2011年05月15日
3/11から2ヶ月の歳月が過ぎ、実家の津波が引いてから片付けが忙しくテレビを見ない性で最近、被災地の現状がどのように伝わっているのか、分からないですが、相当、扱いが小さいのでしょうね。
死者:15000名余
行方不明:9000名超
戦後最大の自然災害も視聴率や部数獲得の競争の中で過去の話題として消えて行く運命なのか…
あの津波被害を目の当たりにした者に取って、一生、忘れられない悲劇。
それは2011年3月11日14時46分にやや大きな揺れで幕を開けた。
2日前の震度5強の余震と思っていたもののやがて揺れは縦揺れを伴い、激しくなってゆく。
立っていられなくなり、机の下に隠れると揺れは更に左右に強くなり、観葉植物が倒れ、棚の物がガラスを割って飛び出し、壁掛け時計が落ちて割れる。
揺れが長くにつれてデスクの上のPCが全て倒れ、引き出しも開きっ放しになる中で、机の下で柱にしがみつく。
やがて揺れが納まるかと思い立ってみたが、また強さを増す。
そして耐震構造施設の天井と壁がズレはじめ、空が覗けたような気が…。
女性の悲鳴と泣いている声があちこちから聞こえ、私は盛んに「天井が!天井が!」と叫んだ。
とにかく長い…長すぎて恐怖のドン底の中、室内照明が全て消える。
やがて揺れが段々、収まりを見せ始め、もう動いてもいいと思い、机の下を飛び出し、ワンセグ機器をみんなで取りだし、NHKのニュース速報を見る。
・栗原で震度7
・宮城・岩手・福島に大津波警報発令
とにかく、予想していた宮城県沖地震がいよいよやって来たかと覚悟した。
長い揺れが漸く収まり、ドアの電動ロックを職場のトップが壊して全員屋外へ。
屋外へ行く途中、天井のズレ具合から「もう後戻りは出来ない」と察知し、携帯含め、全荷物をロッカーから持ち出して避難。
屋外に出ると意外に住宅街の目立った被害は少なく、小雪が舞う、寒い曇り空。
沿岸2キロ地点なので津波に対する警戒心はないものの、次々起きる、強い余震に怯え、電柱から離れるよう指示される。
防災無線で大津波警報の避難指示が出され、我々も常日頃、職場に用意されている津波マニュアルに則り、地震で若干ヒビの入った近くの工場施設の4階へ避難。
屋外に出てから再度工場に入るまで10~15分。
横二列で建物を掛け上がるも、立地から津波に関して「此処まで来ないだろう」と言う勝手な解釈で居たのが大きな間違い。
後で知った話で列の最後尾にいた人たちが階段を昇る頃に津波が膝まで水に浸かり、避難が終わったと同時に濁流が押し寄せたとの事。
間一髪。
周囲の人の携帯ワンセグテレビを見たところ
・茨城県沖でも強い地震が発生
・仙台空港に津波が押し寄せている
・航空自衛隊松島基地も同様
・気仙沼市が津波で壊滅し、大火が起きている
と次々信じられないニュースが流れて目を疑う。
外では濁流が猛スピードで街を襲い、自動車が意図も簡単に流され、人や建物の内部も流れていくおぞましい光景。
次から次へと沿岸や大通りから様々な物体が通りすぎ、人々は濁流の中、塀やフェンスにしがみついて見知らぬ人の家に上がり込み、二階へ逃げる。
住人も逃げ遅れて水に浸かる人に上がって来るよう大声を出す。
将に地獄絵図。
夜になると停電で辺り一面真っ暗の中で工場地帯から赤々と炎が上がり、緊急車両のサイレンが途切れる事なく鳴り響く。
避難施設の非常電源で何とか暗闇は免れていたが、夜も更ける頃、段々、照明が暗くなり消える。
一同、パニック。
工場施設の非常電源が切れるのだから事態は深刻。
ワンセグ放送では東日本太平洋岸各地の津波被害について逼迫したリポートをする模様を放送しているが、何ら自分たちが外に出られるようなプラスの材料が何一つない。
携帯電話の電池残量を気にしてか、テレビを切る人続出。
避難していた我々は何処となくヘラヘラしていた。
不謹慎だが、笑い話をしていた。
実際、目の前で起きている状況と各地の被害の大きさが、自分とどう結び付くのか検討が付かないし、肉親の安否も分からず、連絡も取れない電波状況。
励ましあっていた、と言うより誰もが憔悴した表情の中でみんな神経がまともでなかったように思う。
日付が変わる頃、外を眺める。
停電で街は真っ暗だが、いつの間にか天気は月明かりの綺麗な空になっており、工場地帯の炎上する炎の影が紅蓮の半円を描いていた。
月明かりの下に見える町並みは、あちこちの路地や家と家の間に何十台もの車が押し付けられたかのように折り重なっている姿。
津波は荒波が収まったもののまだ引かず、家の1階部分床上まではあろうかという高さ。
何処の家の二階にも何十人という人が避難し、助けを呼ぶ大声があちこちから涌き出る。
室内に戻り、寝具として厚着するよう繋ぎの作業着や布団がわりの分厚い大サイズのビニール袋が支給される。
ラジオ付きライトが一台用意され、それを何百人もの人たちが聞いてるわけでもないが、耳を傾ける。
放送で被害状況について触れようする度に緊急地震速報が流れ、茨城と長野の大きな地震が立て続けに起こっている状況に他人事ながら「日本は大丈夫か」と案ずる。
理工系大学を卒業したような人たちですら
・地震が南下している
・富士山が爆発する
・日本は沈没する
と真顔で話し始める。
私の携帯の電池残量も気になる一方、親族の安否が不安なので、被害について伝えるラジオを無視して寝ようとするも眠られない。
結局、12日の朝を迎える。
天気は快晴…抜けるような青空。
4階から外に出る。
まず飛び込んできたのは何千メートルにも達するような猛々と昇る黒煙。
後でガスタンク爆発と知ったが、その時は近いのか遠いのか分からず、ただ呆然と見つめるのみ。
辺りを見回すと家は建っているが、フェンスは全て流され、大型駐車場に止めてあった車が一台もなくみな、何処かの建物に突き刺さっていたり、折り重なっていたり…この世の現実とは理解出来ない光景。
そして引かない津波は膝くらいまであり、黒くガソリンや灯油などが入り交じった黒い濁った色をして周囲を覆っている。
地震後、最初に避難した屋外避難箇所にも車が何台も重なり、不幸にも車から投げ出された女性が車の上でうつぶせになりぐったりと……
午前中、何百人もの人たちが油の海を突破してでも帰ると言い出し、施設の防災担当から、強行歩破の許可が出る。
実際、津波被害の遭った直中を水に浸りながら進むのは怖い。
道が道ではなく、空いたマンホールに落ちればそれまでの命にさえなってしまう。
みんなで列を作り、慎重に施設を歩き、水が冷たいなんて感触もなく、一歩一歩安全を確認して進み、正門から片側二車線の道路に出る。
車は一台も走っていないので物凄い静寂に包まれ、遠くでヘリやサイレンが聞こえる。
とにかく自動車はみな津波に飲まれ、ぐちゃぐちゃ。
街中の店も一階は大変な事に。
夢か幻かとしか思えない。
何処まで行けば油の海が終わるのか、とにかく普段、歩く三倍の時間を掛けて、前へ進む。
そしてやっとアスファルトが見えて、一目散に水から這い出る。
油の海を抜けた瞬間からみんなの顔が物凄く晴れやかになり、煙草を車の通らない車道の真ん中で吸ったり、店の庭で輪になって座ったり…
「生き抜いた」と言う実感が湧いたのだ。
その日は10キロ歩き、運良く人の家に泊めてもらう事に。
途中の給水並びで福島第一原発の爆発事故のニュースをラジオで聞くも、もう他人事で、自分にどう影響するか考えられず、しかもこれほどまでの悲劇になるなんて。
とにかくその晩はよく寝た。
13日。
新聞を見ると被害甚大である事を理解。
情報を求め、仙台の避難所へ移動。
少なくなる食料・水の蓄えに勤しむ。
14日。
友人宅までまた10キロ歩く。
食料不足と食細りで急激に体力低下。
15日。
友人の車で地元情報が全くない中、突入。
実家の浸水状況に唖然としながら、肉親の無事を確認。
とにかく内陸深いところまで津波が押し寄せ、水が引かない状況に故郷の変わり果てた姿に辛くなる。
21日~。
実家の片付け・ヘドロの除去・ゴミ出し。
25日~。
出勤。とにかくお互い生き抜いた事に感謝。
4/11。
畳69枚搬出完了。
5/12。
庭420坪のヘドロ除去完了。
5/13。
実家の津波片付け(重量部門)粗方完了。
2ヶ月の自家用車以外の動きはこのような感じです。
気が付けば宮城でも壊滅地域以外のどの店舗も殆どが開店し、何でも手に入るまでに。
開店するかしないか分からないのに夜中から行列を作り、開いてる店を探すのに一苦労だった3月の街並みの印象は灰色の記憶。
地震・津波・飢餓・治安悪化・情報無……
でも私は生き抜いた。
生き抜いたからこそ贅沢だってしたい。
とにかく、あの世とこの世の境目に立たされた事はバチが当たったのかもしれないと考える時があります。
しかし此処までと言うか、大事にしたいモノ(クルマたち)を活かしたし、我慢もした。
シボレー エクスプレスにしろメルセデス・ベンツ V350は余分かもしれないですが、今、何処か満ち足りない「被災者」の立場で、無理をしてでもやらなきゃならない事が沢山あるのに原動力ゼロでは、前には進めない。
カネ って被災しても何にでも使えると思ったら大間違い。
金では買えない、助け合いが被災者の命は長らえる。
しかし、金はこれからどんどん飛んでいく。
その手始めに自棄っぱちになったと言えば、それも当たりだけれど、ここまで振り返って、かつ、今後の自分の原動力になるのなら、此処で贅沢してみたい!!そう思うだけです。

Posted at 2011/05/15 04:32:35 | |
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