TiPo 92年9月号コラムより
700馬力V8の怪物、パンテーラの悪夢
本物のV型八気筒をパンテーラに乗せ、公道を時速200
マイルで走ってみたい!死に到るチューニングカーの物語
パンテーラはアスファルトにうずくまり、じっと何かを凝視していた。
ドッ、ドッ、ドッ、
700馬力の鼓動が冷たい夜気をなぶる。
血のような赤いボディーは、狂気な匂いがした。
「乗れよ」
トリプルプレートのレーシングクラッチが繋がると
エンジンがウッと息絶える。が、
驚いた事に7700ccは自分の力で呼吸を取り戻し
車を発進させた。アクセルペダルの一撃が入る。
僕は助手席の背もたれの上に叩きのめされ、そのまま
身動きできなくなった。
音を立てて血の気が引いていく。
息さえも止めていたと思う。
なんという加速!2秒・・3秒・・・。
ふっつりと加速がやむ。眼球をすばやくめぐらせて
薄緑色の証明の中に浮かび上がっているスピードメーター
を盗み見る。120だ。
ローギアの一瞬で120!ジャッ、ガッ。
セカンドギアの加速が始まると再び猛烈なGに襟首を
ひっつかまれてボクは昏倒する。・・・・そんなことはありえなかった。
それは1981年11月29日のことで、彼はその2車線の一般道で本物の
700馬力が放つ本物の暴力たっぷり教えてくれたのだった。公道上の
時速250キロ。頭上を行く首都高速3号線の高架が視界に突き刺さって
来るようなスピードだった。
東名厚木ー用賀6分20秒!?
彼のの名をゲーリー・アラン・光永という。
スピードに取り憑かれていた。
ハワイで生まれ大学を卒業して日本の地を初めて踏むと、持ち前の語学力を
生かして小さな商事会社に就職した。走り出したのはその頃だ。
GI相手に基地の滑走路でゼロヨンを挑んだ。
負けると意地になって車をいじり馬力を上げる。
打ち負かす相手がいなくなると基地の外に出て行くようになった。
当然車もエスカレートしていき、収入の大半がそこに消える。
群れるのが嫌いな一匹狼だったが、40歳を越えると年下の
仲間達もできるようになった。青山3丁目にエンドレスと言う名の
喫茶店がある。8時を回ると何処からともなく低い車高のさまざまな
車達が集い、零時を過ぎると野太い排気音を響かせてどこかへ去っていく。
目的地は東名高速道路海老名サービスエリア、厚木インターチェンジで
下り線をいったん降り、すぐUターンして上り線側のパーキングにくつわを
並べる。時には40台にもなった。
そこから東京料金所に至る27キロをアクセル全開で競うのだ。
一番速いクルマが一番速くゴールにつく。「コースレコード」は
6分20秒。平均速度255キロである。だが光永のフェアレディZは
一度も先頭を走る事ができなかった。
マリオ・ロッシとの直談判
アメリカのレース雑誌に紹介されていた小さな記事を頼りに、
光永はアメリカ西海岸を訪れた。そこにはNASCAR(ナショナル
ストックカーレーシング協会)とNHRA(ナショナルホットロッド協会)
というアメリカ二大レースで名を知られた名エンジンチューナーがいた。
マリオ・ロッシという。
光永は小柄なイタリア人にこう切り出した。
「V型8気筒を一台、作ってほしい。それをパンテーラに載せ、公道を
時速200マイルで走ってみたい」
かつて世界でもっとも強力だった市販エンジンとは、大排気量のアメリカ製
V型8気筒-アメリカンV8-だった。50年代の繁栄はアメリカ車をより大きく
豪華に彩らせ、それとともにアメリカンV8も排気量を次々に拡大して
高めていった。その頂点が訪れたのは、皮肉にもマスキー上院議員が
自動車の安全問題で世論を沸かせ、平和主義団体によって地球環境保護が
叫ばれるようになった60年代終わり頃のことだ。排気量7400cc
430馬力などという怪物エンジンが市販のスペシャリティーカーに
堂々と搭載され加速性能を競い合ったのである。これらのクルマは人気の的だった。
売れればコストが下がる。アメリカンV8は世界でもっとも廉価で手に入る
高性能エンジンになった。
それを購入して載せれば廉価なスーパースポーツがたちどころにできる。
フォード製5・7リッター350馬力エンジンを搭載したイタリアの「パンテーラ」
もそういう伊米混血車である。光永はパンテーラを自分の夢を実現する
母体に選んだ。
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Posted at
2011/06/23 06:28:06