2011年01月17日
16年前の今の時間の私は、停電して真っ暗闇の中、かつて経験した事の無かった
大きな地震に恐怖を感じ、すぐに発生した余震に震えていました。
1995年1月17日 午前5時46分
兵庫県南部地震。阪神・淡路大震災と呼ばれているあの地震から16年が経ちました。
当時の私は受験を目前に控えた浪人生。
ですが勉強の疲れか一週間程前に風邪でダウンし、治療に専念した結果全快。
とある理由で入院していた姉と付き添っていた母が一時帰宅。
自宅組の私と父で、16日は親子水入らずのひと時を過ごしました。
この日ばかりは受験勉強もお休みにしました。
なので、目覚ましもかけておらず、目が覚めるはずがない早朝、
突如激しい揺れが私を襲いました。
恐らく地鳴りで目が覚めたのでしょう。
私に出来た事は咄嗟に布団を頭から被り、ベッドの柱をしっかり掴む事だけ・・・
家の中からはガラスが割れる音、物が落ちる音、様々な音がして、
このまま家(マンション)も崩れるのか?私は・・・死ぬのか?
ほんの1分程の激しい揺れが、永遠のような長さに感じました。
揺れが収まり、私が上げた第一声は『これって、地震やんな!?』と。
完全に声が裏返って震えていたと、後に父が言っていました。
姉が飼っていた手乗りインコの籠も揺れで壊れ、暗闇の中恐怖で飛び回り、
私の肩に止まりに来ました。インコも震えていました。
余震も収まり、次第に空が明るくなり始め、家の中の惨状が分かりました。
倒れた家具は三面鏡付きの化粧台だけでしたが、食器類はことごとく
床に落下して砕け散り、父と母の部屋と、私の部屋のTVが落下、
私の部屋はビデオテープを入れたガラス扉のケースとコンポも落下。
我が家の家の中なのに、靴もしくはスリッパでないと歩くのは危険でした。
続いて、隣近所で安否を確認し合いました。
怪我をされている方もいらっしゃいましたが、生命に別状はありませんでした。
電気とガスが使用不能で、昇り降りは当然階段です。
街は異様な空気に包まれていました。
電車も、バスも、全て動いていない。道路を行き交う車もまばら。
あちこちから聞こえる救急車のサイレンの音。静寂に包まれた街。
着の身着のままで公衆電話に列を作る人々。
電話回線は錯綜していて、家の固定電話も、携帯電話もすぐに繋がらなくなりました。
この時の異様な空気は、今もなお脳裏に鮮明に焼きついています。
パール・ゼロさんが安否の確認に車で駆けつけてくれたのも覚えています。
パール・ゼロさんも含め、同じマンションに住む
親友の無事な姿に安堵と安らぎを感じました。
あれから・・・16年。
先刻観ていた追悼番組でキャスターの方が言っていました。
『震災後に生まれた世代が増え、神戸以外の所から移住した人も増え、
震災の教訓を語り継ぐのが難しくなって来ている。』
『あの震災で生命を落とされた方々の為にも、生き残った者は生き続け、
震災を語り継ぐ必要がある。』と。
この世に生命がある。生きている。
それがどんなに幸福である事か、噛み締めた出来事でもありました。
Posted at 2011/01/17 07:08:06 | |
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