クリスマスを過ぎましたが、去る12月19日某地方紙にてキリスト教牧師の興味深い記事を拝見しました。以下転載です。
井伊大老と吉田松陰そしてクリスマス
小学一年生から三年生までの前半、終戦までの間、私達は「国史」を習いましたが、毎回心をわくわくさせながら先生の話を聞きました。
三年の一学期、忠臣楠木正成が千早城にこもって足利尊氏の大軍を向こうに回し、少人数で胸のすくような戦いをしたところで終わりました。
しかしその頃、六年生の何人から「井伊大老は悪い奴だ。吉田松陰のような忠君愛国の士を殺したからだ」という言葉でいじめられました。
彼らは幕末までの国史を習い、「安政の大獄」のことを言っていたらしいのですが、小学三年生では知っているわけがありません。また井伊大老(直弼)のことについても全く知りません。なぜ名字が同じというだけで、こんなに嫌な思いをしなければならないのか不思議でした。
しかし、そんな中でも慰めてくださった先生もいらっしゃいました。「もし井伊大老が反対を押し切って開国していなかったら、清のようにアヘンを押し付けられて国が滅びていたかもしれない」と。
後年、「当時のアジアで、ヨーロッパ列強の植民地にならなかったのは日本だけです。それは井伊大老のおかげです」と。言われる人もいました。
今年に入り、NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」を見るに及んで、井伊大老のこと、吉田松陰のことを少し学ぶようになりました。
松陰は若くして萩(山口県)の藩校「明倫館」で城主に講義したほどの秀才ですが、日本の国防について不安を持ち日本中を旅しました。そんな時、1853年ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し、次いで下田に来た時、アメリカへの密航を企てました。外国の文明を直に見て学びたいと思ったからですが拒否され奉行所に自首して囚われの身となりました。
その後、萩に護送されて囚人の身となりながら叔父が開いた「松下村塾」を引き継ぎ、十数畳しかない場所に多い時には50人以上の人々が学ぶために集まり、二年余の間に多くの人材を育てました。そこから久坂玄端、騎兵隊を作って倒幕の先頭に立った高杉晋作、明治の元勲となる山形有朋、伊藤博文らが輩出しています。
松陰の教育は「君の志は何ですか」と尋ねることから始め、本を読み、考えさせ、知識の受け売りではなく、その人の自主性と人格を磨こうというものでした。
井伊大老は外国人嫌いの孝明天皇(明治天皇の父)が開国の許しをくだされないので、独断で日米修好通商条約を締決。これに怒った尊王攘夷派の貴族、藩主、志士達が「井伊討つべし」と決起するのを取り締まる為、彼らを捕らえて罰したのが「安政の大獄」で松陰は、この時、井伊大老から京都に遣わされていた老中の間部詮勝(まなべあきかつ)を討つべきと考えていることが幕府に知られて江戸に護送されました。井伊大老は遠島程度にしておこうとしたのが、取り調べ中に間部暗殺を口にしたため斬首となったのです。1859年10月27日、享年30歳。
その後、幕府の権威を守ろうとした井伊大老も、翌1860年3月3日、登城の途中、桜田門外で水戸の浪士ら18人によって暗殺されたのでした。45歳でした。
「花燃ゆ」の中で、松陰が「私は籾(もみ)にならなければならない」と話す場面がありますが、松陰を尊敬していた坂本龍馬も「私は籾(もみ)にならなければならない」と言っています。
松陰が聖書を読んだという形跡はありませんが、今日までの松陰の影響を考えますと新約聖書のイエス・キリストの言葉が浮かんでまいります。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」ヨハネ福音書12章24節
一粒の麦として死なれたイエス・キリスト降誕の季節、クリスマスが近づいてまいりました。 以下省略
※画像はお借りしました
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庄助『今日の出来事』 | 日記
Posted at
2015/12/28 13:36:55