2017年12月30日
ご無沙汰しております。前回からかなり間が空いてしまいました。
幸い(?)昨年同様に31日は当直勤務になりましたので、おそらくは当直室でiPhone片手に今年の総括を記事にすることになると思うんですが、改めてご報告します。
先月11月28日、父が亡くなりました。享年71歳です。
最近の平均寿命やら、今の職場の入居者さんたちと比べればあまりにも短く若いと言えるでしょう。
思えば、昨年の今頃はというと、今回の直接の死因となった胆管がんの手術を終え、主治医も驚くような回復ぶりで予定より若干早く退院し、ごく普通に生活していたわけで、まさかその一年後に骨になっていようとは、家族の誰一人も想像すらしていませんでした。
明けて今年の1月。
若干残ってしまった胆管の内部に、微量ながらもがん細胞が残ってるかも知れないとのことで放射線治療を開始。
当初入院していた南区内の病院では対応できないとのことで、隣の豊平区内にある病院を紹介してもらう事になりましたが、地下鉄駅からもさほど遠くない上に、治療自体も10~15分程度で終わるため通院でも事足りる内容でしたが、何分冬場で、しかも昨シーズンは記録的な大雪だったことから、大事を取って治療期間中入院して行うことになりました。
母親の介護申請を行ったのも、ちょうどこの時期。
父が入院した翌日、夜勤明けで帰宅すると、居間で倒れている母親を発見。周りをよく見ると、お恥ずかしい話ですが失禁しており、動きたくても動けない様子なのですが、「足が痛い」と訴えるだけで、具体的にどこがどう痛いのか判然としない状態になっていてどうにも出来ず、ひとまず着替えさせて車に押し込み、母が最後に勤めた定山渓にある病院へ車を走らせました。
そこの病院にいた副院長さんが、両親と私の旧知の方で、その先生の勧めとご厚意もあり、父が入院している間、検査入院という形で入院させていただき、併せて、そこの病院に付属する在宅看護センターを紹介して貰い、介護申請を行ったというのが流れです。
これについても、生前父は「もう少し早くやってやれば良かった。母さんには悪いことをしたな」と悔やんでいたことを思い出します。
やがて、父の放射線治療が終わり、週一回の外来での検査通院へと移行。
胆管摘出と放射線治療によって、手術前は「ステージ2b」という中の下ぐらいだった進行度合いもステージ1へと低下し、あとはこの先5年間に再発しなければいいねという話をしていた矢先、肝臓への転移が発覚したのが半年ほど前。
今思えば、世の中では小林麻央さんががんで亡くなったというニュースが駆け巡った頃でした。
それからというもの、まるで大倉山ジャンプ競技場のてっぺんから転げ落ちていくかの如く、急速に悪化していき、もうすぐ雪が降ってこようかという頃には、誰が見ても状態が悪いことがわかるぐらいまでになっていました。
この頃、抗がん剤による治療が始まっていたのですが、これの副作用というのがあまりにきついようで、ほぼ隔週で治療後に高熱が出て数日入院する事がたびたび起きていたり、白血球の数値がなかなか上がらず、抗がん剤の投与が出来ないという事も起き、本来だと週一回しなければならない抗がん剤も確実に出来ていませんでした。
先月の16日のこと。
父から「先生から検査結果の説明があるから来てくれ」と言われ、病院に出向いたわけですが、何故か私が先に診察室へ招かれました。
患者本人も交えて話すならまだしも、患者抜きで家族が先に呼ばれるという事に覚悟はしていたのですが、案の定悪い話でした。
診察室のモニターに映っていたのは、大半がガン細網に侵され真っ白く写った肝臓のCT画像。
そこで主治医から言われたのが、抗がん剤を投与してもそれ以上の勢いでがん細胞が増え続けていることと、長くて1ヶ月ぐらいしか生きられない、との話でした。
その後、病室に戻って父にもその件を話しましたが、結局最後まで余命の件は本人に話す事は出来ませんでした。
本人も気づいていた節があった事もあるんですが、いくら末期がん患者とはいえ、そう長くは生きられないと告知するって言うのは、個人的になんか違うような気がして…。
やがて父は20日に退院。これが生前我が家に戻る最後になってしまいました。
半年前には食欲も回復し、好きな晩酌も再開できるほどに回復していたはずの父も、この頃には小さいお椀に半分ぐらいのそうめんかうどん、食パン半分がやっと食べられるかどうかの状態になっており、大半はうずくまるように寝ていることが多くなっていました。
その姿を目の当たりにしていた私は何も言えず、ただただ迫り来る「父の死」という現実を前に、それすら受け付けず悩み続ける日々を送っていました。
そして、11月26日の夕方、父がステージ4に移行したことと、近いうちに忌引きを申請する事になる件を職場に報告。
その翌日の27日。夜勤明けで帰宅すると、悶絶して動けなくなっている父の姿が。
最初は車で病院へ連れて行くつもりでしたが、一刻の猶予も無い状態だったため救急車で搬送。
道中、信号で一時停止するたびに、インジェクション車とは思えないほどエンジンストール寸前までアイドリングが落ちるパラメディックにびくつきながらも病院へ到着。
一通りの手続きを終え、父に、
母さんのこともあるし、いったん家に帰る。弟もあとで来るっていってるし、オレも明日は休みだからまた来るよ。
父は軽く頷いたのですが、これがまともに会話した最後になってしまいました。
翌朝、血圧が70以下に下がったとの病院からの連絡で起こされ、着替えもそこそこに急行。
その頃の父は目を閉じ、まるでつり上げられたばかりの魚のように苦しそうに息をしている状態で、先に着いていた弟と見守るだけでしたが、私が呼びかけると目を開いてくれて何かを伝えたがっていたのですが、結局それを聞きとることすら出来ず、そのまま息を引き取りました。
それは、私が病室に着いてからわずか20分足らずの出来事でした。
あらかじめ余命宣告を聞いていた事もあると思いますが、自分でも驚くほど涙も出ず、それからは淡々と会社に連絡を入れ、出入り業者の葬儀屋へ連絡して父の帰宅を手配していました。
おかげさまで葬儀も無事終わり、奇しくも最初に手術を行った12月1日に荼毘に付すことが出来ました。
何でも、火葬って同じ遺体を高温で2回焼くんだそうですが、拾骨台に載せられた父の遺骨は、およそ人間の骨全体から考えるとあまりにも少なかった事に愕然としてしまいました。
2度焼いた事もあるんでしょうが、最終的にモルヒネを投与されたとか、放射線や抗がん剤の影響もあるんでしょう。おそらくは。
葬儀も、正直たいした祭壇も備えられたわけじゃなく、葬儀関係全体で総額70万円程度と、端から見れば決して立派とは言えない規模でしたが、こちらが想定していた以上の会葬者に来ていただき、いただいた香典ですべてまかなったどころか、少々余ったぐらいになりました。
そして、今日まで相続関係とか、今まで父の口座から引き落とされていた公共料金関係の手続きをやりながら、母の面倒を見ています。
環境の変化で急激に認知症状が悪化することも珍しくはないのですが、幸い母は父が死んだことを受け止めてくれているようです。
あとは、父の銀行口座とか父の名義になっている自宅の相続など若干残ってますけど、これらで動くのは年明けになりそうです。
実際体験された方ならわかると思いますが、これが煩雑で実にめんどくさいものばかりなのですよ。
それに、遺品整理もまだ終わってませんが、流石に49日を過ぎるまでは動けないですし、あまり早急にやるというのもおかしな話だと思っています。
生前、父は周りに迷惑をかけたくないので、墓も仏壇もいらないし、骨は庭に撒いてくれといっていたと弟から聞いてますから、多分、来年の5月一杯ぐらいまでは諸々の作業に追われることになると思います。
ちなみに、来月17日に四十九日を迎えます。父が放射線治療のために入院した日でもあります。
確か、「故人が現世から別れを告げる日」とされるのが四十九日と聞いた記憶がありますが、それががん治療の一環として放射線治療を始めるその日とは、因果なものですね。
Posted at 2017/12/30 02:27:06 | |
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戯れ言問わず語り | 日記