
つづいて薬師寺跡に行きました。
本当は、その前に資料館に寄ったのですが、なんと休館でした。
平日だけれど、GWまっただ中だろ!っと愚痴を言いたくなりますが仕方ありません。
またの機会です。
薬師寺は残念ながら、残っていません。
写真は元は戒壇があったとされる六角堂です。
奈良時代には都の東大寺、西の大宰府(観世音寺)と東の薬師寺、この3つのお寺が天下の3戒壇で僧侶になるためにはみな、このどれかのお寺で免許をもらったわけです。
そう考えると、東国の中で中心的なお寺だったということになります。
奈良時代は武蔵大野の中心は下野だったんですかね?
それとも天武天皇勅願という格式から、このお寺が選ばれたのでしょうか?
浅学なので、当時の東国事情はまったく知りません。
勉強あるのみです。
後にこのお寺、足利尊氏によって安国寺と変えられます。
足利尊氏が聖武天皇の国分寺にならって全国に安国寺を建立したという史実を薬師寺跡の立て札の説明書きで初めて知りましたww
旅をした甲斐があったというものです、って無知なだけですね(><)
さて、ここで空想するのは左遷された道鏡の心境です。
天下の3戒壇である薬師寺の別当として赴任したわけですから、名誉職ともいえますし、なんかの資料で道鏡は左遷ではない、との記述も見ましたが、私は左遷だと思います。
思い出すのが藤原広嗣。
大宰府に赴任した広嗣は左遷と思い、広嗣の乱を起こします。
大宰府ですら左遷なのですから、さらに僻地であった下野への赴任は左遷としかいえません。
名誉職であれば、女帝縁の西大寺でもよいわけですし、東大寺でもよいわけです。
それを女帝の陵から遠く離れた下野に赴任ですから、哀れなものです。
広嗣から玄昉を連想しました。
玄昉は道鏡の前座を務めたようなきらいがありますww
藤原宮子(文武天皇夫人にして聖武天皇の母)、光明皇后とたらしこんで出世した玄昉は広嗣の乱の引き金となります。
しかし、仲麻呂が実権を握ると筑紫の観世音寺に左遷。
そこで没します。
一節には広嗣の霊に呪い殺されたとか、首を食いちぎられたとか、恐ろしい話もあります。
この時の観世音寺にはまだ戒壇はありませんが、道鏡のたどった道と非常によく似ていますね。
しかし、決定的に違うことがあります。
玄昉VS藤原広嗣では悪玉は玄昉です。
人々は広嗣に同情し、広嗣は神となります。
道鏡VS藤原仲麻呂ではどうでしょう?
驕る平家よろしく驕った仲麻呂はあまり同情されませんね。
道鏡も戦前までは日本史上最大級の悪玉でしたし。。。
でも、仲麻呂も哀れです。
道鏡も哀れです。
南無阿弥陀仏(合掌)
(つづく)
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Posted at
2011/05/07 12:39:33