
先の追突事故により、アクセラがディーラ様にて入院手術を受けているので、九月の旅行先が変更する必要が生じました。(ちなみに、代車は現行デミオ13C。意外や意外に良いクルマだw)
本当は伊豆に行く予定だったのですが、八丈島になり、どーしても八丈島の天候が回復しないので出発の二日前に突然「長崎に行こう」と大幅に行先変更に踏み切りましたw
で、長崎旅行に行くに当たりどーしても行きたい場所が!
そこは
「軍艦島」です。
私、別に廃墟マニアという訳ではないのですが、ココだけはかねてから非常に興味を持っていた場所。
実は、公に上陸を許可されツアーなどで行けるようになったのはここ2年ほどの事らしい。
それまでは、海上タクシーや漁師のおじさんに頼み込んで連れて行って
不法上陸していたのだとか(笑)
9月5日~9月6日までの一泊2日の男独り旅
羽田空港からANA機で長崎空港へ。行き帰りともに機種はB777-200。全く、航空機もつまらない時代になったもので、空港から見える機体はほぼ、双発機しかみえない。
日航からB747が全て退役したと聞いたが、ANAも現在は数機を残してるのみとか。。
そりゃ、効率面やら運用コストの視点から言えば、双発機がベストなのだろうが、ブッチャけ双発機はどれも同じにしか見えないし、美しくないと思います。。
長崎に到着し、高速バスに乗り換え長崎市内へ。
市街地までは、約40分ほど。運賃は800円で、バスの本数も多いですね。正直、地方空港ですが市街地へのアクセスにストレスは感じませんでした。
市内に入り、滞在するホテルの近くのバス停で下車。
まだチェックインまで、時間が余っていたので市内観光へ。
~☆行った場所~
☆先ずは、オランダ坂。
ただの坂でした。ガッカリw
☆続いて大浦天主堂へ、オランダ坂より徒歩10分ほど。入館料300円
☆定番のグラバー亭
なぜだか、エントランスには大量の中国人観光客。正直、足の踏み場がなかったし、非常にうるさかったのでグラバー亭は翌日に変更。
☆「LEGEND OF THE SEAS」
港へと歩いていると、ビルだと思っていた前方に存在する構造物が実は桁違いに大きな、
「船」であることが判明。これには本当に驚きました(笑)
船名は上記のレジェンド・オブ・ザ・シーズ。
総トン数70000トンを有する、巨大客船だとか。ちなみにほぼ戦艦大和に匹敵する船体ですね。(船体幅、高さに違いはありますが)
☆出島 入館料500円
先ほどの、巨大客船に興奮した余韻を残しつつ市街地へ。
この旅行本当に何も計画していなく、長崎市街地の地図や現在地も全く把握していなかったので、適当にホテルの方角と思える方向へ歩いていると、2つの古そうな西洋風建築物が見え入館料500円の案内が。
まだ時間が余っていたし、特にほかに行きたいところもなかったので入館。
私アホなので、入館して30分ほど経って現在いる場所が、出島だということに気づきました(笑)
というのも、現在の出島は開国後の度重なる埋め立て工事により、完全に市街地の中に存在する形となっています。
なんだかんだ、歴史は好きな分野ですので隅々まで展示物を見て回り3時間ほど滞在しホテルへ。
今回はドーミーイン長崎に滞在。
ビジネスホテルなのですが、大浴場あり、客室も狭いながらも清潔で一通りのモノが揃っているし、朝食はバイキングの品数多くて美味い、スタッフに美人が多い(笑)
と、結構満足度が高いので一人旅行の際はお世話になることが多いかも。
日が変わり、ホテルをチェックアウトし今回の旅行最大の目的へ。
今回お世話になるのは「軍艦島コンシェルジュ」さん。
スタッフの方皆、スゲェ親切、丁寧、程よい距離感で驚くほど社員教育しっかりしてました。
比較的、小さな20~30人乗りの高速艇に乗り込み、出港。
早速目にするのが、三菱造船所長崎工場。進行方向右手に見えるのが、戦艦武蔵を建造したドック群。その武蔵を建造したBERTH2には現在艤装中と思われる、新型護衛艦「あきづき」級が見えました。傍らにはこれまた艤装中の60000トンクラスのRo-Ro自動車運搬船の姿が。
なんでも5000台前後の自動車を一度に運べるとか(笑)
進行方向左手には、
1000000トンドックが見えてきた。百万トンですよ百万㌧。
必要とあれば、造れない船はないのでしょうね。
三台並んでいる、クレーンも半端なく大きく高さ100m幅200m近くだとか(笑)ちなみに吊り上げ能力は
手前の二台が600tで一番奥が1200tらしい。。そして、レールの上を自走化なのであるw
天候は雲量も少なく、晴天で波も非常に少なく外洋に出ても殆ど揺れずに快適な小さな船旅を楽しめましみつつ、見えてきました軍艦島。(途中の島々の事は省かせていただきます。とんでもない量になるので)
進行方向に存在する島影から、その何とも形容しがたい姿を目にした瞬間鳥肌が立ちました。
それがどんどん大きくなるにしたがって、心臓が高鳴るんです。27歳にして。
なんだろうな~言葉で書くのは簡単なんですが、軍艦島だけ時が止まってるんです。周りの見える景色と比べると明らかに異様すぎる景観。なんなのこの景色は??
写真では見たことあるけど、実物は言葉では伝えきれません。。
そして、いざ桟橋から上陸へ。。
いよいよ上陸。上陸後初めて目に入ったのは、3号棟。島の最上部に位置する幹部用の建物。ちなみに軍艦島の建造物は1棟を除き全ての建物に~棟という番号が付いている。
ここからは。。
余りにも文量が多くなりすぎると、思いますので特に印象に残った点。
☆死のエレベーター
軍艦島は石炭の採掘で莫大な富を得ていた。付近から採掘される石炭の熱量が非常に高く、良質な石炭が採掘されたという。ではどうやって、採掘現場まで行ったか?
現在では、その姿は現存しないのだがかつてはクレーンのようなタワー状の構造物が存在し、地上から地下600m!やらそれ以上、最深部は地下1000m近かったとか。
毎秒8mという速度で
真っ逆さまに落下していたようだ。
勿論、現在のような超快適な高速エレベーターとは対極の存在である。
真っ暗何も見えやしない中のフリーフォール。そう現在のフリーフォルに例えられるとおもいます。規模は桁違いだが。
事実。初めて乗る人間の殆どは失禁してしまったようだ。
地下に着いたら、頭上のヘルメットに着いている懐中電灯の視界は2m程だとか。を頼りに奥に奥へと進んでゆく。
勿論、全ての人が生きて地上に帰れるとは限らないのである。時には落盤、頭上は当然
海なので浸水、当然粉じん爆発もあっただろう。閉山までに200人以上の方が命を落としたとか。
地下で命を落としたら、地上に出るまでずっとかたらわらで声をかけ続けたそうだ。なぜか?亡骸と共に魂も連れて帰る為にずっと声をかけ続け地上で待つ家族のもとへ送り届けたと話を聞いた。
☆サイレン
幅160m縦480mの小さな小さな半人工島とも言える小島に最盛期は5300人もの人々は暮らしていました。
上記のフリーフォル型エレベーターの見える位置には70号棟という建物があります。小中学校が入る建物で最上階には保育園が存在したとか。
当然、上記のような事故が起こった場合地下からサイレンが響いてまいります。サイレンが聞こえますと、自分の父親が仕事に行っている子供は勉強どころではなかったとか。
同様に、24時間稼働のベルトコンベアーが止まった際も人々は地下で事故が起こったと心配していたようです。
☆高層建築群
軍艦島といえば、その不釣り合いすぎる高層建築群。最古のものは大正時代もので95年前とか!
当時まだ東京や大阪でもあまり見ることのできなかったしかも当時最先端の、鉄筋コンクリート製で6階や7階建て。(当時は4階を超える、鉄筋コンクリート製は非常に稀だとか)
なぜ、高層にする必要があったかと言ったら、当然人口対策。
最盛期は東京の9倍の人口密度であったらしいです。。
所長宅&教員用のアパートちどり壮を除き、住居は全てが高層建築だ。
現在はその外観は辛うじて、維持しているが長年の潮風や台風によるダメージでボロボロ。当然、外窓は存在せず、海に近い建物ほどダメージは強いように見える。
☆軍艦島まとめ
今回の軍艦島見学をただ楽しかったとか、興味深かった、とかで僕は終わらしたくはないとおもいました。歴史的背景や当時の日本の立ち位置を振り返った場合の光と影と言いますか、開国し西洋列強と並ぶため、追い越すために必死になって坂を駆け上がっていった明治大正時代。
ほんの僅かな戦間期。
敗戦後、全てを失い焦土と化した本土の復興を支え、高度経済成長と共に歩み・・・
やがてエネルギーが石油にとって代わり役目を終えるまで。
非常に長いようで。。実は人の一生ほどの時間だったのですね。
アホなので上手くは表現できないし、決して高尚なことを書くつもりはないけれど、
この場所は時代の生き証人かと思います。
先人たちの生きたあかしが僅かながら確認できました。
ここは。。本当に貴重な体験が出来たと思います。
もし長崎に行かれる機会があれば是非、参加されることをお勧めします!!
その後、昨日行けなかったグラバー亭に立ち寄り夕方の飛行機で東京へ。
自宅には日が変わるぐらいに帰り着きました。
久々に、天気にも恵まれ良い独り旅でした。