2011年09月18日
震災から半年過ぎた12日、とある港湾業者から突然電話があり、仙台港内の海底にある瓦礫の中から私のエクスプレスがぺしゃんこになって発見されたと連絡が入りました。
ぺしゃんこなのになぜ、分かったかと言うと助手席下に置いていた煎餅缶の中に去年の暑中見舞いが入っていてそこに携帯番号を書いていたんで、それを見て連絡くれたとの報せだったんですけど、何でも私のエクスプレスの上に他の自動車やら、建物の破片やらが被った上にヘドロが覆い、ちょっとしたぐちゃぐちゃの車内でも助手席の足元付近が上手い具合に空間が出来た上に缶の上に外れたナビが乗っかっていて缶の中が真空状態になっていたみたいなんですよね。
引き上げる前にソナーカメラで見て、業者の方たちも大事なものが入っているかもしれないと丁重に扱ってくれたので錆び錆びになった缶の中に運良く私の個人情報が入っていたみたいで……
実際、行方不明の人も多いから海中の瓦礫処理も慎重にソナーカメラを使うんでしょうね…
半年、経ってもご苦労なお仕事です。
見つかった時の電話でエクスプレスを見てみるかと質問されましたが、そのまま処分を依頼しました。
確かに見てみたいとは思いましたけど、地元に戻る余裕もないし、スクラップ予定の車を取っておいてもらうのも悪いので、結局、見ず仕舞い。
4/17に書類上抹消された車が、震災から半年経った今見つかり、漸く処分が完了しました。
私があの日駐車したポイントからどう流されたかを震災後、色んな情報を元にすると、エクスプレスは海から上陸した津波にやられたのではなく、路地を伝わってジワジワ浸水した後、引き波で駐車場近くの2階立てのプレハブが根こそぎ持って行かれた衝撃に巻き込まれ、海岸沿いの大通りへ出た後、そのまま海中へ没した模様。
直線距離で1.5キロ移動したみたい。
仲間の自動車が見つかって私のエクスプレスが海に持って行かれた原因として
・余りにデカいクルマだから、止める場所がなく、工場跡地の広い砂利の上に余裕を持って駐車していた
・プレハブに巻き込まれた
・押し波ではなく、引き波に当たり、しかも大通りに出たので障害なく引き戻された
と言う私の推測ですがね…
あと これは個人的感想ですが、被災地域以外に取って震災とはもう過去の話なんですね……

Posted at 2011/09/18 20:37:45 | |
東日本大震災 | クルマ
2011年08月17日
お盆を地元で過ごしました。
震災の津波喰らって5ヶ月経つのにまだ片付けです。
今だに片付けやってるって被災地の外(同じ県の内陸部の人ですら)からは
「まだやってんの?」
的な印象だよね。
容積がある…と言うだけで購入したメルセデス・ベンツのV350にゴミ袋を満載して海岸沿いのゴミ捨て場に行く。
みんな大小トラックなのに私だけベンツ。
粉塵や砂ぼこりや舞うゴミ集積地帯を走る異様なベンツ。
ここだけの話、ベンツの担当営業さんが実は津波で自宅が流されちゃった筋で、最近やっと体育館から仮設住宅に移ったって言ってたなぁ。
ベンツは意外と悪路もGOODなので凸凹道路が多い海岸沿いでは重宝してます。
この前はホームセンターで大物買いだったので流石に一時間無料の中型トラック マツダ・ボンゴを借りて運転しましたが、被災してからよくトラック乗ったので一時は本気で軽トラックの購入を検討してました。
実家の近所に津波で廃車になった自動車の置き場があるんですが何百台あるのか解らないくらい積まれてました。
お盆の間で見聞きした話で津波襲来の報を聞いて車で逃げた人たちの生と死の境…
余りの渋滞の中で危ないと感じて車を乗り捨てて建物に逃げた人、急坂を常識では考えられない根性で登って助かった人…人様々ですが、渋滞に巻き込まれ、波を被ってどうする事も出来ずに流されたり…
停電で信号が止まった交差点に高波が襲来し、一瞬のスキを突いて飛び出して歩道橋を一目散に掛け上がって後ろをみると歩道橋の直ぐ真下まで津波が上がり、交差点のド真ん中で巨大な渦が巻き、その周囲を渋滞していた全ての車が掻き回され、車に乗っていた人はどうする事も出来ず、ある者はドアを蹴破ろうと、そしてある者は呆然と、ただ渦の中に没し、引き波と共に海に流されゆく……
車から投げ出された体が数百と海岸の松の木の枝にぶら下がっている。
悲惨な光景に涙も出ず、誰もが己の命だけを護る事で精一杯…
どうですかね、病院のベッドで瀕死になっているワケはなく、元気な人がこれから死のうとする姿を呆然と見つめるってのは…
近所の廃車置き場の中にも墜ちた生命が幾つもあるかと思うと言葉もないですが、実際、被災地の人間はそれでも生きていく。
福島の放射能汚染地域で帰れない人たちを思えば、まだまだ、恵まれています。
とにかく時間が経つと段々と落ち着き出して、今は犠牲になった方々の葬式ラッシュ。
3-4月上旬は遺体が見つかっても火葬する場所がないし、焼く燃料どころか遠くの他県の火葬場に持っていく自動車のガソリンがない、何より遺体の数が膨大過ぎる。
苦肉の土葬は数千体に及び、火葬が終わるまで2年掛かると言われていたのに4月の下旬から急ピッチで火葬が進み、戒名と位牌が揃った今、周囲の人間を集められる状況になったからこそ出来た葬式。
葬祭場に行くと自動車流された面々も何とか即納した中古車で現れ、泥の中から取り出した喪服を何とかクリーニングして間に合わしている姿を見ると、片肺の間に合わせだけど、何処か「平穏」が取り戻されたんだと感じます。
そんな感じなのでよくお誘いが来るオフ会にはどーしても参加出来る気になれんのですゎ。
車を弄って遊んで楽しむ会は気が引けて…
とか言って 地元専用車両パート2としてホンダ・ステップワゴンが非常に気になる、昨日今日。

Posted at 2011/08/17 21:49:28 | |
東日本大震災 | 日記
2011年08月12日
近々 HONDAのオーナーになります
エリシオンでも
オデッセイでも
ストリームでも
フィットでも
ライフでも
ありません。
何より自動車ではありません。
そしてバイクでもありません。
発電機です。
日本各地の皆さんは何処まで発電機の必要性を感じておられるでしょうか。
長期間停電すると言うことをどのように考えますでしょうか。
・携帯の電波も圏外、電池式のラジオだけが唯一の情報源。
・無論、電話回線も切断され、ネットも出来ない。
・食料も底が見えている。
・車を走らせるガソリンもない。
・もっと言えば車も無い。
先進国ニッポンの贅沢を謳歌出来る場所で現実に2011年に起きた出来事です。
競争社会では生命と言う名の生存競争…サバイバル。
車を弄って遊んでいてはいけない……何かあった時に大事な事は何だろう?
備蓄と言う名の防御。
どんな災害や戦争・紛争があっても生き抜く事が一番大事。
だから発電機を買う事にしました。

Posted at 2011/08/12 21:08:03 | |
東日本大震災 | 暮らし/家族
2011年05月16日
いきなり挑発タイトルで…
実は自家用車活かす前に中古車サイトで比較的に自動車を入手しやすい、西日本の会社に見積もりを携帯から依頼してみたんですよ。
津波被災地
ってコトを記載したんですが、
・陸送出来ないので店頭までお越しいただけますでしょうか→→仕事や家で片付けやら、書類、折衝やらで物凄く忙しいんじゃ、西日本に行って帰ってくる時間がないんじゃ。
・携帯メールでは字数制限があるのでPCアドレスを教えていただけますでしょうか→→PCが津波で流されたぜよ。
そんなこんなで完全修理、
全国の中古車店さまへ。
被災地から携帯で見積もり依頼した人は大概、津波でPCがパーですよ。
その辺 理解してください。

Posted at 2011/05/16 21:37:15 | |
東日本大震災 | 日記
2011年05月15日
3/11から2ヶ月の歳月が過ぎ、実家の津波が引いてから片付けが忙しくテレビを見ない性で最近、被災地の現状がどのように伝わっているのか、分からないですが、相当、扱いが小さいのでしょうね。
死者:15000名余
行方不明:9000名超
戦後最大の自然災害も視聴率や部数獲得の競争の中で過去の話題として消えて行く運命なのか…
あの津波被害を目の当たりにした者に取って、一生、忘れられない悲劇。
それは2011年3月11日14時46分にやや大きな揺れで幕を開けた。
2日前の震度5強の余震と思っていたもののやがて揺れは縦揺れを伴い、激しくなってゆく。
立っていられなくなり、机の下に隠れると揺れは更に左右に強くなり、観葉植物が倒れ、棚の物がガラスを割って飛び出し、壁掛け時計が落ちて割れる。
揺れが長くにつれてデスクの上のPCが全て倒れ、引き出しも開きっ放しになる中で、机の下で柱にしがみつく。
やがて揺れが納まるかと思い立ってみたが、また強さを増す。
そして耐震構造施設の天井と壁がズレはじめ、空が覗けたような気が…。
女性の悲鳴と泣いている声があちこちから聞こえ、私は盛んに「天井が!天井が!」と叫んだ。
とにかく長い…長すぎて恐怖のドン底の中、室内照明が全て消える。
やがて揺れが段々、収まりを見せ始め、もう動いてもいいと思い、机の下を飛び出し、ワンセグ機器をみんなで取りだし、NHKのニュース速報を見る。
・栗原で震度7
・宮城・岩手・福島に大津波警報発令
とにかく、予想していた宮城県沖地震がいよいよやって来たかと覚悟した。
長い揺れが漸く収まり、ドアの電動ロックを職場のトップが壊して全員屋外へ。
屋外へ行く途中、天井のズレ具合から「もう後戻りは出来ない」と察知し、携帯含め、全荷物をロッカーから持ち出して避難。
屋外に出ると意外に住宅街の目立った被害は少なく、小雪が舞う、寒い曇り空。
沿岸2キロ地点なので津波に対する警戒心はないものの、次々起きる、強い余震に怯え、電柱から離れるよう指示される。
防災無線で大津波警報の避難指示が出され、我々も常日頃、職場に用意されている津波マニュアルに則り、地震で若干ヒビの入った近くの工場施設の4階へ避難。
屋外に出てから再度工場に入るまで10~15分。
横二列で建物を掛け上がるも、立地から津波に関して「此処まで来ないだろう」と言う勝手な解釈で居たのが大きな間違い。
後で知った話で列の最後尾にいた人たちが階段を昇る頃に津波が膝まで水に浸かり、避難が終わったと同時に濁流が押し寄せたとの事。
間一髪。
周囲の人の携帯ワンセグテレビを見たところ
・茨城県沖でも強い地震が発生
・仙台空港に津波が押し寄せている
・航空自衛隊松島基地も同様
・気仙沼市が津波で壊滅し、大火が起きている
と次々信じられないニュースが流れて目を疑う。
外では濁流が猛スピードで街を襲い、自動車が意図も簡単に流され、人や建物の内部も流れていくおぞましい光景。
次から次へと沿岸や大通りから様々な物体が通りすぎ、人々は濁流の中、塀やフェンスにしがみついて見知らぬ人の家に上がり込み、二階へ逃げる。
住人も逃げ遅れて水に浸かる人に上がって来るよう大声を出す。
将に地獄絵図。
夜になると停電で辺り一面真っ暗の中で工場地帯から赤々と炎が上がり、緊急車両のサイレンが途切れる事なく鳴り響く。
避難施設の非常電源で何とか暗闇は免れていたが、夜も更ける頃、段々、照明が暗くなり消える。
一同、パニック。
工場施設の非常電源が切れるのだから事態は深刻。
ワンセグ放送では東日本太平洋岸各地の津波被害について逼迫したリポートをする模様を放送しているが、何ら自分たちが外に出られるようなプラスの材料が何一つない。
携帯電話の電池残量を気にしてか、テレビを切る人続出。
避難していた我々は何処となくヘラヘラしていた。
不謹慎だが、笑い話をしていた。
実際、目の前で起きている状況と各地の被害の大きさが、自分とどう結び付くのか検討が付かないし、肉親の安否も分からず、連絡も取れない電波状況。
励ましあっていた、と言うより誰もが憔悴した表情の中でみんな神経がまともでなかったように思う。
日付が変わる頃、外を眺める。
停電で街は真っ暗だが、いつの間にか天気は月明かりの綺麗な空になっており、工場地帯の炎上する炎の影が紅蓮の半円を描いていた。
月明かりの下に見える町並みは、あちこちの路地や家と家の間に何十台もの車が押し付けられたかのように折り重なっている姿。
津波は荒波が収まったもののまだ引かず、家の1階部分床上まではあろうかという高さ。
何処の家の二階にも何十人という人が避難し、助けを呼ぶ大声があちこちから涌き出る。
室内に戻り、寝具として厚着するよう繋ぎの作業着や布団がわりの分厚い大サイズのビニール袋が支給される。
ラジオ付きライトが一台用意され、それを何百人もの人たちが聞いてるわけでもないが、耳を傾ける。
放送で被害状況について触れようする度に緊急地震速報が流れ、茨城と長野の大きな地震が立て続けに起こっている状況に他人事ながら「日本は大丈夫か」と案ずる。
理工系大学を卒業したような人たちですら
・地震が南下している
・富士山が爆発する
・日本は沈没する
と真顔で話し始める。
私の携帯の電池残量も気になる一方、親族の安否が不安なので、被害について伝えるラジオを無視して寝ようとするも眠られない。
結局、12日の朝を迎える。
天気は快晴…抜けるような青空。
4階から外に出る。
まず飛び込んできたのは何千メートルにも達するような猛々と昇る黒煙。
後でガスタンク爆発と知ったが、その時は近いのか遠いのか分からず、ただ呆然と見つめるのみ。
辺りを見回すと家は建っているが、フェンスは全て流され、大型駐車場に止めてあった車が一台もなくみな、何処かの建物に突き刺さっていたり、折り重なっていたり…この世の現実とは理解出来ない光景。
そして引かない津波は膝くらいまであり、黒くガソリンや灯油などが入り交じった黒い濁った色をして周囲を覆っている。
地震後、最初に避難した屋外避難箇所にも車が何台も重なり、不幸にも車から投げ出された女性が車の上でうつぶせになりぐったりと……
午前中、何百人もの人たちが油の海を突破してでも帰ると言い出し、施設の防災担当から、強行歩破の許可が出る。
実際、津波被害の遭った直中を水に浸りながら進むのは怖い。
道が道ではなく、空いたマンホールに落ちればそれまでの命にさえなってしまう。
みんなで列を作り、慎重に施設を歩き、水が冷たいなんて感触もなく、一歩一歩安全を確認して進み、正門から片側二車線の道路に出る。
車は一台も走っていないので物凄い静寂に包まれ、遠くでヘリやサイレンが聞こえる。
とにかく自動車はみな津波に飲まれ、ぐちゃぐちゃ。
街中の店も一階は大変な事に。
夢か幻かとしか思えない。
何処まで行けば油の海が終わるのか、とにかく普段、歩く三倍の時間を掛けて、前へ進む。
そしてやっとアスファルトが見えて、一目散に水から這い出る。
油の海を抜けた瞬間からみんなの顔が物凄く晴れやかになり、煙草を車の通らない車道の真ん中で吸ったり、店の庭で輪になって座ったり…
「生き抜いた」と言う実感が湧いたのだ。
その日は10キロ歩き、運良く人の家に泊めてもらう事に。
途中の給水並びで福島第一原発の爆発事故のニュースをラジオで聞くも、もう他人事で、自分にどう影響するか考えられず、しかもこれほどまでの悲劇になるなんて。
とにかくその晩はよく寝た。
13日。
新聞を見ると被害甚大である事を理解。
情報を求め、仙台の避難所へ移動。
少なくなる食料・水の蓄えに勤しむ。
14日。
友人宅までまた10キロ歩く。
食料不足と食細りで急激に体力低下。
15日。
友人の車で地元情報が全くない中、突入。
実家の浸水状況に唖然としながら、肉親の無事を確認。
とにかく内陸深いところまで津波が押し寄せ、水が引かない状況に故郷の変わり果てた姿に辛くなる。
21日~。
実家の片付け・ヘドロの除去・ゴミ出し。
25日~。
出勤。とにかくお互い生き抜いた事に感謝。
4/11。
畳69枚搬出完了。
5/12。
庭420坪のヘドロ除去完了。
5/13。
実家の津波片付け(重量部門)粗方完了。
2ヶ月の自家用車以外の動きはこのような感じです。
気が付けば宮城でも壊滅地域以外のどの店舗も殆どが開店し、何でも手に入るまでに。
開店するかしないか分からないのに夜中から行列を作り、開いてる店を探すのに一苦労だった3月の街並みの印象は灰色の記憶。
地震・津波・飢餓・治安悪化・情報無……
でも私は生き抜いた。
生き抜いたからこそ贅沢だってしたい。
とにかく、あの世とこの世の境目に立たされた事はバチが当たったのかもしれないと考える時があります。
しかし此処までと言うか、大事にしたいモノ(クルマたち)を活かしたし、我慢もした。
シボレー エクスプレスにしろメルセデス・ベンツ V350は余分かもしれないですが、今、何処か満ち足りない「被災者」の立場で、無理をしてでもやらなきゃならない事が沢山あるのに原動力ゼロでは、前には進めない。
カネ って被災しても何にでも使えると思ったら大間違い。
金では買えない、助け合いが被災者の命は長らえる。
しかし、金はこれからどんどん飛んでいく。
その手始めに自棄っぱちになったと言えば、それも当たりだけれど、ここまで振り返って、かつ、今後の自分の原動力になるのなら、此処で贅沢してみたい!!そう思うだけです。

Posted at 2011/05/15 04:32:35 | |
東日本大震災 | ニュース