姥が懐(西脇市・旧黒田庄町)
黒田官兵衛生誕地の石碑が建つ姥が懐
2014年03月10日

姥が懐は「播磨古事」に記載された伝承によると、多田城(構居)に付随する邸宅跡と伝えられています。
城山と黒田城下を流れる川に囲まれた田畑の周辺が「姥が懐」と記されていて、現在では「黒田官兵衛生誕地」の石碑が建っています。
現地説明板では下記の通り説明されています。
近年日の目を見た黒田家略系図によると、播磨黒田氏は、赤松円光(赤松則村円心の弟)を元祖とする赤松庶流の一族です。
略系図は観応2(1351)年3月円光の子・七郎重光が多可郡黒田城に移り、父母のために円光寺を建てると記載をしています。彼が黒田七郎重光と名のり黒田家初代となります。
重光-重勝-重康~・~重隆ー(9代)治隆まで二百数十年にわたり存続しましたが、9代治隆の時代、元亀の頃(1570年代始め)丹波の赤井五郎・川向い石原城の石原帰部助連合軍の突然の襲撃に敗れ、黒田城は滅亡しました。
一方、(治隆の)弟の孝隆(よしたか)は、それより早く姫路城主・小寺美濃守職隆の猶子(養子)となっており、姫路城主・小寺政職の家老になっていました。この小寺官兵衛孝隆が豊臣秀吉の参謀役として有名な黒田官兵衛孝高(如水)です。
西側、この場所より北谷川ガードレールに囲まれた田畑の字名が「姥が懐」と残り、天明4(1784)年姫路小寺家菩提寺の心光寺の古記録を閲覧すると、その中に、「小寺官兵衛祐隆後改孝隆。氏改め黒田。入道して如水という、播磨の国多可郡黒田村の産なり。其所の名に寄て、後、黒田氏に改めて、当城に相続して居す(当城は姫路也)」を発見記述し、心光寺和尚入誉と黒田藩中村平市が黒田村の現地調査に訪れ、黒田村古老から多くの聞き取りと、現地案内を受け、その記録が「播磨古事」として現在福岡市博物館の蔵書として存在します。
その内容は黒田城壊滅から二百十数年をへてすべて田畑に変わるも黒田村の故事について尋ねる問いに、「答えて云、此多可郡黒田村の多田の古城と申すハ、今の筑前国主のご先祖の城址にて、姥が懐といふハ、其比の邸宅(ヤシキ)の古跡にて、畑の字に残れり。」と記述しております。黒田官兵衛は、屋敷があったこの地で生まれたと思われます。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第6話「信長の賭け」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H26.3.4
住所: 兵庫県西脇市黒田庄町黒田
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