殿ヶ谷戸庭園は、三菱合資会社の社員で南満州鉄道副総裁から貴族院議員にもなった江口定条の別荘として大正2(1913)年〜大正4(1915)年にこの地に別荘を構え「随宜園」と命名したのが始まりです。
昭和4(1929)年に三菱財閥創業家の岩崎彦彌太が江口家から別荘として買い取り、「国分寺の家」として親しむようになりました。
彦彌太は、昭和9(1934)年に和洋折衷の木造主屋に建て替え、庭園建築として紅葉亭を新築するとともに、主屋全面の芝生地と崖線下方の湧水及び園地とを結んで、回遊式庭園を完成させました。
昭和47(1972)年、この地域一帯を商業地域化する案が出されましたが、庭園とその自然環境を保存すべきだという意見が、市民運動となって湧き起こりました。その結果、昭和49(1974)年に市民の声に応えて東京都が買収し、昭和54(1979)年4月から都立庭園として一般に公開されました。
庭園は、国分寺崖線(ハケ)と呼ばれる崖地を巧みに利用した回遊式林泉庭園です。本館前の広々とした芝生の開放感と、池を眼下に見下ろす亭からの眺望の緊張感が見事な調和を見せて居ます。手入れの行き届いた植栽と、赤松やコナラなどの多様な自然植生が渾然一体となっており、訪れる野鳥の声が絶えません。春には身体中を緑に染める新緑、秋には葉麗な紅葉に飾られ、景観を日々多彩に変化させています。
ハケからは、旧石器時代や縄文時代の人々が飲料水として利用していた清冽な清水が湧きだして池を満たしており、春にはカルガモが雛たちを育てる光景が見られます。
残り少なくなった武蔵野の野草に、四季折々に出会えるのもこの庭園の楽しみの一つです。
平成23(2011)年9月21日、国指定名勝となっています。
(現地説明板などより)
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真姿の池は、都内では青梅市の御岳渓流とともに環境庁の「名水百選」に選定された「お鷹の道・真姿の池湧水群」の一部であり、東京都の都市計画国分寺緑地にも指定されています。また周辺は東京都の国分寺崖線緑地保全地域にも指定されています。
真姿の池の名の由来は、嘉祥元(848)年不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21日間参詣すると、1人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は癒え、元の美しい姿に戻りました。それから人々はこの池を真姿の池と呼ぶようになったという伝説からきています。真姿の池は「新編武蔵風土記稿」に「広さ二間四方ばかり、池中の孤嶼に弁天の祠宇を置く、この池水も田地へ灌ぐ」とあります。
国分寺は、寛延元(1748)年徳川御三家尾張藩の鷹狩の狩り場となり、武蔵野台地ハケにママを集め清流に小道を整備しこれが「お鷹の道」と呼ぶようになり、「真姿の池」、「元町用水路」を経由し、野川に流入しています。
周辺の雑木林は、下草の刈り払いが行われて管理が行き届いており、国分寺崖線の雑木林景観がよく保存されています。国分寺崖線とは国分寺から小金井・三鷹・調布・狛江を経て世田谷の等々力渓谷に至る標高差約15メートルほどの崖線で「ハケ」と呼ばれています。東京を代表する湧泉の価値を文化財として評価された最初の自然地理的名勝です。
(現地説明板などより)
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武蔵国分寺は、山号は医王山、院号は最勝院、真言宗豊山派の寺院です。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺の後継寺院にあたります。
武蔵国の国分寺は、元弘3(1333)年の分倍河原の戦いで焼失し、建武2(1335)年、新田義貞により薬師堂が再建されたといわれています。その後衰退し、宝暦6(1756)年頃に薬師堂が再建されました。
楼門は、米津出羽守田盛(通称内蔵助)の元菩提寺として建立された米津寺(東久留米市)の楼門を明治28(1895)年に移築したものです。
(現地説明板などより)
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創建当初の
武蔵国分寺跡です。
奈良時代中頃の天平13(741)年、聖武天皇は仏教の力で国を安定させるために諸国に国分寺建立を命じました。
武蔵国では湧水が豊かな国分寺崖線を背にして、都と国府を結ぶ駅路(東山道武蔵路)の東側に僧寺、西側に尼寺を配しました。
武蔵国は多摩郡をはじめとする21郡からなり、国分寺の造営にあたっては武蔵国内の人々の力が総結集されましたが、完成した年代は土器や瓦、漆紙文書等の出土資料から天平宝字年間(757~765年)頃と考えられます。
僧寺は中枢部、伽藍地、寺院地の三重に区画される構造です。
中枢部は北から順に、経典などを講読する講堂、本尊を安置していた金堂、入口にあたる中門が主軸を揃えて一直線に並び、その両側には梵鐘を吊った鐘楼と、経典を収蔵した経蔵、僧は起居する東僧房・西僧房などがありました。
これらの建物は塀と溝によって囲まれ、その規模は東西で約156m、南北で約132mを測ります。
また、塀の構造は掘立柱塀から築地塀へ変わったことも明らかになっています。
中枢部の外側には、中門から南へ約60m離れて南門、東へ約200mの地点に七重塔がそびえ、これらの堂塔は溝によって周囲と画されていました。承和2(835)年に雷火で焼失し、十年後に男衾郡(埼玉県比企郡)の前大領(さきのだいりょう:郡の長官)の壬生吉志福正がその再建を願いでて許可されたことが知られています。
さらに、金堂を中心とした東西約1.5km、南北約1kmの周囲には竪穴住居や掘立柱建物が広がり、寺院を支えていた集落は広域に及んでいたことがわかっています。
(現地説明板などより)
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東郷寺は、山号は聖将山、日蓮宗の寺院です。
府中崖線の高台側に位置します。東郷家の別荘・農園跡に東郷平八郎没後の昭和14(1939)年に小笠原長生をはじめとして旧海軍関係者が中心になって建立されました。
映画「羅生門」のセットは、この東郷寺山門をモデルにして作られたといわれています。
門前のしだれ桜とともに、府中市の代表的な景勝として知られています。
内部の拝観は出来ません。
(現地説明板などより)
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新選組に縁の深い小島家の資料館・
小島資料館です。
小野路の宿は、鎌倉時代には鎌倉と武蔵府中を結ぶ鎌倉街道上道の宿場でした。
江戸時代には、大山信仰が盛んになり、小野路宿は、大山街道の宿場として賑わいました。幕末には6軒の旅籠がありました。
小島家は、応永2(1395)年に備後国から移り現在地に土着し、江戸中期から後期にかけて小野路村の豪農になりました。
文政10(1827)年の改革で、関東取締出役に協力する組合村制度ができ小野路村は小野路村外34ヶ村の親村となり、19代小島角左衛門と20代小島鹿之助為政は寄場名主となりました。
現在の小島家の母屋は、天保13(1842)年に寄場名主の邸宅として造られ、当時の柱や間取り、また関東取締出役の居室として使用された上段の間などが残され、昭和40(1965)年に改築されました。
鹿之助は天然理心流宗家3代目・近藤周助の門人となり後の新選組局長近藤勇(天然理心流宗家4代目)や同門で日野宿名主の佐藤彦五郎と義兄弟の契りを交わしていました。近藤や土方らが浪士組として京都へ上洛し、新選組を結成した後も文通を欠かさず良き相談役となっていました。
幕末に近藤周助、近藤勇、土方歳三、沖田総司も小島家の庭で剣術を指南しました。
敷地内の旧玄関前には、寛永寺にあった灯籠があり、彰義隊が戦ったときの弾痕が残ります。庭園には近藤勇と小島鹿之助の胸像があります。
昭和43(1968)年11月に私設の資料館として開館しています。小島鹿之助、そして近藤勇、土方歳三、沖田総司など新選組関係の資料が充実しています。
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多摩市一本杉公園野球場は、江夏豊投手の引退式が行われた球場です。
西武ライオンズで広岡達朗監督の方針に、喧嘩別れのような形で球界を去ることになった江夏豊は、阪神、南海、広島、日本ハム、西武でこれ程の功績を残した大投手にもかかわらず、どの球団も江夏のために球団主催の引退式を行うことをしなかったため、文芸春秋社、雑誌「ナンバー」、名球会有志などが江夏のために引退式を行うことになりました。
昭和60(198)年1月19日、この球場で引退式が行われ、15000人の収容人員をはるかに超えた20000人の人々が駆けつけました。プロ野球人は、山本浩二、落合博満、福本豊、大杉勝男、江藤慎一、高橋慶彦、福本豊、斎藤明夫、辻恭彦といった蒼々たるメンバーで、たけし軍団、武田鉄矢などが江夏の最後を盛り上げました。江夏はこの後、米大リーグのブリュワーズのテスト生として海を渡り、大リーグへ挑戦しました。
残念ながら、一本杉球場の名の由来となった川上哲治氏が植樹した一本杉はスギ溝腐病により樹勢が落ち、倒木の危険があることから平成27(2015)年3月に伐採されてしまったそうです。江夏豊氏が植樹した木は健在です。
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