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ピズモのブログ一覧

2015年11月29日 イイね!

片倉城・武相荘・小机城

片倉城は、湯殿川と兵衛川の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周部は約30mの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切りがなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。空堀により画された二つの郭には土塁や櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。
「新編武蔵風土記稿」などでは応永年間(1394〜1428)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後裔の長井氏の城郭とされていますが、確証はありません。
築城主体や年代の特定は困難ですが、深大寺城跡などの他の中世城郭との比較から15世紀後半以降に築城され、16世紀代に廃城となったと推定されています。しかし、城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要衝であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。
現在は片倉城跡公園として整備されています。
平成11(1999)年には東京都の指定史跡に選定されました。
(現地説明板などより)
片倉城
片倉城 posted by (C)pismo

片倉城 (1)
片倉城 (1) posted by (C)pismo

片倉城 (2)
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片倉城 (3)
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片倉城 (4)
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片倉城 (5)
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片倉城 (6)
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片倉城 (7)
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片倉城 (8)
片倉城 (8) posted by (C)pismo


戦後の新憲法制定に深く関わり、東北電力会長としても活躍された白洲次郎と、美術評論家・随筆家として読売文学賞2回受賞、町田市名誉市民第一号の白洲正子のご夫婦が、能ヶ谷のこの地に農家を買い取り移住されたのは、昭和17(1942)年でした。武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また白洲次郎独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。
近衛内閣の司法大臣をつとめられた風見章氏に「武相荘」と書いて頂き額装して居間に掛けていました。
寄せ棟造りで東側妻面兜造りの重厚な茅葺屋根の主屋と、カキ、シラカシなどを配した広い庭のたたずまいは、多摩地域の養蚕農家の面影をいまに伝える貴重な文化遺産です。
整型四間取や材料・構造から見て19世紀以降のもので、明治初期の建築と推定されます。
養蚕農家として明治・大正・昭和と使われてきた「家・屋敷」が原型に近いかたちで今日に残されたのは、古い民家などに限りない価値を見出した、白洲夫婦の独特なライフ・スタイルの賜物と考えられます。
冠せられた「武相荘」という愛称も、古い農家に具わる「静謐な美」に寄せる夫婦の、慎み深い敬称と読み取れます。
旧白洲邸武相荘として平成13(2001)年にオープンしました。
(現地説明板などより)
武相荘
武相荘 posted by (C)pismo

武相荘 (1)
武相荘 (1) posted by (C)pismo

武相荘 (2)
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武相荘 (3)
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武相荘 (4)
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武相荘 (5)
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武相荘 (6)
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武相荘 (7)
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武相荘 (8)
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武相荘 (9)
武相荘 (9) posted by (C)pismo


小机城の築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、このあたりがひらけた12世紀以降ではないかと思われます。その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、西方にはその支配下の榎下城があったことから、それとかかわりのある城と思われます。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起した時、景春に見方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ子橋付近)に帯陣した上杉方の大田道灌の率いる軍と戦いました。
城は文明10(1478)年に攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40余年間廃城となっていました。
大永4(1524)年、一族の北条氏堯の城となり、笠原越前守信為を城代として再興しました。
小机は地理的に、江戸・玉縄・榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事・経済の両面で極めて重要な役割を果すことになります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落し、やがて小田原北条氏が亡び、四代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として二百名の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。横浜市内には、小机城の他、青木城・榎下城・馬場城・荏田城などがあったと言われていますが、調査されたものは榎下城だけで、その他については、かっての城の位置が推定される程度で、その実態は明らかではありません。
小机城の縄張りは、半島形の突出た丘陵の上部を大きく平に削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築きます。また、城郭全体を二重の土塁を空掘でぐるりとめぐらす縄張で後北条氏特有の築城法と言えます。
類例より後北条、後半の築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で県下では、茅ヶ崎城も典型といえます。
現在は小机城址市民の森として、城の遺構が整備されています。
(現地説明板などより)
小机城
小机城 posted by (C)pismo

小机城 (1)
小机城 (1) posted by (C)pismo

小机城 (2)
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小机城 (3)
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小机城 (4)
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小机城 (5)
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小机城 (6)
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小机城 (7)
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小机城 (8)
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小机城 (9)
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小机城 (10)
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Posted at 2016/01/17 23:50:45 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年11月28日 イイね!

原宿・渋谷・高橋是清翁記念公園・明治神宮外苑

東郷神社は、東郷平八郎元帥を祀る神社です。福岡県福津市(旧津屋崎町)にも同名の神社があります。
東郷平八郎命は弘化4(1847)年薩摩藩士東郷吉右衛門の4子として鹿児島市加治屋町で生まれ昭和9(1934)年5月30日88歳で東京麹町三番町で薨去されました。
明治4(1871)年24歳の時英国留学7年間海軍司官としての修業を積まれました。以来軍務に精励し明治37(1904)年、明治38(1905)年の日露戦役に連合艦隊司令長官として艦隊を指揮し特に明治38(1905)年5月27・8日の日本海海戦で露国のバルチック艦隊を迎えて旗艦三笠にZ旗を掲げてこれを打ち破り世界海戦史上名高い完全勝利を成し遂げ国難を救ったことは有名です。
大正3(1914)年東宮御学問所総裁として時の皇太子天皇教育の重大な責任を果たされました。
その功績に対し元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵の栄誉が贈られ日本だけでなく世界の人々からも「アドミラル大東郷」として尊敬されるようになりました。
昭和9(1934)年9月財団法人東郷元帥記念会が設立され全国民崇敬者の協賛により昭和15年(1940)5月創建鎮座祭を執行し府社となりましたが、別格官幣社列格寸前の昭和20(1945)年5月戦災により一切炎上しました。
戦後は仮殿に奉斎され、昭和39(1964)年の祭神30年祭を目標として昭和33(1958)年5月復興奉賛会が設立され、多くの協賛を得て社殿の復興がなされ、昭和39(1964)年5月27日ご遷座祭を執行し28日竣工し、奉祝祭並に30年祭が盛大に斎行されました。
昭和59(1984)年は祭神の50年祭とに復興20年記念祭に相当するため数年を費やして神符授与所、透塀、西参道灯篭4基、北参道鳥居再建、池の改修井戸新さく、旧東郷邸より移築の土蔵の再建等境内整備を進め昭和59(1984)年5月に50年式年例大祭・次いで命日祭・そして多磨霊園において50年墓前祭が行われました。
平成2(1990)年には御鎮座50年記念にあたり御鎮座50年記念事業として御社殿改修、神池の整備、社務所、和楽殿の改修・新築、記念出版等が行われました。
東郷神社
東郷神社 posted by (C)pismo

東郷神社 (1)
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東郷神社 (2)
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東郷神社 (3)
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東郷神社 (4)
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東郷神社 (5)
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東郷神社 (6)
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東郷神社 (7)
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東郷神社 (8)
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東郷神社 (9)
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東郷神社 (10)
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忠犬ハチ公像は、JR渋谷駅ハチ公口前の広場に鎮座する銅像です。
東大教授・上野英三郎氏にかわいがられ、渋谷駅への送り迎えを日課にしていた秋田県のハチは、主人の死後も10年間、毎日渋谷駅に現れ帰らぬ主人を待っていまし。
その忠実さを称え昭和9(1934)年に彫刻家、安藤照による銅像が建てられましたが、ハチはその翌年病死しました。
像は、第2次世界大戦の金属供出により失われましたが、昭和23(1948)年、二代目が安藤照の息子、安藤士により再建されました。
渋谷駅ハチ公口
渋谷駅ハチ公口 posted by (C)pismo

渋谷城跡にある金王八幡宮です。
平安末期に河崎基家がこの地を与えられ、その子の渋谷重家が館を築いたとされます。重家より渋谷氏を名乗ったようです。重家は相模の渋谷荘とこの周辺を領していましたが、重家の長男重国が渋谷荘司となって移り、次男金王丸常光が継いだそうです。
その後、渋谷城は戦国まで存続しますが、大永4(1524)年、北条氏綱の関東攻略の際、扇谷上杉氏に味方していた渋谷氏は氏綱軍に攻められ落城したといわれています。
城跡は、金王(こんのう)八幡宮となっています。
社記によると、この八幡は渋谷氏の祖、河崎基家が寛治6(1092)年に創建されたといわれています。
重家がこの地に館を構えて居城として以来、渋谷氏の氏神として尊崇されました。
渋谷重家に嫡子がなく、当神社に祈願をしたところ、大神の御神徳により渋谷金王丸常光、後の土佐坊昌俊を授かりました。金王丸の活躍は、平治物語、吾妻鏡などにみられるとおりです。当神社は当初は渋谷八幡宮と称していましたが、金王丸の名声に因み、金王八幡宮と称するようになりました。
境内の金王桜は頼朝が金王丸を偲び植えたもので、一重と八重が交じって咲く珍しい桜で、江戸三名桜に数えられました。
現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに、慶長17(1612)年に造営を開始したものです。その後たびたび修理されましたが、江戸初期の建築様式をとどめている貴重な建物です。
門は、明和6年(1679)年と享和元(1801)年に造られたとする二説があり、江戸中期の建立にはちがいありませんが、その後何度かの修理を経て今日に及んでいます。
金王八幡宮
金王八幡宮 posted by (C)pismo

金王八幡宮 (1)
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金王八幡宮 (2)
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金王八幡宮 (3)
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金王八幡宮 (4)
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金王八幡宮 (5)
金王八幡宮 (5) posted by (C)pismo

高橋是清翁記念公園は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年~1936年)の邸宅があったところです。
翁は、昭和11(1936)年2.26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和13(1938)年10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄付し、昭和16(1941)年6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50(1975)年港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母屋は故人の眠る多摩霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30(1955)年に再建されました。
現在の面積は5,320平米で、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。園内は池を中心として石像や石灯篭が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。
(現地説明板より)
高橋是清翁記念公園
高橋是清翁記念公園 posted by (C)pismo

高橋是清翁記念公園 (1)
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高橋是清翁記念公園 (2)
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高橋是清翁記念公園 (3)
高橋是清翁記念公園 (3) posted by (C)pismo

高橋是清翁記念公園 (4)
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明治神宮外苑の名所・銀杏並木です。
明治神宮外苑は大正15(1926)年10月22日の創建で、その苑地造成に当り、青山通り正面がらの直線主要道路は、左右歩道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成するごとになりました。
外苑の銀杏樹は、折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師)が、新宿御苑に奉職中の明治41(1908)年新宿御苑在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内の苗圃に蒔きました。そしてその後成長し、その数1600本にもなりました。
外苑造苑に当り、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高6m内外に成長していた、これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきたものを、大正12(1923)年に植栽したものです。
直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至る二条の並木も同時に植えられ、最高24m・目通り周り2m80cm、最低17m・目通り周り1m80cmセンチのものを、樹高順に青山口から降り勾配に従って植えられています。
(現地説明板より)
明治神宮外苑
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明治神宮外苑 (1)
明治神宮外苑 (1) posted by (C)pismo

明治神宮外苑 (2)
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この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇の親臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治23(1890)年2月11日の憲法発布観兵式や、明治39(1906)年4月30日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成7(1995)年9月17日老齢(樹齢200余年)の為台風12号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。
平成8(1996)年1月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹齢60年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。
(現地説明板より)
明治神宮外苑・御観兵榎
明治神宮外苑・御観兵榎 posted by (C)pismo

明治神宮外苑・御観兵榎 (1)
明治神宮外苑・御観兵榎 (1) posted by (C)pismo

明治神宮野球場は、通称の神宮球場で知られる東京六大学野球連盟のリーグ戦開催球場及び東京ヤクルトスワローズの本拠地です。所有者は宗教法人・明治神宮です。
大正15(1926)年に完成しました。明治神宮外苑に明治神宮外苑競技場(現在は国立霞ヶ丘陸上競技場に改築)などの運動施設が建造されるなか建設されました。
戦前は「アマチュア野球の聖地」で、昭和37(1962)年からは東映フライヤーズが使用を開始し、昭和39(1964)年には後楽園球場から国鉄スワローズが東映と入れ替わり移転しました。
明治神宮野球場(神宮球場)
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明治神宮野球場(神宮球場) (1)
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明治神宮野球場(神宮球場) (2)
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Posted at 2016/01/17 20:41:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年11月15日 イイね!

殿ヶ谷戸庭園・武蔵国分寺・東郷寺・小島資料館・一本杉球場

殿ヶ谷戸庭園は、三菱合資会社の社員で南満州鉄道副総裁から貴族院議員にもなった江口定条の別荘として大正2(1913)年〜大正4(1915)年にこの地に別荘を構え「随宜園」と命名したのが始まりです。
昭和4(1929)年に三菱財閥創業家の岩崎彦彌太が江口家から別荘として買い取り、「国分寺の家」として親しむようになりました。
彦彌太は、昭和9(1934)年に和洋折衷の木造主屋に建て替え、庭園建築として紅葉亭を新築するとともに、主屋全面の芝生地と崖線下方の湧水及び園地とを結んで、回遊式庭園を完成させました。
昭和47(1972)年、この地域一帯を商業地域化する案が出されましたが、庭園とその自然環境を保存すべきだという意見が、市民運動となって湧き起こりました。その結果、昭和49(1974)年に市民の声に応えて東京都が買収し、昭和54(1979)年4月から都立庭園として一般に公開されました。
庭園は、国分寺崖線(ハケ)と呼ばれる崖地を巧みに利用した回遊式林泉庭園です。本館前の広々とした芝生の開放感と、池を眼下に見下ろす亭からの眺望の緊張感が見事な調和を見せて居ます。手入れの行き届いた植栽と、赤松やコナラなどの多様な自然植生が渾然一体となっており、訪れる野鳥の声が絶えません。春には身体中を緑に染める新緑、秋には葉麗な紅葉に飾られ、景観を日々多彩に変化させています。
ハケからは、旧石器時代や縄文時代の人々が飲料水として利用していた清冽な清水が湧きだして池を満たしており、春にはカルガモが雛たちを育てる光景が見られます。
残り少なくなった武蔵野の野草に、四季折々に出会えるのもこの庭園の楽しみの一つです。
平成23(2011)年9月21日、国指定名勝となっています。
(現地説明板などより)
殿ヶ谷戸庭園
殿ヶ谷戸庭園 posted by (C)pismo

殿ヶ谷戸庭園 (1)
殿ヶ谷戸庭園 (1) posted by (C)pismo

殿ヶ谷戸庭園 (2)
殿ヶ谷戸庭園 (2) posted by (C)pismo

殿ヶ谷戸庭園 (3)
殿ヶ谷戸庭園 (3) posted by (C)pismo

殿ヶ谷戸庭園 (4)
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殿ヶ谷戸庭園 (5)
殿ヶ谷戸庭園 (5) posted by (C)pismo

殿ヶ谷戸庭園 (6)
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殿ヶ谷戸庭園 (7)
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殿ヶ谷戸庭園 (8)
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殿ヶ谷戸庭園 (9)
殿ヶ谷戸庭園 (9) posted by (C)pismo

殿ヶ谷戸庭園 (10)
殿ヶ谷戸庭園 (10) posted by (C)pismo

殿ヶ谷戸庭園 (11)
殿ヶ谷戸庭園 (11) posted by (C)pismo

殿ヶ谷戸庭園 (12)
殿ヶ谷戸庭園 (12) posted by (C)pismo

殿ヶ谷戸庭園 (13)
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殿ヶ谷戸庭園 (14)
殿ヶ谷戸庭園 (14) posted by (C)pismo

殿ヶ谷戸庭園 (15)
殿ヶ谷戸庭園 (15) posted by (C)pismo


真姿の池は、都内では青梅市の御岳渓流とともに環境庁の「名水百選」に選定された「お鷹の道・真姿の池湧水群」の一部であり、東京都の都市計画国分寺緑地にも指定されています。また周辺は東京都の国分寺崖線緑地保全地域にも指定されています。
真姿の池の名の由来は、嘉祥元(848)年不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21日間参詣すると、1人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は癒え、元の美しい姿に戻りました。それから人々はこの池を真姿の池と呼ぶようになったという伝説からきています。真姿の池は「新編武蔵風土記稿」に「広さ二間四方ばかり、池中の孤嶼に弁天の祠宇を置く、この池水も田地へ灌ぐ」とあります。
国分寺は、寛延元(1748)年徳川御三家尾張藩の鷹狩の狩り場となり、武蔵野台地ハケにママを集め清流に小道を整備しこれが「お鷹の道」と呼ぶようになり、「真姿の池」、「元町用水路」を経由し、野川に流入しています。
周辺の雑木林は、下草の刈り払いが行われて管理が行き届いており、国分寺崖線の雑木林景観がよく保存されています。国分寺崖線とは国分寺から小金井・三鷹・調布・狛江を経て世田谷の等々力渓谷に至る標高差約15メートルほどの崖線で「ハケ」と呼ばれています。東京を代表する湧泉の価値を文化財として評価された最初の自然地理的名勝です。
(現地説明板などより)
真姿の池湧水群 (1)
真姿の池湧水群 (1) posted by (C)pismo

真姿の池湧水群
真姿の池湧水群 posted by (C)pismo

武蔵国分寺は、山号は医王山、院号は最勝院、真言宗豊山派の寺院です。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺の後継寺院にあたります。
武蔵国の国分寺は、元弘3(1333)年の分倍河原の戦いで焼失し、建武2(1335)年、新田義貞により薬師堂が再建されたといわれています。その後衰退し、宝暦6(1756)年頃に薬師堂が再建されました。
楼門は、米津出羽守田盛(通称内蔵助)の元菩提寺として建立された米津寺(東久留米市)の楼門を明治28(1895)年に移築したものです。
(現地説明板などより)
武蔵国分寺
武蔵国分寺 posted by (C)pismo

武蔵国分寺 (1)
武蔵国分寺 (1) posted by (C)pismo

創建当初の武蔵国分寺跡です。
奈良時代中頃の天平13(741)年、聖武天皇は仏教の力で国を安定させるために諸国に国分寺建立を命じました。
武蔵国では湧水が豊かな国分寺崖線を背にして、都と国府を結ぶ駅路(東山道武蔵路)の東側に僧寺、西側に尼寺を配しました。
武蔵国は多摩郡をはじめとする21郡からなり、国分寺の造営にあたっては武蔵国内の人々の力が総結集されましたが、完成した年代は土器や瓦、漆紙文書等の出土資料から天平宝字年間(757~765年)頃と考えられます。
僧寺は中枢部、伽藍地、寺院地の三重に区画される構造です。
中枢部は北から順に、経典などを講読する講堂、本尊を安置していた金堂、入口にあたる中門が主軸を揃えて一直線に並び、その両側には梵鐘を吊った鐘楼と、経典を収蔵した経蔵、僧は起居する東僧房・西僧房などがありました。
これらの建物は塀と溝によって囲まれ、その規模は東西で約156m、南北で約132mを測ります。
また、塀の構造は掘立柱塀から築地塀へ変わったことも明らかになっています。
中枢部の外側には、中門から南へ約60m離れて南門、東へ約200mの地点に七重塔がそびえ、これらの堂塔は溝によって周囲と画されていました。承和2(835)年に雷火で焼失し、十年後に男衾郡(埼玉県比企郡)の前大領(さきのだいりょう:郡の長官)の壬生吉志福正がその再建を願いでて許可されたことが知られています。
さらに、金堂を中心とした東西約1.5km、南北約1kmの周囲には竪穴住居や掘立柱建物が広がり、寺院を支えていた集落は広域に及んでいたことがわかっています。
(現地説明板などより)
武蔵国分寺跡 (1)
武蔵国分寺跡 (1) posted by (C)pismo

武蔵国分寺跡 (2)
武蔵国分寺跡 (2) posted by (C)pismo

武蔵国分寺跡 (3)
武蔵国分寺跡 (3) posted by (C)pismo

武蔵国分寺跡 (4)
武蔵国分寺跡 (4) posted by (C)pismo

武蔵国分寺跡 (5)
武蔵国分寺跡 (5) posted by (C)pismo

武蔵国分寺跡 (6)
武蔵国分寺跡 (6) posted by (C)pismo

東郷寺は、山号は聖将山、日蓮宗の寺院です。
府中崖線の高台側に位置します。東郷家の別荘・農園跡に東郷平八郎没後の昭和14(1939)年に小笠原長生をはじめとして旧海軍関係者が中心になって建立されました。
映画「羅生門」のセットは、この東郷寺山門をモデルにして作られたといわれています。
門前のしだれ桜とともに、府中市の代表的な景勝として知られています。
内部の拝観は出来ません。
(現地説明板などより)
東郷寺 (1)
東郷寺 (1) posted by (C)pismo

東郷寺 (2)
東郷寺 (2) posted by (C)pismo

東郷寺
東郷寺 posted by (C)pismo

新選組に縁の深い小島家の資料館・小島資料館です。
小野路の宿は、鎌倉時代には鎌倉と武蔵府中を結ぶ鎌倉街道上道の宿場でした。
江戸時代には、大山信仰が盛んになり、小野路宿は、大山街道の宿場として賑わいました。幕末には6軒の旅籠がありました。
小島家は、応永2(1395)年に備後国から移り現在地に土着し、江戸中期から後期にかけて小野路村の豪農になりました。
文政10(1827)年の改革で、関東取締出役に協力する組合村制度ができ小野路村は小野路村外34ヶ村の親村となり、19代小島角左衛門と20代小島鹿之助為政は寄場名主となりました。
現在の小島家の母屋は、天保13(1842)年に寄場名主の邸宅として造られ、当時の柱や間取り、また関東取締出役の居室として使用された上段の間などが残され、昭和40(1965)年に改築されました。
鹿之助は天然理心流宗家3代目・近藤周助の門人となり後の新選組局長近藤勇(天然理心流宗家4代目)や同門で日野宿名主の佐藤彦五郎と義兄弟の契りを交わしていました。近藤や土方らが浪士組として京都へ上洛し、新選組を結成した後も文通を欠かさず良き相談役となっていました。
幕末に近藤周助、近藤勇、土方歳三、沖田総司も小島家の庭で剣術を指南しました。
敷地内の旧玄関前には、寛永寺にあった灯籠があり、彰義隊が戦ったときの弾痕が残ります。庭園には近藤勇と小島鹿之助の胸像があります。
昭和43(1968)年11月に私設の資料館として開館しています。小島鹿之助、そして近藤勇、土方歳三、沖田総司など新選組関係の資料が充実しています。
小島資料館
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小島資料館 (1)
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小島資料館 (2)
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小島資料館 (3)
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小島資料館 (4)
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多摩市一本杉公園野球場は、江夏豊投手の引退式が行われた球場です。
西武ライオンズで広岡達朗監督の方針に、喧嘩別れのような形で球界を去ることになった江夏豊は、阪神、南海、広島、日本ハム、西武でこれ程の功績を残した大投手にもかかわらず、どの球団も江夏のために球団主催の引退式を行うことをしなかったため、文芸春秋社、雑誌「ナンバー」、名球会有志などが江夏のために引退式を行うことになりました。
昭和60(198)年1月19日、この球場で引退式が行われ、15000人の収容人員をはるかに超えた20000人の人々が駆けつけました。プロ野球人は、山本浩二、落合博満、福本豊、大杉勝男、江藤慎一、高橋慶彦、福本豊、斎藤明夫、辻恭彦といった蒼々たるメンバーで、たけし軍団、武田鉄矢などが江夏の最後を盛り上げました。江夏はこの後、米大リーグのブリュワーズのテスト生として海を渡り、大リーグへ挑戦しました。
残念ながら、一本杉球場の名の由来となった川上哲治氏が植樹した一本杉はスギ溝腐病により樹勢が落ち、倒木の危険があることから平成27(2015)年3月に伐採されてしまったそうです。江夏豊氏が植樹した木は健在です。
多摩市一本杉公園野球場 (1)
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多摩市一本杉公園野球場 (2)
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多摩市一本杉公園野球場 (3)
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多摩市一本杉公園野球場 (4)
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多摩市一本杉公園野球場 (5)
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Posted at 2016/01/16 22:44:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年11月14日 イイね!

鎌倉(その2・鶴岡八幡宮・報国寺・鎌倉大仏・長谷寺・御霊神社)

鶴岡八幡宮は、八幡神(応神天皇、比売神、神功皇后)を祀る神社です。
康平6(1063)年、源頼義が源氏の氏神として由比ヶ浜に石清水八幡宮を勧請したのが始まりで、治承4(1180)年、源頼朝が政権の中心地として現在地に移しました。
大永6(1526)年、里見義豊と北条氏綱の戦いで焼失しましたが、北条氏綱が再建しました。
江戸時代には、徳川幕府の庇護を受け多くの建物が建てられました。
鎌倉幕府滅亡後も武家の崇敬を集め、手厚く保護され現在に至っている。本宮(上宮)は文政11(1828)年に徳川家斉が再建した流権現造です。
境内にあった銀杏は、建保7(1219)年1月27日、実朝暗殺の際に、公暁が身を潜めてから襲撃したことから「隠れ銀杏」と言われており、昭和30(1955)年、神奈川県の天然記念物に指定されていましたが、平成22(2010)年3月10日に、強風のために大銀杏は根元から倒れ、3月15日、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植されました。根付かせると同時にその親木からのヒコバエと、大銀杏があった場所に生えるヒコバエを育てています。
源氏池は、鶴岡八幡宮の表参道の東西に池があり、源平池と言われています。東の池(源氏池)には島が三つ、西の池(平家池)には島が四つあ り、それぞれの島の数が源氏の繁栄(三=産)と平家の滅亡(死=四) をあらわしているとも北条政子が左の池に紅蓮(赤は平家の旗印)を、右の池に白蓮(白旗は源氏の象徴)を植えたからとも言われています。
鶴岡八幡宮
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鶴岡八幡宮 (1)
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鶴岡八幡宮 (2)
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報国寺は、山号は功臣山、臨済宗建長寺派の寺院です。
「竹の寺」として知られています。
建武元(1334)年、報国寺の開山、天岸慧広(仏乗禅師)が現在地の休耕庵を建てて修行しました。
そのゆかりの御堂跡に、美しい孟宗竹が生い繁るようになりました。
開基は足利家時で、上杉重兼も寺の創設にかかわっています。
家時から2代後の足利尊氏は室町幕府を樹立し、その子基氏を鎌倉公方に据えました。
鎌倉では4代90年にわたって栄えていましたが、永享の乱で4代鎌倉公方持氏は瑞泉寺塔頭の永安寺において、嫡子義久は菩提寺報国寺において自害割腹されました。報国寺は鎌倉公方終焉の地になります。
また、この地谷戸は、宅間法眼一派の芸術家達が住いした谷間です。従って現在も宅間谷戸と呼ばれています。
近年では川端康成、林房雄、各氏等々寺領内に住まわれ、特に川端康成は、この山あいのしじまの音なき音を「山の音」と表現されました。
本尊は釈迦如来坐像(市指定文化財)で、仏師宅間法眼作と伝えられている。他に開山仏乗禅師像(市指定文化財)や、迦葉尊者像などを御堂に安置し、更に、開山著書「東帰集」(国指定重要文化財)や、開山使用の木印(国指定重要文化財)や、聖観世音菩薩像は、鎌倉国宝館に保管されています。
本堂裏は竹林を中心とした庭があり、お抹茶をいただきながら美しい庭を楽しむことができます。落ち着いた雰囲気の良いお寺です。
報国寺
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報国寺 (1)
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報国寺 (2)
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報国寺 (3)
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報国寺 (4)
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報国寺 (5)
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報国寺 (6)
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高徳院は、山号は大異山、正確な名称は大異山高徳院清浄泉寺という浄土宗の寺院です。開山、開基は不明で大仏の建立の経緯もよくわかっていません。
大仏は銅像の阿弥陀如来像で、建長4(1252)年に建立を開始しましたが、完成年は不明です。大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていましたが、津波で流され、現在の姿になりました。
大仏の中は空洞で、人が入ることができ、一般拝観者も大仏内部を見学することができます。
鎌倉大仏(高徳院)
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鎌倉大仏(高徳院) (1)
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鎌倉大仏(高徳院) (2)
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長谷寺は、山号を海光山、院号を慈照院といい浄土宗系統の単立寺院で、長谷観音と通称されています。
天平8(736)年の創建と言われる古寺です。大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したといわれています。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたといわれています。養老5(721)年に徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体(末)を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされています。
関東大震災による当山の罹災は甚だしく、旧来の建物は止む無く建替えとなり、災害から本尊をお守りするため、鉄筋による再建が進められました。そして、昭和61(1986)年、罹災から実に60年以上の歳月を費やし現在の堂宇は完成に至りました。
花の寺としても有名であじさい、ムクゲ・フヨウ・シュウカイドウが美しい寺院です。
長谷寺
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長谷寺 (1)
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長谷寺 (2)
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長谷寺 (3)
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長谷寺 (4)
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長谷寺 (5)
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長谷寺 (6)
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長谷寺 (7)
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長谷寺 (8)
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御霊神社の創建は、平安時代末期と推定されます。
後三年の役の際に、源義家にしたがって武勇をふるって活躍した鎌倉権五郎景政を祀る神社です。
もともとは大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の五家を祀った「五霊神社」だったそうですが、いつしか、武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになりました。
景政は、後三年の役に16歳で出陣して勇名をはせ、その後現在の鎌倉・湘南地域を開発した領主です。
景政は後三年の役の際に左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還した。左目に突き刺さった矢を抜こうと、一人の武士が景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したと言われています。そのことから、志の成就(学業成就、必勝招来)や眼病平癒に神徳があるとされています。地元では「権五郎さま」と呼ばれ、親しまれています。
神社前の江ノ島電鉄の踏切は平成24(2012)年に放送されたドラマ「最後から二番目の恋」の吉野千明(小泉今日子)が引っ越してきた家と長倉家(中井貴一ほか)の近くにある踏切のロケ地になりました。
御霊神社
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御霊神社 (1)
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御霊神社 (2)
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御霊神社 (3)
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力餅家
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力餅家は、創業は元禄時代にさかのぼるという300年以上続く老舗の和菓子店です。
名物の「権五郎力餅」は、つきたての餅を甘さ控えめのきめ細やかなこし餡でくるんだ素朴な和菓子で、自家製・無添加の製法を守っています。
権五郎力餅は、消費期限が当日の生餅タイプと、消費期限3日の日持ちする求肥タイプの2種類があります。
平成24(2012)年に放送されたドラマ「最後から二番目の恋」のロケ地になりました。
力餅家 (1)
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力餅家 (2)
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力餅家 (3)
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Posted at 2016/01/16 19:51:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年11月14日 イイね!

鎌倉(その1・円覚寺・建長寺)

円覚寺は、山号は瑞鹿山、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺という臨済宗円覚寺派の大本山です。
弘安5(1282)年、北条時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建した寺院です。
円覚寺の寺名の由来は、建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したことからといわれます。また山号である「瑞鹿山」は、仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうとして白鹿が集まったという逸話からつけられたといわれます
室町時代から江戸時代にかけて、いくたびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸時代後期(天明年間)に大用国師が僧堂・山門等の伽藍を復興され、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれました。 明治時代以降、今北洪川老師・釈宗演老師の師弟のもとに雲水や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。
国宝の舎利殿は非公開ですが、正月3ヶ日と11月3日前後に外観のみが公開されます。
仏殿は本尊の宝冠釈迦如来像を祀っています。天井画の「白龍図」は前田青邨の監修で日本画家守屋多々志が描いたものであす。
妙香池(みょうこうち)は夢窓疎石作と伝える庭園の遺構であす。妙香池の向こう側の岩が虎頭岩です。
洪鐘(おおがね)は高さ2.6m、直径1.4mの大きさは関東最大級で正安3(1301)年に鋳造、当時のもので残っているのはこの洪鐘だけです。
円覚寺
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円覚寺 (1)
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円覚寺 (2)
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円覚寺 (3)
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円覚寺 (4)
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円覚寺 (5)
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円覚寺 (6)
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円覚寺 (6)
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円覚寺 (7)
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円覚寺 (8)
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円覚寺 (9)
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円覚寺の佛日庵は8代執権北条時宗の廟所(開基塔)です。
9代執権貞時・14代執権高時も合葬されています。
本尊は地蔵菩薩で、北条氏滅亡後は衰退しましたが、室町時代に鶴隠周音が再興して塔頭としました。
本堂には地蔵菩薩坐像(鎌倉地蔵霊場十四番)と鶴隠周音像を安置しており、開基廟には時宗公が禅の修業をしていたときに信仰していた十一面観音坐像(鎌倉観音霊場第三十三番)と北条時宗・貞時・高時の木像を安置しています。
境内の茶室烟足軒は、鶴隠周音の寮舎(隠居所)の名を継いだもので、川端康成の小説「千羽鶴」に登場する茶室のモデルとなりました。
円覚寺佛日庵
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円覚寺佛日庵 (1)
円覚寺佛日庵 (1) posted by (C)pismo

円覚寺佛日庵 (2)
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円覚寺佛日庵 (3)
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円覚寺佛日庵 (4)
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円覚寺佛日庵 (5)
円覚寺佛日庵 (5) posted by (C)pismo

建長寺は、山号は、巨福山(こふくさん)、は建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という臨済宗建長寺派の大本山です。
建長5(1253)年鎌倉幕府第5代執権北条時頼を開基とし、は南宋の禅僧蘭渓道隆を開山として創建されました。
鎌倉五山の第一位です。
正応6(1293)年4月12日に発生した鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊炎上、元から来日した一山一寧を第十世に任じて再建にあたらせました。修復費用を調達するため「建長寺船」が鎌倉幕府公認で元におくられました。
その後も度々の火災で創建当初の建物を失いました。江戸時代には徳川家の援助で主要な建物が新築または他所から移築されましたが、大正12(1923)年の関東大震災でも甚大な被害を受けました。
総門は、天明3(1783)年の建立で、昭和18(1943)年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築されたものです。
三門は、銅板葺きで安永4(1775)年の再建で建長護国禅寺の額は後深草天皇の直筆です。
仏殿は、徳川秀忠夫人崇源院の霊屋を建て替えに際し、譲渡されたもので、正保4(1647)年に建長寺に移築され本尊の地蔵菩薩像を祀っています。唐門も仏殿と同じく、崇源院霊屋からの移築です。
法堂は、文化11(1814)年の建立です。
建長寺
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建長寺 (1)
建長寺 (1) posted by (C)pismo

建長寺 (2)
建長寺 (2) posted by (C)pismo

建長寺 (3)
建長寺 (3) posted by (C)pismo

建長寺 (4)
建長寺 (4) posted by (C)pismo

建長寺 (5)
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建長寺 (6)
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建長寺 (7)
建長寺 (7) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/16 19:46:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記

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