前代未聞の出来事である。法廷で被告人が自分を精神鑑定した精神科医(大学教授)を尋問した。やりとりを聞いているとどちらが被告人かわからないほど、質問は鋭く鑑定医はKO寸前まで追い詰められた。この模様はネットで読むことができるが、全文をここに掲載すると長くなるので興味のある人は下記のアドレスから見て欲しい。では内容を少し解説してみよう。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/091214/trl0912141741018-n1.htm
最初の一撃は、鑑定期間についてであった。普通3カ月の期間で行われるが、被告人は実質何時間自分と面接したのかと問う。教授の答えは1回1時間で計9時間くらいだと。そのうち質問用紙に書かれた質問が大半で、実際に普通の会話として話したのが2時間くらいしかない。だったら2日間で終わる鑑定ではないか?と。
これはよく言った!その通り。このような長い期間をかけるのは正確さを期してではなく、単なる権威付けのためである。被告人は精神鑑定が片手間仕事であることも教授から引き出している。
次に、ズバッと核心をついた質問を投げかける。
被告「あと信頼性についてですが、『人の心が分かるんですか』と聞いたとき、なんと答えましたか」
教授は覚えていないとか最初はぐらかすが、被告人は正確に記憶している。
被告「あなたが言ったのは『誰が見ても異常な精神状態の人はわかる。酒を飲んだら変わる人もわかる。あと、世間は精神鑑定を過大評価している』と言いだしました。思い出しましたか」
教授「そういう記憶はございます」と観念してしまう。
さらに次の質問がまた凄い。
被告「分かるというのは主観ですか、それとも理論ですか」
教授「はいでもあり、いいえでもあります。精神医学ではAかBかといわれたとき、AとBが矛盾しないこともあるんです」
被告「矛盾しないとは?」
教授「主観的でなければ面接は不可能です。ただ、面接で得られた結果を客観的な体系から診断していくということです」
この辺は、教授も精神医学の診断についてうまく説明はできている。そういうものなのだ、実際。
この後、被告はそこに理論はあるのかと容赦なく本質論に迫る。それもそのはず、実はこの被告人は学生の頃は数学が大好きで家に帰ってからもずっとやっていたという。
被告「理論があるなら100人とも同じ結論になる。理論とはそういうものです。学問とはそういうものです」
教授「そうとはいえません」 と応戦。 裁判長も助け船を出し「鑑定は人によって違うということです」とゲロってしまう。
人によって違う鑑定なら鑑定人なんか不要ではないか?いや中古車買い取り屋を自分の都合で探すように、鑑定人も検察、弁護側でそれぞれ好きなように利用できるということだ。
そこで被告人はここでもっともエクセレントな質問を出してくる。
被告「君はいつも『人の心は分からない』と言っていた。それなのになぜ、犯行までさかのぼって私の心が読めるのですか」
教授「全く理解できないというわけではないです」
被告「それは主観ですか」
教授「先ほどと同じ答えになりますが、主観で得た知識を体系に照らして・・」
結局、精神医学の診断学は最初に「主観」から始まるので、あとの体系が客観的だったとしても結局「主観」から逃れることが出来ない。
さらに被告人はこの後も教授をいいように散々いたぶるのだが、最後に一点だけ教授のことを認めた言葉を吐いて法廷を去る。
被告「鑑定主文で『自分は正常』と言っているのは正しいです」と。
まさに映画『羊たちの沈黙』に出てくるレクター並みのモンスターだ。今まで精神鑑定に関して、こんなに鋭く議論を挑んだ被告人はいなかっただろう。
それでは最後に、この被告は本当に正常なのだろうか? 中学校の時に飼っていた犬を殺されたの恨んで、関係のない元厚生事務次官の夫婦を平気で殺害する。
初公判では「起訴事実はおおむね認めますが、あくまで無罪を主張します。それは、私が殺したのは、邪悪な心を持つ魔物であると、今でも確信しているからです」と言っている。
この2点で数秒もかからず、この人はオカシイと誰でもわかるでしょ。それを3カ月もかけて作った鑑定主文が「被告人は正常である」とはどういうことか?まさに教授はこのモンスターの術中に陥ってしまったのである。
You cannot walk straight when the road bends........ (Romani proverb)
ブログ一覧 | その他
Posted at
2009/12/15 20:29:13