
東京・秋葉原駅前の総武線高架下にある電子部品商店街「秋葉原ラジオストアー」(東京・千代田)が11月末閉店し、64年の歴史に幕を閉じることになった。戦後日本のものづくりを支えてきた電気街を象徴する施設だったが、日本の家電メーカーがかつての勢いを失うと共に客足が遠のいて需要が低迷。「アキバに来れば何でもそろう」という魅力も、圧倒的な品ぞろえのインターネット通販にも押されていった。“アキバの顔”ともいえる部品街の盛衰とそこで働く人々の商売魂からは、エレクトロニクス産業の歴史と進化が読み取れる。
■間口3メートル、9店舗が共存
「ケーブルなら隣の店で売っているから行ってみな」。平日の昼下がりのラジオストアー。メイド喫茶の女性が客引きする大通りの喧噪(けんそう)とは対照的に、店内は静かな空気が流れている。7~8人の客が真剣に品定めをしていた。
ラジオストアーは細長い2階建ての建物。1階は電子部品店9店が軒を連ね、2階は事務所兼倉庫だ。1店舗あたりの間口はわずか3メートル弱、面積は7平方メートルほど。そんな空間に数千から数万の部品が所狭しと並ぶ。
「それぞれの店に得意分野がある」。ラジオストアー管理会社の9代目社長、竹村元秀さんは説明する。電子部品の種類は実に多種多様だ。それぞれの店がコネクター、コンデンサー、ねじなど強みをもってすみ分けてきた。竹村さん自身も、9店のうちのひとつ「マルモパーツ」を運営する。ライトの部品を買いに訪れた東京都世田谷区の黒沢信夫さん(65)は「中学生の時から通っている。ここに来れば何でもそろうから」と話す。
秋葉原には戦前から広瀬商会(現広瀬無線電機)や山際電気商会(ヤマギワ)などが店を構えていたが、「終戦直後は上野の山まで見渡せる焼け野原。何にもなかった」。電子部品店を秋葉原で開いた藤木常雄・中央無線電機相談役(89)は当時を振り返る。
秋葉原周辺には戦後の混乱期から、露天商が集まり、真空管などの部品を並べた。近くに電機工業専門学校(現東京電機大学)があり、学生が自ら組み立てたラジオを売り出したところ大ヒット。これを見て繊維など別の物を売っていた露天商まで真空管を扱うようになった。
その後、GHQ(連合国軍総司令部)は、道路の敷設・拡幅をするために露店撤廃令を出す。「生きる道を失うのは困る」と、露天商たちは屋根付きの代替地を要求。東京都は国と協力し、周辺の露天商に秋葉原駅のガード下に場所を提供した。
そんななかで1949年(昭和24年)、最初に誕生したのがラジオストアーだった。その後は隣接地に「秋葉原ラジオセンター」「秋葉原電波会館」など同様の商店街が開業。さらに周辺には小野電業社(現オノデン)などの家電店も次々と現れ、秋葉原は徐々に電気街の顔になった。
■電気街の顔に成長
部品街が秋葉原の主役に躍り出たのはこのころだ。1951年には民放ラジオ放送がスタートし、ラジオが身近な娯楽になった。当時の完成品のラジオの価格は、組み立てた場合のパーツの合計金額の2~3倍。客は部品街の隅々を歩き回って部品を調達し、自らラジオを組み立てた。今でも秋葉原には店名に「ラジオ」「無線」などを冠する店が多いのもこの名残だ。
そしてアキバの顔となった電気関係の店舗は、日本の高度経済成長を支えたエレクトロニクス産業の隆盛と軌を一にして栄えていく。
60年代は電子部品の時代から家電の時代へと移る。人々は豊かになり、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の「三種の神器」を求める客で秋葉原はごった返した。家電の頭脳である部品の需要も大きかった。メーカーの技術者などが大挙して押し寄せ、「あのころは何を置いても売れた」(竹村社長)という。
さながらラッシュ時の通勤電車のような混雑だった――。当時の電気街の繁盛ぶりを示す表現だ。部品類は飛ぶように売れて、売上代金をしまう場所がなく「段ボール箱に金を入れた」(竹村社長)こともあった。道には台車がひっきりなしに行き来し、「午前中納品しに行ったが歩けないから、午後出直して出向くなど、混雑は大変なもので、商売人は苦労していた」と中央無線電機の藤木相談役は懐かしむ。
電気街としての秋葉原の絶頂期はバブルのピークと重なる。任天堂のファミリーコンピュータなどが登場したのが80~90年代。ゲーム専門店やCD販売店が次々と登場したほか、自作パソコン向けの部品販売店も目立ち始める。90年には、ランドマークとなる「ラオックス・ザ・コンピュータ館」が全館開業した。
しかし、ヤマダ電機やコジマなど地方発祥の大規模な家電量販店が次々と店舗網を拡大していくと、秋葉原地盤の店は苦境に立たされる。2000年前後には、アニメやアイドル関連の「萌え系」の店舗が進出。05年にヨドバシカメラが駅前に進出したことで、秋葉原地盤の家電量販店は決定的な影響を受ける。
経営不振に陥った石丸電気はエディオンに、ラオックスは中国企業に、サトームセンはヤマダ電機の傘下に入った。サトームセン本店は07年3月に、石丸電気本店は今年3月に閉店した。
■バブル期以降、主役が交代
「いらっしゃいませご主人様」「1時間3000円でお散歩しませんか」。いまの秋葉原では、メイドや制服姿の女性たちが道行く男性たちにしきりに声をかける。街を歩く主役は若者と外国人観光客だ。
「アイドルの街じゃないですか」「アニメの街だと思う」。若者らに、秋葉原はどんな街か聞いてみると、こんな答えが返ってきた。若者には電気街というイメージがすっかり薄くなっている。
部品街の衰退を決定づけたのは日の丸家電メーカーの不振だ。日本メーカーが世界を席巻したかつての勢いを失い、工場が閉鎖になったり海外に出ていったりしたことが痛手だ。かつての上顧客だったメーカーに勤務する研究者や技術者が姿を消した。さらに手軽に比較、購入できるネット通販にも押され、ラジオストアーなどの部品商店街を訪れる客はめっきり減った。
ラジオストアー内に店を構える「パーツランド」の成田和隆社長に話を聞くと、以前は電子機器には欠かせないコンデンサーや可変抵抗がよく売れたが、ほとんど出なくなったという。
ここ数年は発光ダイオード(LED)照明の部品などに売れ筋が移った。店舗の看板や内装を施そうとする飲食店経営者などが購入していく。それでも客離れが進み、売り上げは10年前の7割減。「レジをたたく回数が減ってさびしい」(成田社長)
ラジオストアーの建物は老朽化し、いずれは閉鎖を考えなければならなかった。幸いなことに各店舗は、部品の製造や商社としてそれぞれ別の機能を持っている。昨夏の各社の会合で全会一致で閉店を決めた。「みんなが余力があるうちに閉じたほうがいいと思った。格好いい終わり方にしたかった」(竹村社長)
ラジオストアー運営会社は2014年1月期の決算をしめて清算。土地は東日本旅客鉄道(JR東日本)から借りていたので返却する。JR東日本側は「活用方法は未定」としている。
■ネットに刻む「ラジオストアー」
64年肩を寄せ合いながら経営してきた9店。そのうち1店は部品販売から撤退し、残る8店は近隣に移転するなどして営業を続けるものの、ラジオストアーの看板は消える。だが、その名はネット上で残る見通しだ。現在、ラジオストアーのホームページを製作中。9月にホームページでラジオストアーの閉店を表明して以来、閉鎖を惜しむ声が多く寄せられ、「こんなにブランド力があったとは」と竹村社長は感慨深げだ。
秋葉原にはラジオストアーのような部品街はほかにもある。ラジオストアーと隣接するラジオセンターの山本修右会長は「うちは閉めるつもりはない」と運営を継続する方針を示す。建物は別々とはいえ、1階部分はラジオストアーとひと続きになっている構造。その一角の明かりが消える衝撃は大きい。ラジオセンター内のあるテナントは「買い回り客が減って売り上げが減りそうだ」と危機感を抱く。
しかし、戦後たくましくサバイバルした露天商の商売魂は、形を変えて生き続けている。
ラジオセンターの山本会長の次男、山本真司さんは、秋葉原駅前で個人が作ったり集めたりしたフィギュア(人形)を売ることができるショーケースを貸し出す新事業を始めた。
1カ所あたりの賃料は月額1575―6300円。商品の購入者の多くは外国人観光客だ。「街の将来像が見えないから、常に新しいビジネスを考えなくてはいけない」と山本さん。日本の産業構造が変化し、電子部品店の2代目、3代目が次々と街を出て行く中、消費者のニーズをつかむため新ビジネスを考える人たちも少なくない。
電子部品から家電、パソコン、萌えと次々と姿を変え、様々な業種が共存している秋葉原。2008年には無差別殺傷事件が起き、歩行者天国も一時中止された。一時は街のブランドが失墜したが、この地をより魅力的な場所にすべく業種の垣根を越えて盛り上げる動きもある。
千代田区や地元企業などが出資する株式会社秋葉原タウンマネジメントが中心となって複数ある業界団体を束ね、街の清掃活動やパトロールなどを実施している。「子どもも安心して歩ける安全な街にしなくてはいけない」(小山淳総務部長)と話す。
戦後、人々はラジオや家電、オーディオ、パソコンなどのハードを求め、生活を潤してきた。秋葉原はそんな消費社会のニーズを満たすべく変化を繰り返し、成長を遂げてきた。現在はアニメやアイドルなどのカルチャー、つまりソフトが台頭し、世界に日本の文化を発信する一翼を担っている。
アキバの歴史は日本の産業の変遷を投影していると同時に、将来像を予見しているのかのようだ。今後、この街はどんな姿に進化していくのだろうか。
(日本経済新聞)
…やっぱりアキバの主だったんだな、あの学校(´・ω・`)