琵琶湖の西北岸へと注ぐ安曇川の上流部は,深い渓谷をなし,朽木谷と呼ばれています。その左岸の小規模な河岸段丘面上において,12世紀後半から13世紀前半の庭園遺構が発見されました。
池の沢庭園遺跡は、後一条天皇の皇子が藤原一族とともに都より隠棲地を求めた説と、朽木の領主の姫が病気になり、その姫を住まわせる屋敷をつくられたとする説があります。
庭園が位置する段丘面は、東西約60m、南北約175mの平坦な地形を成し、北を小規模な谷地形に臨み、西からは急傾斜の斜面が迫り、東から南にかけては安曇川との間に比高約22mもの急峻な段丘崖が連続しています。
三方を傾斜面又は断崖により隔絶されていますが、眼下には安曇川の渓流を望み、対岸には比良山地とその最高峰である武奈ヶ岳(標高1,214m)を遙に望むことのできる優秀な風致景観の立地環境にあります。
庭園は,段丘面に存在する旧河道の窪みや山裾から湧き出る水を集めて池または遣水状の流れとなり、露出するチャート質の岩盤の高まりを取り込んで築山や中島とするなど、自然の地形・地質をを巧みに利用して造られています。
特に、北岸の築山から池へと迫る荒磯風の石組をはじめ、流や岬状遺構に沿って緩やかな汀線を描く州浜状の玉石敷などには、独特の作庭形態や意匠が見られます。
発掘調査で出土した土器から、池泉は12世紀後半に造営され、その後2回の改修を経て、13世紀前半に廃絶されるまで、ほぼ3時期にわたる意匠・構造の変遷が確認されました。
当初(Ⅰ期:12世紀後半)は、西北隅部の湧水地点から、南に向かって池泉の西岸が石積で護岸され、東に向かって露出した岩盤を取り込んで荒磯風の意匠が施されました。湧き出た水は段丘面上を広く満たし、西岸に近い池のほぼ中央の位置に中島が配置されました。
その後(Ⅱ期:13世紀初頭)、東の段丘崖が安曇川により浸食を受け、池泉の東北岸が削られて水位が下がったため、段丘崖の水の落ち口付近に新たに地形の高まりを造り、玉石を敷き詰めて洲浜状の汀線が築かれました。池泉の水域の規模も縮小し、南半部が水生植物に縁取られた湿地を成し、中島は水域と湿地との境界付近に浮島のように残されました。
さらに(Ⅲ期:13世紀前半)、段丘崖が崩落し、水位が下がったため、それ以前の池泉は流れを中心とする意匠へと改められました。湧水池点は変わりませんが、湧き出た水が緩やかに蛇行するように流れの両岸が新たに整地され、遠浅の洲浜の形姿を象って玉石、礫が成立しました。北岸の築山に露出するチャート質の岩盤の周囲に玉石、礫を盛り上げた細長い岬状遺構が造成されました。岬状遺構の先端付近に立つと、築山縁辺部の岩盤を利用した荒磯風の意匠を背景として、左手奥の湧水池点から、段丘崖の上端に石で組まれた滝状の水の落ち口(池尻)に至るまで、玉石・礫により意匠されて穏やかに蛇行する流れの全容を望むことができます。
以上のように「朽木池の沢庭園」は、安曇川上流左岸の段丘面上の湧水を利用し、流れと池泉を中心に作庭された平安時代末〜鎌倉時代前期の庭園遺構です。そこには築山から池辺に迫る岩盤を利用して作られた荒磯風の石組、池泉の汀及び流れに沿って広がる洲浜状の玉石敷など、自然な地形・地質を活かした独特の意匠・構成が見られます。
同時期に都の郊外に営まれた庭園遺構の事例は極めて少なく、日本庭園史上の空白期を埋める貴重な遺跡であることから、平成24(2012)年1月24日、国の名勝に指定されました。
(現地説明板などより)
湧出館(わきでやかた)遺跡は、比良山地と丹波高地に挟まれた朽木谷を北流し、琵琶湖に流れる安曇川によって形成された河岸段丘上に位置します。地元では、この湧出館遺跡に関する次の伝承が残っています。
その昔、朽木氏には一人の姫君が誕生されました。その姫君は、日ごとに美しく成長されたが、年頃になられるにつれて病の身となられ、病気は日増しにつのり、人目をはばからなければならないようになりました。
そこで朽木氏は、つながりのある村井の里人に頼み、ここに、その姫君のために屋敷をつくれました。その姫は「湧出姫」という名前で、その後、その姫君がどうなられたかわかりませんが、村井には「湧出」と云う地名が存在し、ここに、その姫君の屋敷である「湧出館」があったとされています。
この湧出という地名が、姫君の名前から由来しているものか、あるいは、地名から湧出姫というのかわかりませんが、湧出姫の伝説は、今も語り伝えられています。
〔昭和55(1980)年朽木村教育委員会刊「朽木の昔話と伝説」より引用〕
この伝承を示す遺構などの痕跡は確認されていませんが、平成16(2004)年に、この地域一帯で行われた圃場整備の際に、飛鳥~奈良時代の土器片や平安時代末~鎌倉時代にかけての土器片が発見されました。
特に、平安時代末~鎌倉時代にかけての土器片が発見されたことは、南側の棚林谷を挟んで隣接する「池の沢庭園」と同時期であることが判明しました。このことから、庭園に伴う居住空間が、この湧出館遺跡に存在していた可能性が考えられ、今後の調査が期待される遺跡です。
(現地説明板などより)
朽木氏岩神館遺跡は、高島市朽木岩瀬の
興聖寺境内一帯(東西120m×南北160m)に位置し、同じ境内には名勝旧秀隣寺庭園が存在します。
庭園と館は、安曇川によって形成された河岸段丘の縁に位置し、眼下に流れる安曇川と対岸の集落を見下ろし、その背後の蛇谷ヶ峰を遠くに望むことができる立地にあります。東側の眼下には若狭街道が通り、西側の背後には岩神館の遺構である土塁や堀が現在でも残っています。
岩神館が造られた詳しい年代は不明ですが、享禄元(1528)年に室町幕府第12代将軍足利義晴が京都の兵乱を避け、朽木稙綱を頼って朽木の地に身を寄せたとされています。朽木稙綱は、将軍のために「岩神館」を造り、この館内に作庭した庭園が旧秀隣寺庭園として現在に至ります。
岩神館の遺構は、境内南半分を占める墓地の西側にコの字形に残る土塁と空堀が残っています。土塁は南北56mが完存し、両端は東方に向かって直角に折れます。北端は11.5mが、南端では29mが残存します。空堀は、土塁の外側に薬研堀状に巡っており、西側部分では堀底より土塁頂部まで2.5mを測ります。南側の土塁先端よりさらに9mの前方まで、堀の痕跡が残ることから、往時は土塁と共にさらに東方の崖端まで続き、この館の弱点である南方部分の防備を固めていたと考えられます。
庭園は、安曇川の清流とその背後の蛇谷ヶ峰が望める池泉鑑賞式庭園で、左手の築山に組まれた「鼓の滝」から流れ出た水は、鯉魚石とされる水分石を流れ落ち、池泉に注ぎます。曲水で造り上げた池泉には石組みの亀島、鶴島の2つの中島を浮かべ、最もくびれた中央付近には自然石による石橋を架けます。随所に豪快な石組を配し、非常に多くの景観と作庭意匠を用いる庭園です。この庭園は、室町幕府管領の細川高国が作庭したとされています。高国が作庭したといわれる三重県津市美杉所在「名勝北畠氏館跡庭園とも類似することが指摘され、中世末期の武家庭園として観賞できる数少ない名勝庭園です。
(現地説明板などより)
![興聖寺(岩神館)・旧秀隣寺庭園](https://farm5.staticflickr.com/4613/25048745777_741fc56a1c.jpg)
Posted at 2018/01/27 13:47:06 | |
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