子供の頃、先生が変な自動車に乗っていた。
なんか普通と違う。
うるさいし、煙いし。四角くてへんなクルマ。
でも毎日見ているうちになんとなく忘れられなくなってた。
数年が経ち、少しだけ大人に近づいた。
そんなつもりでいる微妙な年頃。
仲間と徹夜で遊ぶようになり、近所の友人の家で朝を迎え、
適当に目が覚めると家まで歩く、そんな夏休みだった。
うっすらと朝靄が続く明け方の国道はどこまでもまっすぐで、一番遠い所で一つの点になる。
夏とはいえ、明け方は少し寒い。
路上には一台の車もなく、まるで静寂な世界に一人だけ取り残されたような不安な気持ちと、朝の空気の凛々しさ。
ふと、何かが聞こえたような気がして振り返った。
あの音だ。あの音が聞こえる。
久しく聞いていなかった、あの音。
姿は見えなくとも確信した。あの車だ。
朝靄で見えないが、甲高い音が聞こえている。
少しずつ音量を上げ、焦らす様に現れたその車は、
見せ付けるかの様にその音をドップラーさせて過ぎ去った。
存在感を強烈に誇示したその車は、背伸びしていた自分の心をを子供の頃に戻した。
姿が見えなくなるまでずっと目に焼き付け、耳で記憶した。
決して忘れる事の出来ない情景。
そしてこの時、全てが決まった。
俺、いつかアレに乗るんだ。そんな予感がした。
兄貴が免許を取り、暫くして車を買った。
驚いた。あの車だった。嬉しかった。
けど、何かが違う。
綺麗で、音も静か。形は同じなのに。
何故かはわからなかった。
モデルチェンジによって新しくなり、エンジンが変わっていた事を知った。
俺が気になっていたのは古い、もう販売されていない古いモデルだったのだ。
それから数年が経ち18になるとすぐに運転免許を取った。
しばらくは兄貴の車を借りていたが、所詮兄貴の車。俺のじゃない。
だから自分の車が欲しかった。
バイトしてお金を貯めた。
そして中古の車を買った。
もちろんあの車だ。
古いモデルの。所々錆びてる。あちこち漏れてる。それでも俺は満足だった。
そうだよ、俺が乗りたかったのはこっちなんだよ。
独特のエンジンフィーリング。古いが故に軽い。軽いが故の走行感。
兄貴は評価してくれた。
だが、自分がどんなにその車が好きでも、周りの人には全く理解されない。
古くてボロイ車。そしてその評価はこの後もずっと続く。
5年程乗ったある日、兄貴から電話があった。
「車変える事にした。俺の方が年式も新しいし、お前が乗ってるのと交換するか?」
正直動揺した。兄貴のは燃費がいい。加速も速い。雨漏りも無い。
静かだし、クーラーもカセットデッキも付いている。
錆びてもいない。もう、どうやっても交換しない理由が見つからない。
けれども自分の車もボロくともまだまだ走れる。何より気に入ってる。
どっちと決める事もできず、うやむやな返事を繰り返すまま2週間が過ぎた。
しかし、悩んでも考えてもどうしても決めることが出来ない。
兄貴から「どうする?」という連絡が毎日来るようになった。
明日決めると伝えた。
次の日、明け方に家を出た。
5年連れ添った俺の車。
最後を飾るに相応しい、よく晴れた最高のドライブ日和。
悩みがあるとき、俺はいつもあの山に行く。
もう何度も行きつくしたあの山。
楽しい思い出も悩み事も、この車とあの山はセットだったな。
車ははいつもと変わらない。エンジンも調子良い。
いつもなら気分よく走れるのだが、今日はとてもそんな気分にはなれない。
乗り味、エンジンの音、風切り音。鉄の匂い。車の匂い。
もうこいつとこの山に来ることも無い。
だから、全てを脳裏に焼きつけようとした。
全てを覚えていたい。
いつまでもこのままでいたい。
このままずっと走っていたい。
どこまでも。
どこまでも。
忘れたくない、今、この瞬間。
そして写真を撮る。
記念写真だ。
他人が見ても何の面白味もないただの車の写真。
とても大事な、最後の写真。
一緒に写ってる俺は全く笑ってない。
ひとりで運転していてもひとりじゃない。
ひとりと1台。いつもそう思って走っていた。
けれども、これからはひとりで走らなければならない、そんな淋しさを感じながら来た道を戻るしかなかった。
家まであと少しと言う所で、思いあって車を止めた。
十字路で切り返してUターンし、近くの河原へ向かう。
エンジンを止め、ウッドハンドルに頭を預ける。
アナログ時計の秒針が刻む小さな音だけが聞こえる。
どれ程の時間が経ったのだろう。
頭を挙げると周囲は少しだけ夕日に染まっていた。
そしてエンジンをかけた。
アクセルを床まで踏んで河原を滅茶苦茶に走った。
ハンドルを目一杯切ってスピンさせる。
バック全開からハンドルを切り、ブレーキ。
切り返して180度ターン。
トップギアでの発進。土手を駆け上り、滑り降りる。
自分でも何をやっているのか分からない。
初めて車を「可愛がらない」運転をした。
「何で壊れねぇんだよ!畜生!」
思いっきりダッシュボードを叩きつけた。
車は何も悪くないのに。悪いのは俺なのに。
夕陽を受けた土煙りに包まれて、辺りが何も見えなかった事を覚えている。
エンジンは何事もなかったかのようにアイドリングを続けていた。
泣いた。
運転席に座ったまま泣いた。
大好きだった、俺の車。
納車された日、うれしくて車の中で一泊したっけ。
さすがに次の日は部屋で寝たが、夜中に3度見に行ったな。
いまどきチョーク引く車なんて無いだろ。だがそこが良いんだよ。
夜中の始動は厳禁。近所から家の電話に苦情が来るんだよ。うるさいって。
なんかいいんだよね、この車は俺の弟みたいなもんだ。他人にそう説明してたな。
やっと取り付けたカーステは一週間後に雨漏りで壊れたっけ。
狭い車内、男四人で明け方まで語り明かしたな。
暖房つけてるのに暖房付けろよと言われたし。うるせーよ、コレで全開だ。
エアコンなくてウチワで扇いでいたら隣の車に笑われたな。
周囲の反対を押し切って缶スプレーで全塗装。辞めときゃよかった。
冬の寒い日、エンジンが掛からなくて遅刻したな。
踏切待ちの時、ガス欠で立ち往生。燃料計が壊れてた。後ろからクラクションの嵐。
煽られても怒鳴られても、動かないものは動かない。
付き合い始めたばかりの彼女を乗せて今日と同じ山に行ったっけ。
普段は調子良いのにそういう時に限ってエンジンが止まる。
憎らしく、かわいい奴め。
日曜の修理工場はどこも閉まっていた。
深夜、雪の降るなかを滑らせながらスキー場に行ったっけ。
2月の車中泊は結露した車内が凍って冷凍庫のように霜だらけ。
この車でやってはいけないと知った。凍死寸前だったよ。
狭いけど、後ろで対角線に斜めになれば寝られるぞと、彼女と二人で無理やり北海道一周車中泊。
出発早々、エキパイが折れてその後は爆音旅行だったな。
旅館でチェックアウトするとき従業員が「お客様の車、動かせないんですが・・・」だと。
あ~、無理無理、こいつは俺しかエンジン掛けられないのさ。
俺しか、な 。
そうだ。あの時から全て決まっていたんだ。
昔、思い描いた自分は今ここにいるんだ。
家に帰り、親に覚悟を話した。
「バカだよ、お前は」と言われた。
兄貴に電話した。兄貴は「そうか」とだけ返事をした。
それ以上は何も言わなかった。
時々、「なんで乗り換えないの?」と聞かれるが、そのたびに
「ん、金無いからさぁ」と答えている。
彼女はいつしか俺と同じ苗字になり、北海道旅行のビデオを見て娘が言う。
「車、同じなんだね」 と。
ダッシュボードの凹みを触ると、数々の思い出がよみがえる。
もう悩む事はない。
これからもずっと一緒だ。
俺の相棒、スズキジムニー SJ30
あのときの情景は、
今も脳裏に焼きついている