国はそびえ立つ山々の懐に、いく筋もの峠道を無数に擁している。
今も、近未来も、地を這い回るしかないオレだが、オレは一匹の井の中の蛙として、日本に生まれたことを誇りに思っている。
神気に満ちた、日本の峠で、空の深さを知ろうとして這い回っていることに、身震いがしている。

そう、私の魂は、峠の走り屋だ。
峠を走ることを猛烈に愛する、峠の走り屋だ。

しかし、私の現状はどうだ?
走り屋失格だ。


****************************




2012年末。

ある者は叫んだ。






人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然 だ!

 ん? ↑これは真実じゃない??
  ん? じゃ、おれは何をもって生きてんだ?

子供を守りたいと言う想いは真実だ!

人としてデフォ(初期値)だ!





叫んだ。

そこが世界の中心であるかどうかはわからないが、
一応、世界の中心だということにしておこう。

2012年末、
ある者は、

世界の中心で愛を叫んだのである。


****************************


発端は、

相当程度、無常観を持った ヤツ のせいだ。

「俺達の努力は、馬鹿馬鹿しくも無意味なものに帰する」とか言ってる、おかしな無常観を持っているヤツのせいだ。

猛ナントカとかいうヤツのせいだ。

猛ナントカとかいうヤツが、




人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然


それは↑「真実」じゃなくて、

思想・信条(心情)・想い・愛・情熱・恣意・・・そういうものだ



とか言いやがったからだ。




人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然 だ!


猛ナントカとかいうヤツも否定しなかった。

それどころか、

「俺もそう思ってるぜ――― ^^/」とか言ってやがった。







俺は思ってる。

オマエも、思ってるだろ。

youも、そう思ってるだろ。


どうだ? 異議のあるヤツはいるか?

異議なし。





俺は思ってる。

オマエも思ってるだろ。

みんな そう思ってる。


だから、真実だ。







ま、ぶっちゃけ、それでいいのだ(笑)。





原子力の作業@アメリカが、
つい30年くらい前までは、黒人には線量制限無かった、であるとか、



「間引き」やってた時代も、ある、とか、

「人は誰しも―――」って、たいていの人が考える・言うようになったこと自体、
その歴史は驚くほど浅いってこと、とか、

そんなことはどうでもいいのだ(苦笑)。



「今現在の、俺たちが思うところ、俺たちの叫ぶ愛情・情熱」こそが、
「普遍の 真実」
でよいのだ。


「今現在の、私たちの、思想・考え方」を、
「おれたちの考え方こそ真実だ!」と言っていることになる、

とかいう↑こういう、タチの悪いツッコミは、必要ではないのだ(苦笑)。




無常観を相当持ち合わせている私自身に対して、オレがガツンと言ってやる必要がある。






人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然 だ!


子供を守りたいと言う想いは真実だ!

人としてデフォ(初期値)だ!






俺は思ってる。

オマエも思ってるだろ。

みんな そう思ってる。


だから、真実だ。


おおおおおおおおおおおおお
(なぜか突っ走る)







だから、日本政府も、国際社会に向けて、「提唱」したらしい。




国連「人間の安全保障」決議
9月11日 11時12分
ニューヨークの国連本部で、10日、個人がテロの恐怖や貧困による飢餓などから解放され、能力を十分に生かせる社会を目指す、「人間の安全保障」という概念を、具体的に定義した初めての総会決議を、日本などの主導で全会一致で採択しました。

この「人間の安全保障」は、途上国などを念頭に、国の発展を、国家ではなく人間一人一人の立場から捉え、人々がテロや政府の弾圧の恐怖や貧困による飢餓などから解放され、能力を十分に生かすことが重要だとする考え方で、日本政府がこれまで、外交の基本的な柱として各国に提唱してきた経緯があります。
10日の国連総会では、この「人間の安全保障」の具体的な定義を初めて盛り込んだ総会決議案が日本などの主導で提出され、全会一致で採択されました
決議ではまた、この考え方を今後、途上国の支援にどう生かしていくかなどについて、議論を深めてゆくことも盛り込んでいます。
決議の採択について、日本の国連代表部の山崎純大使は「世界が『人間の安全保障』の考え方を共有できたことに意味がある。この概念が今後着実に実行されるよう期待したい」と述べました。






ま、

「人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然」なのは

”人間の安全保障とかいったような名称・概念”ではなく

”人としてデフォ"だから

なんだけどなw



ま、そのへんはどうでもいい。

****************************



何?

原発がぶっ壊れて、

核物質がブチ撒きになって、ヤバい?







人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは 当然 なんだかんな。


子供を守りたいと言う想いは 真実 なんだかんなw


ただちに対策を執るのが当然だろがよ。


なあ。行政の連中よぉ↓。




行政のリアクション。



「100万人を─いや50万人を避難させるなど現実的ではない」
「パニックが怖ろしい」(責任ナンテトリタクネーシ)


(渦さま指摘。
要するに、 動かない )




「公僕」てのは
国民の生活の安寧、向上、利便のために
仕事すべきでそのために存在し税金が給料その他(住宅とかの過度の優遇が問題視されてますな)使われていると思っておりますので─

「動かない」?
そんなもの、予算─給与─削ってまえ!!

って強く思いますよ

(渦さま ご立腹。↑ようやっと、ここで使用の渦さまコメ^^;)



****************************





「人間の安全保障」

国の発展を、国家ではなく
人間一人一人の立場から捉え、
人々がテロや政府の弾圧の恐怖や貧困による飢餓などから解放され、能力を十分に生かすことが重要だとする考え方


日本 などの主導で提出され




∵ゞ(≧ε≦o)ブッ!!



ドイツ人:

あんな恐ろし国には絶対行きたくない

放射性物質が怖いのではなく、まともな対応をとらない政府が怖い。

情報開示や、対応のレベルの低さがありえない。

ドイツや他のヨーロッパ国々と同じ先進国とは思えない。

もし滞在中に何かあっても適切な対応をとってくれるとは考えられない。

絶対に行けない。」


自分の仕事で一緒に仕事させてもらっている人が、東京でその業種の大きな会議を開く時に、
ドイツからマイスター数名を招待しようとしたら、頑に拒否されたそうです。

そして
「みんな日本を心配している。」


こぺてりあ さんのコメ。







正直――――


恥ずかった><

****************************




国連「人間の安全保障」決議
9月11日 11時12分
日本などの主導で全会一致で採択



この記事みたとき、

超、恥ずかった><



おれたちの現状は、どうだ?

 ・・・というカンジで。






嗚呼、穴があったら入りたい(爆)





あ、核シェルターの装備率低いんだったw





日本は、山がちの国だから、

トンネルも多い。  

これらの非常設備を活用して――――着々と、整備を―――

とかほざいてたら、



ワタシも、
すごく馴染みのある、長大トンネルで、

吊天井崩落事故が起こって、


それで、


火災も起こったから、



トンネル内に煙が充満して、




トンネル内にいた人々が、
非常口から避難しようとしたら、


「非常口が開かなかった」とかいう噂まで出たし、




「非常口の向こうは、対向車線側のトンネルなんだけど、

そっちは、

クルマがびゅんびゅん走っていて、

とてもじゃないけど 避難に使える状況じゃなかった>< 」


とかいうことになってしまった><




****************************




嗚呼、超恥じい~~><

穴があったら入りてぇ~~(苦笑)。

あ、日本は核シェルター整備率低いんだった。

トンネルは・・・

トンネルは、吊天井構造が多いです(←吊ってあるモンは劣化すりゃ崩れる。災害や爆撃にもよわいじゃん)

あは


非常口は?!




非常口の向こうは、対向車線側のトンネルなんだけど、

そっちは、

クルマがびゅんびゅん走っていて、

とてもじゃないけど 避難に使える状況じゃなかった



あはは

もう、
アレが足りないとか、
コレが欠陥だとか、

そういうレヴェルじゃなくて、

 根本的な考え方 が欠落してるんじゃん。




****************************

嗚呼、今年最後のエントリーだというのに、
ネガティブな話になってしまった。


とにかく、読者諸兄も良い年をお迎え下さい。

寄せてくださったコメの大半には、年明け・・・しかも、1月中旬???(苦笑)


応対しますね^^;

まあ・・・
あの・・・
古参の読者の方々はわかるんですが・・・
1月上旬は・・・ね^^;

まあ・・・アレですから。
Posted at 2012/12/31 02:01:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 反即だ! | 日記
2012年12月30日 イイね!

【武田&副島】猛走峠の補足等【喧嘩対談の意味】

この記事は、【武田&副島】猛走峠さんがえぐり出した原発事故の本質【喧嘩対談の意味】について書いています。

↑お褒めに預かりまして、光栄です。

いや、マジで。


************************

私なりに、再要約すると

副島先生は経済学者として、
日本は全体として安全であるから、復活するんだ、 という経済的事実を
原発の目の前で立つことによって世界に発信したんです。

一方、
武田教授はもと核技術者として、
安全衛生の考えと法治の考え
そして科学者の良心を世界に発信したんです。

お二人共世界を見据えたんですね。

*************************

■このあたりを猛走峠は気づきながら、ちょこばさんの
エントリーをベースにしなきゃ、整理できなかった。
とんだ筆不精です。

**********************

■法律の恣意性 や 統計の真実性 は昨日書かせて頂きました。


(ちょこばさんに寄せられた)
ユーリックさんのコメント

数学は2であり
統計はほぼ2であり
会計はいくつにしましょうか



私、猛走峠も気づいてはおりましたが


武田教授も副島先生も統計はほぼ2であることを気づいた上で


武田教授は科学者として、2を主張し
また、
技術者として、
現代の法の考え方と、
それに基づいた、
現代の会計の「許容範囲(コンプライアンス・良心)」
2は、許容範囲外。
せいぜい1か、0になるよう、対策を発動してみせるべき、ことを発信した。



一方の副島先生は、経済学者として、
最悪でも2、自分の身体なら0だ、と主張し、

あとは、
事象全体が、確率の問題にすぎなくなる、
東日本全体が壊滅するワケではなくなった、
ということを自らの体で実証した。
(福一正門に立ってみせた)

つまり
「こんなものは、
100年前や200年前の法の考え方なら、
会計上0として処理してきた!」
  と大見得をあの時点で切ってみせた。


**********************


でも↑この考え方は、
弘(2型)さんの言う通りで人倫に反してるかな?


現在の人倫に反してる事くらいは分かってます。




被害者や被災者に、
「大丈夫。あなたは運が悪かっただけだ。全体としては、安全だから」って言えるってことでしょうか。

とても言えませんからね。



でも、

昔(前近代)の人は、

その犠牲者の当人となったとき

運命 としてこれを受け入れ、

また、社会全体としても、 運命 として、そのことを許容していた、と思うのです
(妄想。だけど、そうでしょ。これ)。

ダテに、
「運が悪かった」という言葉があるワケではないんですよね(妄想的な考察)。




近代でも、

イギリスの産業革命期とか、

排煙も、触媒無しで排出し放題。

有害物質も、垂れ流し放題。

もちろん、街は真っ黒け。

公害病だって、出たでしょ。


でも、
「全体としては、安全」でやってきた。


これ↑は、
現代の人倫に反しています。

主要国の法律も、今は、このやり方を許容していません。


「人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然」

と考えられています。



しかしながら、

「人は誰しも―――」
って、たいていの人が考える・言うようになったこと自体、

その歴史は驚くほど浅いってことですよ。




あんまり表記したくないんですけどね・・・
「間引き」やってた時代も、あるでしょ。


そして・・・
原子力でも・・・アメリカなんて・・・
つい30年くらい前までは、 黒人には線量制限がありませんでした(←根拠:蓮池透(元原発運転員)さんの話)。





https://minkara.carview.co.jp/userid/1345735/blog/28741705/
終結宣言 が出ているので、トラバはしません^^; m(_ _)m



被害者や被災者に、
「大丈夫。全体としては、安全だから。」
と言えないのは、
”現代だから”ではなく
”血の通った人だから” です。




「人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然」なのは
”人間の安全保障とかいったような名称・概念”ではなく
”人としてデフォ(初期値)"です。






と、ワタクシはお叱り? (苦笑)を受けてしまいましたが、





「人は誰しも―――」
って、たいていの人が考える・言うようになったこと自体、

その歴史は驚くほど浅いってことです。



人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。


これ↑は、【恣意】なんです。
これ↑の下↓に、

言論がなされ、
  思考が展開され、
   法律が作られ、
      操業がなされているし、
エラい何かの判断基盤になっているけれども、

私も、その考え方に立っているけれども、

それは、信念? 思想? 信条? 愛(情)? そういったものであって、 

やっぱり、【恣意】なんです。



**********************


で・・・また、あの話に戻ります



例えば、

大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・



「安全」or「危険」の検討の結果:

「安全」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講じなくてよい場合 になってしまう。





わかりにくいですなぁ・・・


要するに、



例えば、 ↓法律が守れなくなった場合

大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・




そう。ひらたく言えば、


 (現代の、)法律が守れなくなった場合


⇒どうするの?


⇒パターン1:従来の、法律の範囲内に戻るようにする
(非常事態から抜け出して、防護策・回復策を実行する)




⇒パターン2:別に^^;
(特に何もしない。)


(↑これを、「その場合、日本は、汚れた国になる。」と武田教授は表現してた。今になってやっと、深くまで意味がわかった。)







バカ言うなや!

パターン1に決まっとるやんけ―――




トーゼン。



でも、どーなの?







ホントにホントに、
「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆  と  巨大隕石  くらいしか、    地球上に、存在してない  

んでしょ?


(まあ、異論はありますけどね。)



水爆  と  巨大隕石  以外は、

如何なる事象が発生しても、

「全体としては、安全」でしょ。

(まあ、異論はありますけど。
そのへんは、年明け・・・1月中ごろ?に、また、書きますかね)




100年、200年前は、それでやってきたんでしょ^^;


今は、

人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。

と、みんな考えてる。

でも、
これ↑は、【恣意】なんです。
これ↑の下↓に、

言論がなされ、
  思考が展開され、
   法律が作られ、
      操業がなされているし、
エラい何かの判断基盤になっているけれども、

私も、その考え方に立っているけれども、




100年、200年前は、 違った考え方でやってきた んでしょ。


それでも、 「全体としては、安全」 だったんでしょ。




⇒パターン2:別に^^;
(特に何もしない。)






と、そういうことになるワケで。

ってか、相当程度、なったワケで。




大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・

「安全」or「危険」に主眼を置いて検討することは、

「やっちゃいけないことかもしれない」と。


そういうことです。




このくらい、繰り返して書くと、たいていの方に伝わったのではないかな、とね。
今日は、このへんで筆を置きます。
Posted at 2012/12/30 04:46:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 反即だ! | 日記
2012年12月29日 イイね!

【多くの何かの判断基盤】の変化と、必ずしも「愛が勝つ」とは限らない件について。【恣意】だから。

【多くの何かの判断基盤】の変化と、必ずしも「愛が勝つ」とは限らない件について。【恣意】だから。この記事は、やっぱり解らん。について書いています。


統計的に「全体的に、非常に危険」が「水爆と隕石(デカいヤツ)」ぐらいしか無いのなら、
「全体としては、安全」になんか意味があるんだろうか?
まあ、なんかはあるんだろうけど、そんなに全面に推すことなのか?
てかぶっちゃけそんな事みんな知ってないか?


確かに"ひとつ"の統計的真実だけど、それだけがあれば
他にも数多ある”何とか的真実”はどうでもよいのか?
統計的真実だけが唯一の真理で、他の”何とか的真実"は嘘っぱちかもしくは顧みるまでの価値は無いということか?


または
「全体としては、安全」がエラい何かの判断基盤になるから大事なのか?





例えば、大規模環境汚染事故(事件)が起こったとき、

「安全か?」「危険か?」に 主眼を置いて検討 すると、


「全体としては、安全」がエラい何かの判断基盤になってしまうから

大規模環境汚染事故(事件)が起こったとき、
「安全か?」「危険か?」に 主眼を置いて検討 することは、

「すべきでない」「やっちゃいけないこと」 と評しています。




でも「全体的に、非常に危険」が「水爆と隕石(デカいヤツ)」ぐらいしか無いのなら、
「全体としては、安全」を多くの何かの判断基盤に用いる事自体が間違ってないか?




「全体としては、安全」を多くの何かの判断基盤に用いる事につながるから、


例えば、大規模環境汚染事故(事件)が起こったとき、
「安全か?」「危険か?」に 主眼を置いて検討 することが、ダメなのです。

「全体的に、非常に危険」なんて、「水爆と隕石(デカいヤツ)」ぐらいしか無いから。







単なる建前になればそれでいいのか?

法的にダメって書いてないからいいのか?


↑現代では、
法的に ダメ って書いてあります!!



例えば、


「人の健康に係る公害犯罪の処罰に関する法律」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%81%A5%E5%BA%B7%E3%81%AB%E4%BF%82%E3%82%8B%E5%85%AC%E5%AE%B3%E7%8A%AF%E7%BD%AA%E3%81%AE%E5%87%A6%E7%BD%B0%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B

1 工場又は事業場における事業活動に伴つて人の健康を害する物質(身体に蓄積した場合に人の健康を害することとなる物質を含む。以下同じ。)を

排出し、
公衆の生命又は身体に 危険を生じさせた者は、

3年以下の懲役又は300万円以下の罰金に処する。

2 前項の罪を犯し、よつて
人を死傷させた者は、7年以下の懲役又は500万円以下の罰金に処する。

と書いてあります。

「公衆の 全体に 危険を生じさせた者は、」などとは、どこにも書いてありません!!
現代では、法的に ダメ って書いてあります!!




また、

工場又は事業場における事業活動に伴つて人の健康を害する物質の排出があって、それで被害が発生した、という事象があった場合、
排出者は、それに応じた「責任」を取らなければならない。
刑事、民事、行政の「責任」を取らなければならない。

責任者は、
■刑事責任 を負わなくてはならない。

事業者は、
■民事責任 を負わなくてはならない。

責任者と事業者の資格(・免許)には、事故拡大防止義務や救護義務が課されているから、それが尽くされない場合には、免停や資格停止、はく奪という、
■ 行政責任 を負わねばならない。


「全体としては、安全」は、
現代では、 エラい何かの判断基盤には、 用いられていない のです。



しかし、
近代(19世紀)では、
「水銀中毒(水俣病)も、全体としては、安全である」なノリで、やってきましたね。
用いられてたでしょ。

イギリスの産業革命期とか。
排煙も、触媒無しで排出し放題。 有害物質も、垂れ流し放題。もちろん、街は真っ黒け。
公害病だって、出たでしょ。

でも、
マンチェスターが壊滅したのか?リヴァプールが壊滅したのか?
といえば、それは違うワケで。
一部の個体が、「発症」した。

19世紀(近代)なんて、
「水銀中毒(水俣病)も、全体としては、安全である」なノリで、やってきた。
「全体としては、安全」でやってきた。



でも、現代では、↑これは、
法的に ダメ って書いてあります。


現代では、
「全体としては、安全」は、多くの何かの判断基盤に 用いられていません!!



でも、

近代(19世紀)は、

「全体としては、安全」を、多くの何かの判断基盤に 用いていたでしょ。

前近代は
「全体としては、安全」を、
運命 と呼んで受け入れ、
また、社会全体としても、 運命 と呼んで、
多くの何かの判断基盤に 用いていたでしょ。


でも、
現代では、用いられていません。


  人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。

という 信念? 思想? 信条? の下に、

言論がなされ、
思考が展開され、
法律が作られ、
操業がなされている、のですね。



現代では、
 人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然
とされていますね。
それ↑が、判断基盤として用いられていますね。

これに異議を唱えるつもりもない。



但し、
「全体的に、非常に危険」が「水爆と隕石(デカいヤツ)」ぐらいしか無い
という
「(統計的)真実」が 当然、存在しているのです。



↑こういうのを、ちょこばさんの言葉で言わせると、

【統計は「ほぼ絶対」である】【法律は恣意である】となりますか。


【統計は「ほぼ絶対」である】
「(統計的)真実」
「全体的に、非常に危険」が「水爆と隕石(デカいヤツ)」ぐらいしか無い


【法律は恣意である】
現代では、
  人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。
という 信念? 思想? 信条? の下に、
言論がなされ、
思考が展開され、
法律が作られ、
操業がなされている、のですね。




しかしながら、

例えば、大規模環境汚染事故(事件)が起こったとき、

「安全か?」「危険か?」に 主眼を置いて検討 すると、

統計的に「全体的に、非常に危険」が「水爆と隕石(デカいヤツ)」ぐらいしか無い

という 真実 が頭をもたげてきます。



【統計は「ほぼ絶対」】「(統計的)真実」なのです。
一方、
【法律は恣意】なのです。

この↑2つを、戦わせると、真実が勝ち、恣意は負けるでしょ。


  人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。

       ↑これは、【人間の安全保障】とかいう考え方ですが、
それって、現代人なりの、愛情ですかね?

愛は勝つ♪ とかいう歌があった気がしますけど、
これが、愛だとするなら、愛は負けるでしょうね。
しょせんが、【恣意】だから。




人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。


これ↑は、【恣意】なんです。
これ↑の下↓に、

言論がなされ、
  思考が展開され、
   法律が作られ、
      操業がなされているし、
エラい何かの判断基盤になっているけれども、

【恣意】なんです。





例えば、大規模環境汚染事故(事件)が起こったとき、

「安全か?」「危険か?」に 主眼を置いて検討 することは、

「やっちゃいけないこと」 なのではないか、ってことです。

(ここまで、同じような内容の繰り返し)



すると、
例えば、大規模環境汚染事故(事件)が起こったとき、

安全か? 危険か? という検討を回避しつつ、

防護措置はどうあるべきか、

何を執行するか?

どのような強度で実行するのか?




を判断するための実務指針が必要となる、



無い場合・未完成の場合、

出来るだけ具体的に、

問題となる脅威を洗い出していき、

それから如何にして防護するか、防護策を執行するか、

ということが大切となる ってことです。





例えば、
原子力では大事故が起きたとして、

取り敢えず、入り口として、

レベル7が、・・・

あ、言っちゃった。




この↑話のゆきつくところは・・・


ちょこばブログの・・・



■ゆーりっくさんのコメントにうなった私。
うん、本当に凄い!!!!!

>世界を変えた手紙――パスカル、フェルマーと〈確率〉の誕生
ですね、ギャンブルの運用による、未来予測という新しい概念に端を発した確率論から、統計学の系譜の、社会学への運用は、
アメリカンジョーク集の中の、一つにまとめを見る事が出来るように思います。

面接官が1たす1を訪ねると、
1)数学者の答えは、きっかり2
2)統計学者の答えは、誤差の許す範囲内でおおよそ2

3)会計士の答えは、
面接官をカーテンの裏に連れ出し、
で、いくつにしたいんです?



な話に近い性質なのか・・・どうか・・・^^;
Posted at 2012/12/29 05:29:21 | コメント(1) | トラックバック(1) | 反即だ! | 日記
2012年12月28日 イイね!

いわゆる、【人間の安全保障】論 ←「思想・信条(心情?)」ではあるけど、「真実」ではない模様。

いわゆる、【人間の安全保障】論 ←「思想・信条(心情?)」ではあるけど、「真実」ではない模様。「人類最後の日の空。

あー、あと少しであそこに行けるのね〜。

早く隕石落ちてこねーかな。

はよ死なせろよ、神。







どい様m(_ _)m

画像と文章を頂戴しまして、誠に誠に
ありがとうございますm(_ _)m


ま、でもですねぇ~~
隕石のレベルだと、

隕石が、
どい様の家に落ちるとか、

例えば、
どい様の家の前の、道とか塀とかガレージに激突とか・・・、あ、いや、失礼。


とにかく、
比較的、近くに落ちないと、

もうすぐ あそこ には 逝けない  と思うんですわ。

隕石が、
地球の反対側のマヤの遺跡あたりに落ちちゃうと、

塵が地球を覆って―――、

農業が壊滅し―――、

かつてないほどの冬、
かつてないほどの食糧難が延々続き―――

―――滅亡まで、今しばらくの時間を要した、


どい様も、
ワタシも、
爆死じゃなくて、
餓死になった可能性が高い、と思うんですわ(苦笑)。




ラーメン星・・・じゃなかった、

 ラーメタル星
 
(↑直径は地球の9倍。109404km)

がキュボーンって衝突して、

地球が バカっ♪ って割れちゃうくらいでないと、


ただちに は、

あそこへ は 逝けない
と思うんですわ。




ま、それでも、

人類全体として、滅亡の危機となる、

全体として、危険

であることは変わりない、

ですわな(苦笑)。








いろいろ考えると―――ですねぇ―――



「全体として、安全とは言えない事例」

「全体的に、非常に危険な事例」 というのは、



水爆  と  巨大隕石  くらいしかない。
 ようです(苦笑)。



■水俣病も 統計学的には安全

■イタイイタイ病も 統計学的には安全

■煤煙による喘息等も、 統計学的には安全

■自動車は事故を起こしてしばしば死に至らしめる。
でも、「全体としては 安全」

街中で、半端ない暴走運転をする暴走族が、多数いる国でさえ、
全体としては、充分、安全

■小学校で、銃を乱射してたくさんの人が死んでも
全体から見たら、安全。

■地下鉄サリン事件も。(書き加えた)

■関東大震災も。

■東日本大震災も。

■戦争だって

■原爆だって
広島型や長崎型くらいまでは・・・




「全体として、安全とは言えない事例」

「全体的に、非常に危険な事例」 というのは、



水爆  と  巨大隕石  くらいしかない ようなのです。
 





これが、(統計の)真実 であるようなのですね。







**********




つまり、 


「真実」としては、

「全体的に、非常に危険な事象」 というのは


水爆  と  巨大隕石  くらいしか、存在しないようである、と。






↑でも、
この  「真実」 が、社会的に受け入れられるのか?
   といえば、


今現在、それ は ダメ でしょ?


倫理的に受け入れ可能なのか?

 ダメ でしょ?





現在、
法的に、そういうことでやっているのか?



違う でしょ?




被害者や被災者に、
「大丈夫。あなたは運が悪かっただけだ。全体としては、安全だから」って言えるってことでしょうか。

とても言えませんよね。






以下の記事は、

「人は数字では無い。」
■水俣病も 統計学的には安全
■イタイイタイ病も 統計学的には安全
■煤煙による喘息等も、 統計学的には安全
■自動車は事故を起こしてしばしば死に至らしめる。
でも、「全体としては 安全」

街中で、半端ない暴走運転をする暴走族が、多数いる国でさえ、
全体としては、充分、安全

■小学校で、銃を乱射してたくさんの人が死んでも
全体から見たら、安全。
■地下鉄サリン事件も。(書き加えた)
■関東大震災も。
■東日本大震災も。
■戦争だって
■原爆だって
広島型や長崎型くらいまでは・・・

(↑に関して、)たしかに事実の「ひとつの側面」として間違ってはいないと思います。

しかし、実際の被害や被災の対策を講ずる場合に「全体としては、安全」にどれ程の意味があるのでしょうか。


母数を全体にすると確かに被害は少なく「見えます」。
しかし、実際に何かしらの措置が必要なのは被害や被災にあった側なのだから、
母数=被害(被災)としなければ意味が無いです。
だって本当に何が必要かを知っているのは被害者や被災者だけなのだから。


人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。

人は法を守る為に生きているのではなく、
人が生きる為に法が必要なのです。


国民は国の資源では無いし、人は単なる社会の資源ではありません。
まして人の本質は数字などでは決して無いです。


今回の震災でも沢山の人が死にました。
そしてこれからも何年、何十年もかけてまだ増えます。
それも全体から見ればほんの僅かな数でしょう。
だけど

そんなふうに被害を見る事になんの意味があるのか

自分には解りません。
数億の中のたった一人でも、その人にとってはそれが全てです。
だって死んでしまったらもう何も出来ないのですから。
自分の人生を守る事も、大切な人を守る事も。
 について書いています。








被害者や被災者に、
「大丈夫。あなたは運が悪かっただけだ。全体としては、安全だから」

って言えるってことでしょうか?


⇒ 現代では、言えませんよね。




昔は・・・前近代は・・・、
そうやって考えてきた――― と思うのです(妄想。)

被害や被災を、「運命」として受け入れてきた と思うのです(妄想。)


昔の人は、

その犠牲者の当人となったとき

運命 としてこれを受け入れ、

また、社会全体としても、 運命 として、そのことを許容していた、と思うのです(妄想)。

ダテに、
「運が悪かった」という言葉があるワケではないんですよね(妄想的な考察)。



でも、現代では、違うのです。







近代でも

19世紀なんて、
「水銀中毒(水俣病)も、全体としては、安全である」
 なノリで、やってきたでしょ^^;


イギリスの産業革命期とか、

排煙も、触媒無しで排出し放題。

有害物質も、垂れ流し放題。

もちろん、街は真っ黒け。

公害病だって、出たでしょ。


でも、

マンチェスターが壊滅したのか?
リヴァプールが壊滅したのか?

といえば、それは違うワケで。
一部の個体が、「発症」したワケですね。


近代でも、
「全体としては、安全」でやってきた

 と言って、概ね 間違いない でしょうね。



だって、

「真実」としては、

「全体的に、非常に危険な事象」 というのは


水爆  と  巨大隕石  くらいしか、存在しない
 んですからね。







じゃあ、
現代で、↑これが通るか?
 って話なんですけどね。

この 真実 とやらが。通るのか?



有害物質も、垂れ流し放題 ←犯罪指定されてますね。

排煙も、触媒無しで排出し放題 ←車両規則等によって禁止されてますね。

公害病だって、出たでしょ ←傷害の発生だ! 不法行為だ! 排出者は犯罪者だ!





でも、↑これは、「ごく、一部の事象」です。

「全体としては、安全」なんです。


「真実」としては、

「全体的に、非常に危険な事象」 というのは


水爆  と  巨大隕石  くらいしか、存在しない んですから。






「全体としては、安全」にも関わらず、

危険認定し、

規制だ、処罰だ、

防護だ、救済だ、賠償だ、


としている
ワケですね。

現代では。






「全体としては、安全」 にも関わらず、


  人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。


という 



信念? 思想? 信条? の下に、


言論がなされ、
思考が展開され、
法律が作られ、
操業がなされている、らしい
のですね。


勿論、自分も、こう↓思っていますよ。



人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。と。



勿論、自分も、↑こう思っていますよ。もちろん。

ちなみに、この、一般的な考え方は、

「人間の安全保障」 とかいったような名称・概念だと思います。


日本も、
アメリカも、
イギリスも、
フランスも、
ドイツも、
中国は・・・ビミョーか^^;法律上は、まあ、違いますな。
中国人の思考とか操業形式は・・・アレみたいだけど^^;





取り敢えず、

20世紀後半期以降、

現代では、


人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。

とか、


「「その、悲惨な1人を出さないために!」という思想」


の下に、

言論がなされ、
思考が展開され、
法律が作られ、
操業がなされている、らしいと、いうことです。





勿論、自分も、そう思っていますよ。信じてますよ。

「人間の安全保障」の考え方の、「信者」なんでしょうね^^;








しかし、ワタシは・・・


自分が採用している説・信じている説は、


どういう条件において、倒れるか?


ということを考えるのも、けっこう好き なんですね。










人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然

「「その、悲惨な1人を出さないために!」という思想」


「人間の安全保障」の考え方





これが、どういう条件で倒れるか?





「全体的に、非常に危険な事象」 というのは


水爆  と  巨大隕石  くらいしか、存在しない 


という 真実が、

首をもたげた とき 
(頭をもたげた)



倒れる のです。


統計学や自然科学の数値を出されると、
それはどうも、敗れ去る、ようなのです。

「全体としては、安全」 という答えが出るのです。





水爆  と  巨大隕石  以外は、

「全体としては、安全」 という答えが出る(笑)ようなのです。






だから、私は、



現代法の下での世界に於いて、

例えば、大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、





「防護手段はどう採るか?」という  「手段」のみを検討すべき、であり・・・





「安全か?」「危険か?」という議論は、

現代法の立場では、 「やっちゃいけないこと」だったかもしれない。





と書いてきたのです^^;





統計学や自然科学の数値を出されると、
それはどうも、敗れ去る、ようなのです。

「全体としては、安全」 という答えが出る、






「全体的に、非常に危険な事象」 というのは


水爆  と  巨大隕石  くらいしか、存在してない ようだ、


という 真実が、

ヌッ と 頭をもたげてくるから
  です。








20世紀後半期以降、

現代では、



  人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っている

と、考えられています ね。



  それを守るのは当然です


と、考えられています ね。

私も、そう考えていますよ。



でもそれは

 そのように、 考えられている

 そのように、 思っている


という思想・信条(心情)である、ようなのです。


つまり、「科学的真実」とか、「真実」ではないようなのです。



だから、

例えば、大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・


「防護手段はどう採るか?」という  「手段」のみを検討すべき、であり・・・

(繰り返し。)



**********


追加: ↑ここまで語ると、トラバ元の、こぺてりあ さんには、題意が伝わりまくった^^; と思うのです。









例えば、

大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・


「防護手段はどう採るか?」という  「手段」のみを検討(すべき)

⇒即決:実際の被害や被災の対策を講ずる場合



私(猛走峠)が言っていること。

「すべきでない」「やっちゃいけないこと」と評していること。




例えば、

大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・




「安全か?」「危険か?」に主眼を置いて検討



「危険」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講ずる場合

「安全」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講じなくてよい場合


必ずと言ってよいほど、「安全」の答えが出る。
謀略とか、隠蔽とか、そんなんじゃなくて、


ホントにホントに、
「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆  と  巨大隕石  くらいしか、    地球上に、存在してない   から。


という 真実が、ヌッ と 頭をもたげてくる。



「安全」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講じなくてよい場合







「人は数字では無い。」

実際の被害や被災の対策を講ずる場合に


「全体としては、安全」にどれ程の

意味があるのでしょうか。



実際の被害や被災の対策を講じなくてよい

 という答えを導く

 効果 があると思いますね。




実際の被害や被災の対策を講ずる講じなくてよい場合








これは↓20世紀後半期になって、共通化した【人間の安全保障の考え方】です。

母数を全体にすると確かに被害は少なく「見えます」。
しかし、実際に何かしらの措置が必要なのは被害や被災にあった側なのだから、
母数=被害(被災)としなければ意味が無いです。
だって本当に何が必要かを知っているのは被害者や被災者だけなのだから。




人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。



【人間の安全保障の考え方】↑ですね。





人は法を守る為に生きているのではなく、
人が生きる為に法が必要なのです。


国民は国の資源では無いし、人は単なる社会の資源ではありません。
まして人の本質は数字などでは決して無いです。


今回の震災でも沢山の人が死にました。
そしてこれからも何年、何十年もかけてまだ増えます。
それも全体から見ればほんの僅かな数でしょう。
だけど

そんなふうに被害を見る事になんの意味があるのか

自分には解りません。





↑20世紀後半期になって、共通化した【人間の安全保障の考え方】(現在の、常識?か)

を基礎にして考えているから

わからない のです。




数億の中のたった一人でも、その人にとってはそれが全てです。
だって死んでしまったらもう何も出来ないのですから。
自分の人生を守る事も、大切な人を守る事も。
 



ま、↑このへんの考え方だの、スローガンだのは、


そう遠くないうちに、国連あたりで表現され始めるでしょうね^^;

「人間の安全保障」とかと同じようなカンジで・・・

そうだな・・・

「他人の子供でも、 自分の子供と同等に考えた 防護政策を」とか、そういう趣旨かと思います。




**********



私の論述を、こぺてりあさんの文章も使って、まとめると・・・


例えば、

大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・


「安全か?」「危険か?」に主眼を置いて検討



「危険」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講ずる場合

「安全」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講じなくてよい場合


必ずと言ってよいほど、「安全」の答えが出る。

ホントにホントに、
「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆  と  巨大隕石  くらいしか、    地球上に、存在してない
   から。


 真実↑ 


「安全」or「危険」の検討の結果:

「安全」: ⇒■実際の被害や被災の対策を講じなくてよい場合








「人は数字では無い。」

たしかに事実の「ひとつの側面」として間違ってはいないと思います。



そりゃ――、

「全体的に、非常に危険な事象」 というのは
水爆  と  巨大隕石  くらいしか、    地球上に、存在してない

という、真実? があるでしょうからね。





しかし、実際の被害や被災の対策を講じなくてよい場合講ずる場合に「全体としては、安全」にどれ程の意味があるのでしょうか。


母数を全体にすると確かに被害は少なく「見えます」。
しかし、実際に何かしらの措置が必要なのは被害や被災にあった側なのだから、
母数=被害(被災)としなければ意味が無いです。
だって本当に何が必要かを知っているのは被害者や被災者だけなのだから。


人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然です。

人は法を守る為に生きているのではなく、
人が生きる為に法が必要なのです。


国民は国の資源では無いし、人は単なる社会の資源ではありません。
まして人の本質は数字などでは決して無いです。


今回の震災でも沢山の人が死にました。
そしてこれからも何年、何十年もかけてまだ増えます。
それも全体から見ればほんの僅かな数でしょう。
だけど

そんなふうに被害を見る事になんの意味があるのか

自分には解りません。
数億の中のたった一人でも、その人にとってはそれが全てです。
だって死んでしまったらもう何も出来ないのですから。
自分の人生を守る事も、大切な人を守る事も。








これが、


大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、など・・・


「安全か?」「危険か?」に主眼を置いて検討

することの、

「効果」だと思います。


だから、ワタシは、

(かくいうワタシが、
「人は誰しも安全に健康的に生きる権利を持っているし、それを守るのは当然」という、
【人間の安全保障の考え方】に立脚しているから)

「すべきでない」「やっちゃいけないこと」と評しています。





カッコよく言うと?(カッコつけてる場合ではない)

『真実』は、『思想・信条(心情)』を破ってしまう  から。
Posted at 2012/12/28 04:31:33 | コメント(2) | トラックバック(0) | 反即だ! | 日記
2012年12月27日 イイね!

結局は、「リスク」と「デインジャー」の話。 Part・・・忘れた(笑)

結局は、「リスク」と「デインジャー」の話。 Part・・・忘れた(笑)この記事は、


私には、まったくもって理解できませんでした。

この方のブログには、何が書いてあるのでしょうねぇ?

だったら絡まなければいいのに、怖いもの見たさで、、、。



公害でも、放射能でも、同じ場所で生活していても
被害を受ける人と受けない人がいる、、、そうです。

たとえば、5%の人が被害を受けて
95%の人が、被害無しなら、、

それは「安全」だということ?
  


いやー、もっと賢くなりたいと思う今日この頃。


もしかして、私は大恥をさらしているのかもしれません。
そのときは、このブログは削除します。(もし、見てくれた人がいたらご了承くだされ)





私には、、不可解である。


この記事は、現代において、「危険認定」されている事象の大半が、「全体としては、安全」。について書いています。

不可解の理由は、私に教養がないことであろう。

原発事故を統計学で処理しようとしているのか、、、、、、、?

それとも、原発普及の、、、プロパガンダなのだろうか?
とすれば、当該ブログはアジテーションなの?


自動車は事故を起こしてしばしば死に至らしめる
飛行機はたまーに落ちて、乗員は死亡する

それは確率として避けられないこと。

だからといって、自動車や飛行機をゼロにするという運動はおこらない。

えっ?

原発も

同じ論理なんですか?

イタイイタイ病も
水俣病も
煤煙による喘息等も、

統計学的には安全であるということ?


じゃぁさぁ、戦争だって、原発ではなく原爆だって
「あんぜん」なんだろうか?




あーーーーーーーー不可解

頭が悪いということはいかんともしがたい。



理解できないバカ丸出しパートⅡです
大恥をかいた後は、削除することもあります。
について書いています。




いや、風さまは、
バカなんじゃなくて、まともなんです(笑)。

風さまの「お考え?」・「感情?」・「感性?」が、
まとも なんです(笑)。


  まともだから、理解できない  のです。

だって、
20世紀後半期~2012年現在 は、「その↑考え方」ですもん。


たぶん、すごーく、イライラしておられるかもしれません。
ハラワタ煮えくり返っておられるかもしれません。
(1年くらい前の私が、そういう感性でしたから^^;)

だって、
「水俣病も、全体としては、安全である」なんて、

今現在(かなり前から。20世紀後半期~2012年現在)、
そんな話、社会的・倫理的に、通用しないじゃないですか。


でも、イギリスの産業革命期(近代)とか、
19世紀なんて、
「水銀中毒(水俣病)も、全体としては、安全である」
 なノリで、やってきたでしょ^^;


排煙も、触媒無しで排出し放題。

有害物質も、垂れ流し放題。

もちろん、街は真っ黒け。

公害病だって、出たでしょ。


でも、

じゃあ、

マンチェスターが壊滅したのか?
リヴァプールが壊滅したのか?

といえば、それは違うワケで。
一部の個体が、「発症」したワケですね。



「公害でも、放射能でも、同じ場所で生活していても
被害を受ける人と受けない人がいる、、、そうです。

たとえば、5%の人が被害を受けて
95%の人が、被害無しなら、、

それは「安全」だということ?」


19世紀は、そういう考え方でやってきたでしょ(苦笑)。




すなわち、
「(発症しない個体の方が多いので、)
全体としては、安全である。」


↑ 近代(・19世紀)なんて、
↑この考え方でやってきたでしょ。


こんなん、 まともな考え方なワケないでしょ^^;




現代(20世紀後半~21世紀初頭)の価値観では、

ありえん!! 
って怒り出すような考え方ですよ。




だから、

今、生きてる世代で、

特に日本人で、 そんな考え方を理解できる  という方が異常だと思います。

風さまがまともだから、理解できない  のです(笑)。






じゃあ、ここまで来たら、

もう、徹底的に~~書いちゃいましょう(笑)。





■飛行機はたまーに落ちて、乗員は死亡する 


はい。
でも、統計上の発生率としては、全体としては超安全ですね。







■水俣病も 統計学的には安全であるということ?


はい。
「全体としては 安全」 です。

 水俣市が壊滅した訳じゃありません。
(このへんは、判例みたことある方、多数いるかと思いますが、
「認定」されていたのは、数十人、数百人(+数匹)のレベルでした)





■イタイイタイ病も 統計学的には安全であるということ?


はい。
「全体としては 安全」 です。







■煤煙による喘息等も、 統計学的には安全であるということ?


はい。
「全体としては 安全」 です。

例えば、四日市市が壊滅したワケじゃありません。






■自動車は事故を起こしてしばしば死に至らしめる


はい。
でも、「全体としては 安全」ですね。




それどころか、
街中で、半端ない暴走運転をする暴走族が、多数いる国
(サウジアラビア)でさえ、


人身事故発生件数は、

人口10万人当たり、1,305件 ですので、

全体としては、充分、安全 です。





■小学校で、銃を乱射してたくさんの人が死んでも
全体から見たら、安全?なのでしょうか?



「全体から見たら、安全」の代表的事例でしょうね。




■関東大震災は、全体からみたら、安全?


ですね。




■東日本大震災では、2万人ほどの人が、亡くなりましたが、それも・・・


勿論。 全体としては、安全 です。
日本は、安全な国 です。




じゃぁさぁ、
■戦争だって、 「あんぜん」なんだろうか?


もちろん。
「全体としては、安全」 に決まってるじゃないですか。


それどころか、
戦争の域を踏み外して、「虐殺」だって、なかなか「滅びる」までは難しいようですよ。






■原爆だって 「あんぜん」なんだろうか?!


ええ。

少なくとも、
広島型や長崎型までは、ね。


広島市は、壊滅的打撃を受けました。
でも、広島県全体としては、どうです?


長崎市は、壊滅的打撃を受けました。
でも、長崎県全体としては、どうです?


少なくとも、
広島型や長崎型までは、↑こういうカンジなので、
「全体としては、あんぜん」でしょうね。


勿論、恫喝力としては、とんでもないものでしたが。

広島型や長崎型くらいまでは、「全体としては、安全」の範疇でしょうね。









ただし、

現在の、

水爆 は、「全体として安全」とは言えません。

爆殺力が・・・





それと、

隕石。








統計的に考えると、

どうも、


「全体として、安全とは言えない事例」
「全体的に、非常に危険」 というのは、



水爆  と  隕石(デカいヤツ)  くらいしかない かもしれません。








これが、

統計の真実?


のようなのですね。







**********


しかし、 ↑この 真実? が、



社会的に受け入れられるのか?

といえば、今現在、それは ダメ だし、


倫理的に受け入れ可能なのか?

といえば、それは ダメ だと思うのです。






被害者や被災者に、
「大丈夫。あなたは運が悪かっただけだ。全体としては、安全だから」って言えるってことでしょうか。

自分にはとても言えませんね。


学校で自分の子がイジメられても、
「他の大半の子はイジメられてないから大丈夫」って言えるってことでしょうか。

もちろん、
自分には、絶対に言えませんね。







統計的真実 が、



社会的に受け入れ可能なのか?

といえば、今現在、それは ダメ だし、


倫理的に受け入れ可能なのか?

といえば、それは ダメ だし、


ましては、当事者の目線・立場で、受け入れることは、

現在の価値観では、ありえんと思うのです。


**********



しかしながら、

「現在、危険認定されている事象」であっても、

「統計的真実」としては、
「全体として、安全」という事実(真実)は、存在しているから、

これがタチが悪いのです。




例えば、

「深刻な」環境汚染事故が起こったとき。




「ただちに被害軽減策を執らねばならない!!」
ハズです。


もちろん。





ところが、 

「統計的真実」として、



 現代において、「危険認定」されている事象の大半が、「全体としては、安全」ですので、




「その事故の結果が、
安全か? 危険か?」ということを検討すると、
「全体としては安全」
≒「安全」という答えが出てしまうのです。


すると、

まず、懸念されることは、

「ただちに被害軽減策を執らねばならない!!」のだけれども、


(極端に言えば)↑
     それは、要らなくなってしまう のです^^;

「全体としては安全」だから^^;



この「真実?」に、「悪乗り」すれば、


「あー、今後は、有害物質も捨て放題だよね―――」なんてことも出来るのです。



だから、



現代法の下での世界に於いて、

例えば、大規模環境汚染事故(事件)が起こった場合、
「安全か?」「危険か?」という議論は、
現代法の立場では、 「やっちゃいけないこと」かもしれない


ってことです。



現代法の、思想基盤そのものが、破綻するから。


これについて、
香川さんが、うまくコメを書いて下さったようですm(_ _)m


**********




香川英行

2012/12/26 22:16:13

> 公害でも、放射能でも、同じ場所で生活していても
> 被害を受ける人と受けない人がいる、、、そうです。

> たとえば、5%の人が被害を受けて
> 95%の人が、被害無しなら、、

> それは「安全」だということ?

社会 【全体】 としては「安全」であったとするということだと思います
言い換えれば、タテマエとして「安全」と言っているだけ
不幸の宝くじを引いた人は最悪の場合、社会全体の利益として切り捨てられるかもしれません
不幸の宝くじを引いた人からすれば、たまったものではないと思います

ちょこばさんは、この不幸の宝くじを本当に引いてしまった人を助けるためには、
当たってもいないのに当たったと言い張る「ゴネ屋さん」たちは邪魔であるというスタンスが強い
猛走峠さんや私は、この不幸の宝くじを当てる人を少しでも減らすために何とかしようというスタンスが強いと思っています




そう。

現代の、法律だの、社会的な考え方は、





「不幸の宝くじを引いた人からすれば、たまったものではない ので、

不幸の宝くじを当てる人を少しでも減らすために何とかしようというスタンス」





なんですよね。
まあ、そこんトコは、自分の考え方も、それに準ずるようにしてます(目線は、少し、ズラしたりしますが)。

一般的な言葉では、
【予防原則】とか、
【人間の安全保障】とか呼ぶのだと思います。








ところが(また、繰り返し)、



いざ、大規模環境汚染事故が起きたとき、



「安全か?危険か?」という論争を主眼にしてしまうと、

不幸の宝くじ

宝くじ

しょせんが、宝くじw

という方向にいってしまう・・・のです。




と・・・ここまでは、「リスク」という性質のお話でした。


**********




■水俣病も 統計学的には安全

■イタイイタイ病も 統計学的には安全

■煤煙による喘息等も、 統計学的には安全

■自動車は事故を起こしてしばしば死に至らしめる。
でも、「全体としては 安全」

街中で、半端ない暴走運転をする暴走族が、多数いる国でさえ、
全体としては、充分、安全

■小学校で、銃を乱射してたくさんの人が死んでも
全体から見たら、安全。

■地下鉄サリン事件も。(書き加えた)

■関東大震災も。

■東日本大震災も。

■戦争だって

■原爆だって
広島型や長崎型くらいまでは・・・




統計的真実ッ






原発事故を統計学で処理しようとしているのか、、、、、、、?


それとも、原発普及の、、、プロパガンダなのだろうか?
とすれば、当該ブログはアジテーションなの?


えっ?

原発も

同じ論理なんですか?





違います。


「リスク」だけなら、そういう↑ことになりますが、原発事故は、違います。



原発事故は、「デインジャー」という性質を持っています。







原発から半径170キロ圏内で、土壌中の放射性セシウムが1平方メート目あたり148万㏃以上というチェルノブイリ事故の強制移住基準に達すると試算。東京都のほぼ全域や横浜市まで含めた同250キロの範囲が、避難が必要な程度に汚染されると仮定した。

菅氏は9月、毎日新聞の取材に「放射性物質が放出される事態に手をこまねいていれば、(原発から)100キロ、200キロ、300キロの範囲から全部(住民が)出なければならなくなる」と述べており、・・・



原発事故は、

■「リスク」 

に加えて、

■「デインジャー」 

という性質を

持たせてあります。








「リスク」に限定して言えば、
原発事故(チェルノブイリ事故)も、


■例えばチェルノブイリ@ナロジチ。

体の中のセシウム等、核物質の濃度が上がってゆく。
では、全員が疾病を発症したのか?!

⇒しなかったのです。

「条件」に合致した、ごく一部の個体が、「発症」したのです。

ナロジチ地区が壊滅した訳じゃありません。

⇒「全体としては、危なくない」。


しかし、原発事故は、

■「リスク」  に加えて、

■「デインジャー」  という性質を



も た せ て あ る








土壌中の放射性セシウムが1平方メート目あたり148万㏃以上というチェルノブイリ事故の強制移住基準に達すると

全部(住民が)出なければならなくなる













1平方メート目あたり148万㏃以上に達すると

全部(住民が)出なければならなくなる









ここで、 ゲームオーバー。




こういうのを、内田樹(たつる)教授は、
「デインジャー」と呼ぶようですが。
「ゲームオーバー」と呼んだ方がよいですかね(苦笑)。



えっ?

原発も

同じ論理なんですか?




違うのです。


原発事故は、違うのです。




今現在、IAEAによって、

「デインジャー」(ゲームオーバー)が設定されています。







ちなみに、
私(猛走峠)は、原発@日本は、反対な立場です(苦笑)。
Posted at 2012/12/27 02:56:56 | コメント(3) | トラックバック(2) | 暴走峠w | 日記

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