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2015年04月30日 イイね!

メモ:「山手線に新型車両が導入される本当の理由 JR東日本の「世代交代戦略」は成功するか」

この記事は、

山手線に新型車両が導入される本当の理由 JR東日本の「世代交代戦略」は成功するか
東洋経済オンライン
をメモしています。


© 東洋経済オンライン 2015年3月に完成したE235系。今後、量産されて山手線の主力車両となる(撮影:遠藤真人)

 2015年3月末、次世代の山手線用電車となるE235系の量産先行車が報道公開され、先鋭的な外観や中吊り広告の廃止などが話題となった。その後、今年秋の営業運転開始に向けての試運転が始められ、数年のうちに現在のE231系500番代を全面的に取り換えることが予想されている。

 E231系はJR東日本の首都圏向け主力電車のひとつで、500番代は山手線専用として設計されたグループだ。第1編成の完成は2002年1月。2005年4月までの3年あまりのうちに、11両編成52本、計572両が新製され、先代の205系を完全に取り換えた。

 E231系500番代の登場からE235系の登場までは、約13年である。205系が登場し、さらに先代の103系の取り換えを開始したのは1985年1月。そこからE231系500番代の登場までは約17年だが、この間には1987年の国鉄分割民営化があった。JR東日本は発足当初、経営方針が定まるまで、国鉄の設計思想に基づいた205系を新製し続けている。

 この早い車両交代サイクルは、何を意味しているのであろうか。


 一般的な車両の寿命は30~40年


 税法上、電車の減価償却期間は13年だ。実際には鉄道車両の寿命はもっと長く、在来線の場合は30~40年は使われるケースが多い。



「先々代」の山手線用車両205系。国鉄が設計し、初期のJR東日本も新製投入した(撮影:遠藤真人)© 東洋経済オンライン 提供 「先々代」の山手線用車両205系。国鉄が設計し、初期のJR東日本も新製投…  現在、JR東日本が所有している電車で古いものとしては、高崎地区などで使われている115系があり、最新の車両でも1983年製。車齢30年以上になる。

 後継車に取り換えられた山手線の先代車両も、廃車になったわけではなく、ほかの路線で使われ続けている。ステンレス製の電車は劣化しにくいため、鋼鉄製の電車より長い寿命を保つことが可能だ。元山手線用の205系は、今でも武蔵野線などを走っている。

 山手線は日本を代表する通勤路線だ。JR東日本も高収益を見込めるからこそ、設備投資として最新型電車を投入し、減価償却が進み旧式となった電車を収益性が低い路線に転用。さらに老朽化・陳腐化が激しい古い電車は廃車し、サービスと収支、両面の改善を図ろうというもくろみはもちろんある。

 ただ、そうしたやり方は国鉄時代から行われてきたし、ほかの鉄道会社においても当たり前の経営手法と言える。ではJR東日本がユニークなのは、どのようなところだろうか。



現在の山手線用車両であるE231系500番代(撮影:遠藤真人)© 東洋経済オンライン 提供 現在の山手線用車両であるE231系500番代(撮影:遠藤真人)  JR各社発足の初年度となった1987年度末の時点において、JR東日本が所有している在来線用電車は、特急用、東北地区用も含めて9637両あった。

 2013年度末には、これが1万0926両に増えている。同じ1987年度末の時点で、JR以外の民鉄で電車を最も多く所有していたのは営団地下鉄(当時)の2195両であったから、段違いに多い。

 もし電車の使用年数を30年と見積もれば、単純計算でもJR東日本は毎年300両以上もの電車を新車に取り換えなければならない。

 実際には、急増する利用客に対応するため昭和30~40年代に国鉄が大量かつ同時期に新製した電車を抱えており、これらの代替として数多くの新車が必要となることは、誰の目にも明白であった。

 最新型電車を製造するには、1両あたり1億数千万~2億円はかかると言われる。毎年数百億円の投資が必須で、これを滞りなく効率的に行うことこそ、経営上の最重要課題と言っても過言ではない。


 「使い捨て電車」というマスコミの無理解


 そこで新製から廃車までの電車のライフサイクルを徹底的に検討し直して打ち出された、今後新製する電車についての設計方針が「コスト半分、重量半分、寿命半分」だった。

 このコンセプトに沿って1993年から量産、京浜東北線に投入されたのが209系電車。E231系も209系の発展形であり、同様の思想に基づいて設計されている。

 「コスト半分」とは、実用本位のデザインにして製造コストを下げ、VVVFインバータ制御、電力回生ブレーキなどを採用して省エネ化も推進。

 部品レベルからのメンテナンスフリー化を徹底することによって、検査・修繕の手法やサイクルも根本的に見直し、検査工場の設備や体制も新設計の電車に合わせて改修して、ランニングコストも下げるという方針である。

 「重量半分」とは、言うまでもなく軽量化の徹底。車体のみならず、各個の機器の高性能化を受けて、装備数の削減が図られた。もちろん軽量化が進めば走行に必要なエネルギーも減り、コスト削減にもつながる。

 問題は「寿命半分」であった。この言葉尻だけをとらえて、マスコミや一部の評論家が、209系を「使い捨て電車」と評したのは無理解のひと言に尽きた。

 エアコンや冷蔵庫など消費電力が大きな家電製品が故障した時、「修理するより新品を買った方が得ですよ」と言われた経験はないだろうか。

 新品を売って儲けようという下心がないわけではなかろう。だが、こうした家電製品は年々の技術改良が著しい。新しい製品は数年前のものより消費電力が格段に少なくなっていて、電気料金が安くつき、総支出が抑えられる状況が生じているからこその言葉でもある。

 これは、電車においてもまったく同じだ。



JR東日本の経営方針を、その設計に体現した209系。現在は京浜東北線からは撤退し、房総方面へ転用されている© 東洋経済オンライン 提供 JR東日本の経営方針を、その設計に体現した209系。現在は京浜東北線から…  ひとつ、興味深い研究結果をご紹介しよう。「209系電車の環境影響の定量的評価」(一般社団法人日本鉄道車両機械技術協会協会誌「R&m」2003年8月号掲載/JR東日本研究開発センターテクニカルセンター鎗水信治・引間英男著)というレポートよりの引用である。


 古い車両を使うのはコストの浪費


 このレポートでは、209系をモデルとして製造、運用(走行)、メンテナンス、廃車解体・廃棄と流れる電車のライフサイクルにおいて、消費される資源、エネルギーにより、どのような環境負荷がかかるかが解析、研究されている。

 それによると、エネルギー消費量においても、CO2排出量においても、走行の際の負荷量(=消費される電気エネルギー量)が圧倒的に多く、これを1とすると、次に多い原材料製造の際(たとえば鉄を製造する時のエネルギーなど)でも0.1以下。廃棄の際に至っては、微々たるエネルギー・資源しか消費しない。素材は今や、徹底的なリサイクルも可能である。

 つまり、電車が走行する際のエネルギー消費量を削減することさえできれば、省エネ・省資源効果は非常に大きいのだ。209系は103系と比べ、約半分のエネルギーで走ることができる。

 209系の約10年後に設計されたE231系500番代、さらにその10数年後に設計されたE235系では、さらなるエネルギー消費量の削減が達成されている。「古い電車を使い続ける方が、もったいない」のである。

 もう、おわかりだろう。

 10年も経てば技術の進歩により、さらに省エネ化が進んだ電車が登場するに違いない。インターネットや携帯電話の急速な普及のような、社会情勢の大きな変化も当然、予想しうる。

 ならば、古い電車は早めに新車に取り換えることを考えた方がコスト面でも環境面でも有利で、時代の変化への対応、および利用客へのアピールともなる。


 技術革新を織り込んだJR東の新車戦略


 また、現在の電車に多用されている半導体素子は、もともと10年あまりしか寿命がなく、交換が必要になる。そこで税法上の耐用年数の13年(従来の約半分)をひとつのメドとし、仮にその時点で転用先がなく廃車せざるを得なくなっても、経済的な損失がない設計をすればよい。

 これが、JR東日本が唱えた「寿命半分」の真意であり、その方針に沿って、車両の物理的な寿命よりも短いサイクルで新型車両が山手線へ投入され続けられるのである。

 E235系ももちろん、同社の長期的な経営戦略に沿って設計されたものだ。山手線からは今後、E231系500番代が捻出、転用され、他線区の古い車両を淘汰。全社的に、さらなる省エネ化が進められることになる。

 5年後、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの時には、E235系が山手線の輸送を一手に担っているだろう。だが、10年先はわからない。
Posted at 2015/04/30 03:16:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | 倉庫 | 日記
2015年04月29日 イイね!

メモ:「2017年度のガラケー製造中止報道に、ドコモは「ガラケーやめない」 」

この記事は、

2017年度のガラケー製造中止報道に、ドコモは「ガラケーやめない」
マイナビニュース
をメモしています。

4月28日、NTTドコモの2014年度決算発表が行われたのは既報のとおりだが、発表会の質疑応答では、先般報道があったフィーチャーフォンの製造終了に関するNTTドコモのスタンスについても言及があった。

スマートフォンに対するフィーチャーフォン、いわゆるガラケーの定義を何ともってするかは難しいところだが、多くの人がイメージするところでは「折りたたみ式でテンキーを含む物理キーがあり、iModeなどのサービスが使える端末」といったところだろうか。

auが「ガラスマ」と呼ぶ、Android OS搭載の折りたたみ式端末「AQUOS K」を発売して話題を呼んだり、2017年度に国内メーカーがフィーチャーフォンの製造を取りやめるといった報道が注目を浴びるなど、スマートフォンの販売が伸びる一方で、フィーチャーフォンには一定の支持層がきちんと存在しているのも事実だ。

NTTドコモとしては今後フィーチャーフォンをどうしていくのか、という質問に対し、加藤社長は「お客様にとってのフィーチャーフォンはずっと続けていきたい」と発言。個人投資家からも必ずフィーチャフォンのような折りたたみ式端末を出し続けて欲しいと言われるそうで、こうした形の端末は今後もずっと提供していきたいとのことだった。

また加藤社長は、従来のフィーチャーフォンではOSにSymbianやLinuxを使っていたが、こうした機器については部品供給がなくなる時期があると指摘。そこで操作性やサービスは維持しながら、別なOS(具体的にはAndroidなど)を搭載すると説明した。

iModeについても、徐々に消えていくものではあるが、当面は生存し続けるし、需要がある限り継続していくと明言。メールなどはiModeからSPモードに移行しつつ、ユーザーが意識しなくても大丈夫なようにしたいとした。

2014年はスマートフォンが携帯端末販売の過半数を超えたという報道もあったが、裏を返せば相当数のフィーチャーフォンが販売され続けているということでもある。ユーザーから見えない部分がどんなOSを使っているにせよ、物理キーを持った端末への需要が一定数以上あるのは確実だ。ドコモはもともと保守的なユーザー層の多いキャリアということもあり、こうしたユーザーに応える意味でも折りたたみ式端末の提供はやめられないのだろう。

先行するガラスマについては批判や失望の声も多いが、提供するサービスやアプリの取捨選択さえ間違えなければ、スマートフォンからの出戻りユーザーも期待できそうだ。他キャリアの動向も気にかかるところではあるが、折りたたみ端末のファンは、ドコモの宣言を受け、しばらくは安心できそうだ。
Posted at 2015/04/30 03:24:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | ちょっとしたメモ | 日記
2015年04月28日 イイね!

メモ:「「新幹線」よりも「中国高鉄」の方が優れているぞ!=中国メディア」

この記事は、

「新幹線」よりも「中国高鉄」の方が優れているぞ!=中国メディア
2015-04-29 06:02
をメモしています。

 中国メディアの貴州手机報は27日、日本と中国が米国の高速鉄道プロジェクトの受注を巡って争っていることを紹介し、技術・速度・安全性のいずれにおいても中国高速鉄道のほうが新幹線を上回っていると主張する記事を掲載した。

 記事は、米テキサス・セントラル・レールウェイのCEOがこのほど、中国高速鉄道に比べ、技術・運用経験・安全性のいずれにおいても新幹線のほうが勝っていると述べたことを紹介し、同発言には「非常に驚いた」と主張。

 続けて、中国高速鉄道は米国にとって「その程度の価値しかないのだろうか?」と疑問を呈したうえで、中国高速鉄道のスタートは新幹線よりずいぶんと遅れたが、技術・安全性・コストの面で新幹線より「優れている」と主張。

 さらに、中国高速鉄道は複雑な地理的環境やさまざまな気候条件のもとでも運用することができると主張する一方で、新幹線は「地形が単一の場所において、ごく短距離の運用がなされているだけではないか」と主張した。

 また、中国高速鉄道は新幹線に比べ、速度でも大きく優位性があると主張し、中国の車両製造大手である中国南車が製造した車両は試験で時速605キロを記録したと主張。また、安全性においても「2011年に衝突事故を起こしたものの、設備や管理の改善を行ったことでその後は事故がない」と主張した。

 一方で記事は、安全神話で名高い新幹線も「事故そのものはこれまで何度も起こしている」と主張したうえで、「他国の高速鉄道プロジェクトに提供できる資金量はもちろん、技術・速度・安全性のいずれにおいても中国高速鉄道のほうが新幹線を上回っている」と主張した。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:(C) Jaroonrat Vitoosuwan/123RF.COM)
Posted at 2015/04/30 03:29:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 倉庫 | 日記
2015年04月27日 イイね!

クルマ屋になりたくても、走り屋にしかなれなかった、とある人物の回顧について。





―――望み通りの職に就き、
望み通りの趣味を持ち、
 望み通りの生き方を出来る人は、どれだけいるのだろうか―






※このエントリーはフィクションです。私小説です。実在する人物・団体とは一切の関係がありません。





私は、走り屋だ。

私は、ファイターだ。




私は、ファイターだ。

そして、
私は、走り屋だ。




しかし、私だって人間だ。

四六時中、ファイターをしていることを望んでいたら、変態だ。



私だって人間だ。

四六時中、ファイターであることを望んでいるわけがないじゃないか。



私は、ファイターだ。

しかし、四六時中、ファイターであることを望んではいない。

少なくとも、変態的なファイターではないと思っている。





私は、走り屋だ。

きっと、これは、私に定められた宿命なのだ。




職に就いているときも、趣味に没頭しているときも、そこに、クルマがいる。

クルマにまつわる、

システムがあり、
カネがあり、時として刑があり、

そして、そこに、クルマがいる。




私は、走り屋だ。

きっと、これは、私に定められた宿命なのだ。




それはそれで構わないし、

幼少期から、そういう気はしていた。

私のイメージ・私の理想は、
のんびりと、コツコツと、クルマという機械を弄り、
そして、ときに、ファイターとなる。

穏やかな味に、ほんのたまに、ピリリと辛い味がさす。

そういうイメージが理想だった。


この↑イメージが、「何なのか?」といえば、
これ↑は、「クルマ屋」のイメージなのだ。




現実の私は、「クルマ屋」にはなれなかったのだ。

現実の私は、「走り屋」にしかなれなかったのだ。




たしかに、

私は、ずっと走り屋だったし、

私は、ずっとファイターだった。

きっと、これは、私に定められた宿命なのだ。


しかし、

幼い頃の私は、「クルマ屋」になりたかったのだ。

だが、現実の私は、「走り屋」にしかなれなかったのだった。




要するに、
幼少期の私が臨んでいたのは、
のんびりと、コツコツと、クルマという機械を弄る職に就き、
そして、ときに、ファイターとなる趣味に行く。
そんな生き方だったのだ。


しかし、
現実の私に与えられた宿命は、
来る日も来る日も、戦う職に就き、
そして、ときに、趣味に赴くときも、ファイターである。



バリスタ(法廷弁護士)としての職に就いているときは、
クルマにまつわる様々な紛争案件に取り組んでいる。
クルマにまつわるシステムがあり、
カネがあり、時として刑がある。
そして、そこに、クルマがいて、「敵」がいて、抜き差しならなくなっている紛争を、一戦一戦、全力で戦う。
たぶん、私ほど、自動車の纏わる案件で戦い、これを開拓・変化させてきたバリスタはいないのではなかろうか。


走り屋としての夢に浸っているときも、
そこに、クルマがいて、「敵」がいて、譲れない道があって、
この争いに勝つために必死にクルマにとりつき、
敵を調べ、己を知り、一戦一戦、全力で戦う。
たぶん、私ほど、強烈な相手と戦い、これを打ち負かしてきた走り屋はいないのではなかろうか。



周りの人間は、
そんな私を、
「ファイターの中のファイター」
「バリスタの中のバリスタ」と称賛した。


ある者は、
「永遠の少年のようだ」とか、
「少年のような純粋さと必死さを永遠に忘れないHASHIRIYA」とか、
その年代の流行りの言葉を使って称賛してもくれた。


だが、それは私の本質を見誤っている。
私は、
「クルマ屋」になりたかった少年だったのであり、
決して、「走り屋」になりたかったわけではなかったのだ。


望み通りの職に就き、
望み通りの趣味を持ち、
 望み通りの生き方を出来る人は、どれだけいるのだろうか。


世の中の人間は、私のことを、そういう種類の人間だと、明らかに誤解している。

少なくとも私は、
自分の望みでは穏やかな職に就くことだったけれども、
  現実には法律職の中でも戦闘職の部類に就くことになったし、
 自分の望みではだいたい穏やかに趣味の時間を過ごすことだったけれども、
  現実には夢のために戦いに明け暮れることになってしまったし、
  自分が臨んだ穏やかな生き方とは正反対の、戦いばかりの人生となってしまったのだった・・・。


2015年04月26日 イイね!

とある人物の、許しがたい世界観について。





―――思うに、
「暴力」・「軍事力」以上の「宗教」がこの世にあるのか?―




※このエントリーはフィクションです。私小説です。実在する団体とは一切の関係がありません。
尚、著者は、類似の世界観を説く、団体等と、一切の経済的・精神的関係を有していません。




21世紀前半期のある日、あるとき、私は問われた。

「世界宗教は何だと思いますか?」と。

私は即答した。



「それは、暴力であると思います」


私は、続けた。


「暴力・・・

軍事力とも言うんですかな。

これを、交渉力とも言ったり、
あるいはまた、
科学力とか、技術力という、今流の言い方でオブラートに包む方々が多いのですが、

私は、これらは全て、暴力の一部だと思っています。

暴力。
これ以上の宗教を、私は知らない。


世界中、
文化も違う。
宗教も違う。
言語も違う。
言語については、元来は、同じ言語を喋っていたのでしょうかね、
それが、あるとき、
バベルの塔が破壊されたことをきっかけとして、
世界中、異なる言語に分断されてしまった。

言語が異なり、宗教も異なり、
人々は意志疎通することで精いっぱいで、
難しい作業が出来ない。

バベルの塔が造られることは二度とない。」


「旧約聖書っぽい話ですねーー」

「私のことは、どう思ってくれても構わない。
それでも、厳然たる事実として、
謙虚な気持ちで認識してもらいたい。


バベルの塔がなかろうが、
世界中、
異なる言語だろうが、
宗教が異なろうが、

あるものだけは普遍の価値として厳然として共通している。

それが・・・暴力。

世界には、様々な宗教があります。

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教、あるいは神道・・・

いろいろあります。


しかし、私は、これら全ての宗教の価値観が、

普遍的な価値・全世界に共通する価値観とは思っていません。



暴力以上の普遍的価値なんて、あるのでしょうか?

少なくとも私は、暴力以上の普遍的な価値を知らないのです。誠に残念ながら。


そして、このことも、申し添えておきます。

暴力以上の普遍的価値を知らない私を、私は、恥じております。

しかし、
私の見てきた様々なことがらの根底的な部分には、
 暴力 という世界最強の宗教が横たわっていること、
そのことを認識せざるをえないのです」

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「omnes viae Romam ducunt」
何シテル?   09/26 04:50
今を、近未来を、速く!上手く!美しく!走りたい。どこの歴史上の、どこの伝説の誰よりも。 「数の世界」を愛する者のひとりとして、いつの日にか「私」が「最速」の象...
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