日本百名城 飫肥城
投稿日 : 2017年08月15日
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5万1千石の飫肥藩 伊東氏の居城です。
伊東祐国が飫肥に侵攻した1484年(戦国時代初期)から、伊東祐兵が飫肥城主となった1587年(戦国時代末期)まで103年の長きに及び、伊東氏・島津氏が覇権を争った城です。
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川を外濠として、内側に武家屋敷が立ち並ぶ。
城は、山に曲輪を幾つも並べた平山城。
本丸とその周りのいくつもの曲輪は空堀がめぐらされている。
5万1千石にしては規模がデカイ!
『わぬしなら、どう攻むる!?』
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石垣が綺麗なんですが、
江戸時代に地震等で城が壊れ
元禄期に石垣が築かれたとの事。
なので石垣は戦国時代のものではありません。
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飫肥城は、土持氏が南北朝時代に築城し支配。
そのころの伊東氏は、守護職である島津氏の被官として土持氏と共に国衆または国方と呼ばれた。
1458年
室町時代末期
島津氏が、一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。
(島津本家、分家との勢力争い)
1484年
伊東氏が飫肥に侵攻する。(島津分家に加勢)
当時の当主伊藤祐堯、息子祐国、弟祐邑が島津との戦で戦死する。
1484年
島津久逸(分家の伊作家)降伏する。
その後、伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられる。
1567年
伊藤氏が、念願かなって飫肥城を奪取する。
1572年に伊東氏が木崎原の戦い(島津義弘との戦)をきっかけに没落する。
飫肥も再び島津氏の支配となった。
伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え九州平定に参加。
島津軍が秀吉に大敗する。
1587年
伊藤氏が再び飫肥の地を取り戻し
大名として復活を成し遂げる。
以後の伊東氏は、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで一貫して飫肥の地で家名を全うした。
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現地の説明文
デカイ城だと書いてあります。
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旧本丸跡
本丸跡としても大きいと思う。
当時の雰囲気もよく残ってると思う。
江戸時代の改修後
本丸は一段下の小学校の場所に移る。
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出口の食堂で
宮崎名物の冷や汁を食べる。
いや~
なかなか見応えのある城でしたね。
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ついでに
木崎原の戦い
1572年
宮崎県えびの市において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。
大軍(3,000人という説が有力)を擁していた伊東側が、少数の兵力(300人)しか持っていなかった島津側に敗北した。
「九州の桶狭間」とも呼ばれる。
ただし実際の桶狭間の戦いとは違い、島津軍は将兵の85%以上が討死したという全滅と言うべき大損害を被っている。
この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退する。
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