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ピズモのブログ一覧

2010年05月29日 イイね!

角倉氏別邸跡・第二無鄰菴だったがんこ高瀬川二条苑で川床料理

この日は最後に、京都の川床料理を食べに行きました。
予約の時間まで少し余裕があったので木屋町を散歩。
以前パチンコ屋さんだった池田屋跡は、こんな居酒屋になっていました。新選組がその名を轟かせた舞台です。
三条小橋近くにある池田屋は長州藩関係者がよく利用していました。
文久3(1863)年8月18日の政変後,京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派が圧迫されたため,長州・土佐・肥後などの志士が勢力回復をめざし,中川宮や京都守護職松平容保の暗殺計画を企てました
元治元(1864)年6月5日、 京都三条小橋の旅館池田屋で京都守護職配下の治安維持組織である新選組が、潜伏していた長州藩の尊皇攘夷過激派を襲いました。
パチンコ屋になってして石碑が残るのみでしたが、平成21(2009)年、居酒屋チェーンのチムニーが居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」を開業しました。
池田屋跡 - 1
池田屋跡 - 1 posted by (C)pismo

池田屋跡 - 2
池田屋跡 - 2 posted by (C)pismo

加賀藩邸跡です。
高瀬川の西側から河原町通りにいたる間は加賀藩前田家の藩邸がありました。
古絵図には高瀬川の橋に、加賀橋の名が残っています。五代綱紀は学問芸術を愛好して文治政治を行った英主で、東寺の古文書を整理するなど京都との関係は深く、この伝統はその後も受け継がれました。
藩邸は天明8(1788)年焼失し,その後再築されました。
慶応2(1866)年,鳥羽伏見の戦に出兵しましたが,幕軍の敗北を知り引き返しました。
戊辰戦争には官軍につき北越で戦いました。藩邸は明治維新後は上地され,一時は府知事邸となっていましたが,太平洋戦争末期に建物疎開で御池通の一部となりました。
加賀藩邸跡
加賀藩邸跡 posted by (C)pismo

長州藩邸跡・桂小五郎像です。長州藩京都藩邸は、今の京都ホテルオークラの敷地の周辺の高瀬川一之舟入の南側から御池通までの、河原町通から木屋町通に至る一帯にあり、幕末維新期の重要な政治的拠点となりました。
元治元(1864)年の蛤御門の変(禁門の変)で会津、薩摩を中心とする朝廷、幕府側に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち、京都を逃れたが、邸内の放火はたちまち市中に延焼し、数日間にわたって燃え続けたといわれています。
明治維新後、この藩邸跡は官有となり、明治初年には府下産業の振興を図るため、勧業場が設立され、後に京都ホテルの前身の常盤ホテルが建てられました。
現在は桂小五郎の像が建ちます。
長州藩邸跡 - 1
長州藩邸跡 - 1 posted by (C)pismo

高瀬川一之舟入です。
高瀬川は,慶長16(1611)年頃江戸初期の豪商角倉了以が開いた運河でここを通行する高瀬舟の荷物のあげおろしをする船留め所を船入といいました。
角倉氏は保津峡の開発等数々の土木工事に成功しており、京都の中心部に物資を運び入れるためにこの川を開いたもので、このあたりを起点として鴨川の水を取り入れ鴨川に平行して十条まで南下し、さらに鴨川を横断して伏見に通じていました。
底が平たく舷側の高い高瀬舟が盛時には百数十艘が上下し、大坂などの物資を運び入れました。
木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ多く問屋が立ち並んで賑わい、船入はこの一之船入をはじめとして数箇所に設けられました。
明治以後高瀬川は舟運の目的を失ったが、両岸に柳を植えた景観は京都の情緒の大きな要素となっています。一之船入は江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡として昭和9(1934)年に史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定され,現在は「高瀬川一之船入」として国指定史跡となっています。
現在は、復原された高瀬舟がつながれ、当時の面影を偲ばせます。
高瀬川一之船入 - 1
高瀬川一之船入 - 1 posted by (C)pismo

高瀬川一之船入 - 2
高瀬川一之船入 - 2 posted by (C)pismo

高瀬川一之船入 - 3
高瀬川一之船入 - 3 posted by (C)pismo

角倉氏邸跡は、高瀬川を開削した角倉了以とその子孫の邸宅があった場所です。
高瀬川の起点、二条木屋町の傍らに広大な屋敷を構え、代々役宅として使用していました。
明治時代には官営織物工場「織殿」がありました。
現在は日本銀行京都支店の敷地となっています。
角倉氏邸跡
角倉氏邸跡 posted by (C)pismo

そしてようやくがんこ高瀬川二条苑です。高瀬川は、豪商角倉了以の別邸跡「がんこ高瀬川二条苑」を通り木屋町通りをくぐって再び姿を現します。
豪商角倉了以の別邸跡である高瀬川源流庭苑は、慶長16(1611)年、了以によって造られました。
その後、明治の元勲山縣有朋の別荘、第二無鄰庵、第3代日本銀行総裁・川田小一郎の別邸、阿倍信行首相別邸等を経て、現在は大岩邸として伝わり、がんこ高瀬川二条苑・高瀬川源流庭苑となっております。がんこ 高瀬川二条苑 - 01
がんこ 高瀬川二条苑 - 01 posted by (C)pismo

がんこ 高瀬川二条苑 - 02
がんこ 高瀬川二条苑 - 02 posted by (C)pismo


がんこ高瀬川二条苑では、5月1日〜9月30日まで納涼川床を楽しむことができます。
かなり、この日は寒かったので毛布が用意されていました。
厚着をしていましたのでなんとかしのげました。ただ、やはり京都の川床の雰囲気はやはり情緒があり、料理もおいしくいただけます。
がんこ 高瀬川二条苑 - 03
がんこ 高瀬川二条苑 - 03 posted by (C)pismo

がんこ 高瀬川二条苑 - 04
がんこ 高瀬川二条苑 - 04 posted by (C)pismo

最後に庭園も楽しみながら帰りました。
がんこ 高瀬川二条苑 - 05
がんこ 高瀬川二条苑 - 05 posted by (C)pismo

がんこ 高瀬川二条苑 - 06
がんこ 高瀬川二条苑 - 06 posted by (C)pismo

がんこ 高瀬川二条苑 - 07
がんこ 高瀬川二条苑 - 07 posted by (C)pismo

がんこ 高瀬川二条苑 - 08
がんこ 高瀬川二条苑 - 08 posted by (C)pismo

がんこ 高瀬川二条苑 - 09
がんこ 高瀬川二条苑 - 09 posted by (C)pismo

がんこ 高瀬川二条苑 - 10
がんこ 高瀬川二条苑 - 10 posted by (C)pismo

がんこ 高瀬川二条苑 - 11
がんこ 高瀬川二条苑 - 11 posted by (C)pismo

がんこ 高瀬川二条苑 - 12
がんこ 高瀬川二条苑 - 12 posted by (C)pismo
Posted at 2010/07/04 23:31:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年05月29日 イイね!

唐崎神社〜浮御堂〜佐川美術館

この日は以前から訪れてみたかった佐川美術館に行ってみようと少しドライブ。
途中に「唐崎の松」を見てみたくなり訪れたのが唐崎神社
舒明天皇6年(633年)、琴御館宇志丸宿弥がこの地に居住して「唐崎」と名付けました。唐崎の地は、日吉大社・西本宮の大己貴神が最初にこられた地でもあります。
唐崎神社のご祭神・女別当命は宇志丸宿弥の御妻君で、持統天皇11年(697年)の御代に創建したと伝えられています。「女別当社」と呼ばれ、婦人病に霊験があるとして信仰を集めました。
境内には、宇志丸宿禰が植えたのに始まるとされる「唐崎の松」があります。唐崎は、古くから景勝の地として数々の古歌にも詠まれ「近江八景」の一つ「唐崎の夜雨」の老松との景観は天下の名勝として知られています。
宇志丸宿禰が植えた初代の松は天正9(1581)年に台風で倒れ、二代目の松は天正19(1591)年、大津城主だった新庄駿河守直頼らが良木を求めて植え替えました。幹周囲9mにも及び、枝を多数の支柱に支えられた天下の名木として知られていました。現在も枝を支えた石組みや支柱の礎石が往事の雄大さを偲ばせます。
二代目は大正10(1921)年に枯死し、その実生木を近くの駒繋ぎ場から移植したもので、樹齢は150年〜200年と推定されています。
唐崎神社 - 01
唐崎神社 - 01 posted by (C)pismo

唐崎神社 - 02
唐崎神社 - 02 posted by (C)pismo

唐崎神社 - 03
唐崎神社 - 03 posted by (C)pismo

唐崎神社 - 04
唐崎神社 - 04 posted by (C)pismo

唐崎神社 - 05
唐崎神社 - 05 posted by (C)pismo

唐崎神社 - 10
唐崎神社 - 10 posted by (C)pismo

その次は久々に訪れた浮御堂
湖西でも私が最も好きな風景で、「近江八景」の一つ「堅田の落雁」として有名です。
正式には海門山満月寺と称する禅寺で臨済宗大徳寺派の寺院です。
一条天皇の長徳年間に源信(恵心)僧都が、湖中に一宇を建立して自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで「千仏閣」「千体仏堂」と称し湖上通船の安全と衆生教学を発願したのが始まりとされています。
堅田の地は、室町時代から戦国時代にかけて度々戦場となり荒廃しました。
江戸時代に復興し、桜町天皇より御能舞台の御下賜を仰いで再興しました。
しかし、昭和9(1934)年、室戸台風で倒壊し、昭和12(1937)年に再建されました。
湖面に建つ小堂からの風景は最高です。
浮御堂 - 01
浮御堂 - 01 posted by (C)pismo

浮御堂 - 02
浮御堂 - 02 posted by (C)pismo

浮御堂 - 03
浮御堂 - 03 posted by (C)pismo

浮御堂 - 04
浮御堂 - 04 posted by (C)pismo

佐川美術館は、佐川急便の創業40周年記念事業の一環として守山市に平成10(1998)年3月22日に開館した美術館です。
日本画家の平山郁夫、彫刻家の佐藤忠良、陶芸家の樂吉左衛門の作品を中心に展示しています。

佐川美術館 - 01
佐川美術館 - 01 posted by (C)pismo

佐川美術館 - 02
佐川美術館 - 02 posted by (C)pismo

佐川美術館 - 03
佐川美術館 - 03 posted by (C)pismo

佐川美術館 - 04
佐川美術館 - 04 posted by (C)pismo

佐川美術館 - 05
佐川美術館 - 05 posted by (C)pismo

樂吉左衛門館は15代樂吉左衛門がプロデュースした建物で平成19(2007)年にオープンしました。
茶室と、地下の展示室が不思議な空間を作り出しています。
佐川美術館 - 06
佐川美術館 - 06 posted by (C)pismo

佐川美術館 - 07
佐川美術館 - 07 posted by (C)pismo

佐川美術館 - 08
佐川美術館 - 08 posted by (C)pismo

佐川美術館 - 09
佐川美術館 - 09 posted by (C)pismo

平山郁夫さんの作品は映像なども通してゆっくりと見ることができました。
佐川美術館 - 10
佐川美術館 - 10 posted by (C)pismo

佐川美術館 - 11
佐川美術館 - 11 posted by (C)pismo

Posted at 2010/06/27 22:13:21 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年05月24日 イイね!

歴史の道・神君の伊賀越え(その2・甲賀〜伊賀)

紫香楽宮は、天平12(740)年の「藤原広嗣の乱」を契機に平城宮を離れた聖武天皇が天平14(742)年に造営を開始し、天平15(743)年には「大仏建立の詔」がこの地で発布されました。天平17(745)年には廃都となり大仏も東大寺で建立されました。
この丘陵の遺跡は大正15(1926)年に国史跡「紫香楽宮跡」として指定されましたが、発掘調査により、宮殿跡とされた礎石遺構が東大寺の建物配置に類似することや、山城国分寺跡と同范瓦が出土することから寺院跡であることが判明し、甲賀寺跡であると推測されています。しかし、東大寺の規模と比較して面積で三割弱にすぎず、狭小であることから「甲賀宮国分寺」と称される寺院であるという説もあり、現状の遺跡をどう解釈するか今後の検討課題であるとされています。
紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 01
紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 01 posted by (C)pismo

紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 02
紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 02 posted by (C)pismo

紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 03
紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 03 posted by (C)pismo

紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 04
紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 04 posted by (C)pismo

紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 05
紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 05 posted by (C)pismo

紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 06
紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 06 posted by (C)pismo

紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 07
紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 07 posted by (C)pismo

紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 08
紫香楽宮跡(甲賀寺跡) - 08 posted by (C)pismo

小川城の築城時期は不明ですが、一説には嘉元3(1305)年に鶴見氏によって築城されたとの伝承がありますが定かではありません。
長享元(1487)年頃、多羅尾光紀は鶴見成俊を攻撃し、小川城は多羅尾氏の城となりました。
天正10(1582)年の本能寺の変の際、徳川家康が三河へ帰る途中、多羅尾光俊は家康を小川城へ迎え、甲賀の武士団の協力により御斎峠を越え伊賀の柘植へ向かいました。
多羅尾光俊は、文禄4(1595)年に豊臣秀次事件に連座し領地を没収されたため、小川城は廃城と
なりました。
多羅尾氏は関ヶ原の戦いの後、家康に召し抱えられ、天領代官をつとめ、明治維新までこの地を再び治めました。
小川城 - 01
小川城 - 01 posted by (C)pismo

小川城 - 02
小川城 - 02 posted by (C)pismo

小川城 - 03
小川城 - 03 posted by (C)pismo

小川城 - 04
小川城 - 04 posted by (C)pismo

小川城 - 05
小川城 - 05 posted by (C)pismo

小川城 - 06
小川城 - 06 posted by (C)pismo

小川城 - 07
小川城 - 07 posted by (C)pismo

小川城 - 08
小川城 - 08 posted by (C)pismo

浄顕寺は山号は清龍山、浄土宗の寺院で多羅尾氏の菩提寺です。
鎌倉時代初期に法然上人が美作国へ下向する時立ち寄って植えられたと言う菩提樹の樹があります。
境内には十王石仏があります。
徳川家康が本能寺の変の後本国に戻る伊賀越えの際に、一体を駕籠に乗せて自分の身代わりにしたそうです。
浄顕寺 - 1
浄顕寺 - 1 posted by (C)pismo

浄顕寺 - 2
浄顕寺 - 2 posted by (C)pismo

浄顕寺 - 3
浄顕寺 - 3 posted by (C)pismo

浄顕寺 - 4
浄顕寺 - 4 posted by (C)pismo

浄顕寺 - 5
浄顕寺 - 5 posted by (C)pismo

多羅尾代官陣屋です。
多羅尾氏はこの地を治めていた豪族ですが、文禄4(1595)年に豊臣秀次事件に伴い領地を没取されますが、その後許されて多羅尾に居住しました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後、本能寺の変の後の伊賀越えで支援したこともあり、徳川家康より1500石を与えられて、寛永15(1538)年に多羅尾光好は天領の代官となりここに屋敷を築き明治維新まで世襲代官として続きました。
この陣屋は「多羅尾代官所」・「信楽御役所」と呼び、多羅尾氏の歴代の代官は四日市市(三重県)の四日市陣屋も代官を兼務し、近江・伊勢・播磨などで5万石ほどの天領を納めていました。
現在も子孫の方が在住だそうで、敷地への立ち入りは出来ません。
入口に説明看板が建っていました。
多羅尾代官陣屋 - 1
多羅尾代官陣屋 - 1 posted by (C)pismo

御斎峠は、標高630m、多羅尾の東方にあり、近江国甲賀郡と伊賀国(滋賀県と三重県)の国境にあります。
御斎峠の名の由来は、鎌倉時代に臨済宗の高僧夢窓国師が伊賀三田の空鉢山寺へ来られた際にこの峠で村人が接待(斎)をしたことに由来しているそうです。
本能寺の変の際、徳川家康が堺、枚方、宇治田原を経て伊勢に逃れる際も多羅尾光俊父子に警護されこの峠を越えたと言われています。
この峠は眺望が良く、伊賀地方や奈良金剛の山々が遠望できます。
御斎峠 - 1
御斎峠 - 1 posted by (C)pismo

御斎峠 - 2
御斎峠 - 2 posted by (C)pismo

徳永寺は浄土宗の寺院です。正式には、平庸山無量寿院徳永寺といいます。
元々は現在地の西側にあったそうで、永禄、元亀年間(1558〜1572)に現在地に移転しました。
本能寺の変の際の伊賀越えの際、徳川家康一行がここで休息したと伝えられています。
家康は礼として葵紋の使用を許し、寺領を与えました。
現在でも葵紋が使用されています。鬼瓦には立葵紋が使用されていますが、これが元々の家康の紋所といわれています。
徳永寺 - 01
徳永寺 - 01 posted by (C)pismo

徳永寺 - 02
徳永寺 - 02 posted by (C)pismo

徳永寺 - 03
徳永寺 - 03 posted by (C)pismo

徳永寺 - 04
徳永寺 - 04 posted by (C)pismo

まだここから加太越えをして伊勢に入るわけなのですが、この日はスタートが午後だったこともあり、今回の伊賀越えをたどるドライブはここまでとします。また機会があれば・・・
Posted at 2010/06/24 07:16:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年05月24日 イイね!

歴史の道・神君の伊賀越え(その1・京田辺〜宇治田原)

「小学館ウィークリーブック・真説 歴史の道」が現在刊行中です。
古戦場や城という視点とは少し異なる「道」というテーマ。
ドライブと歴史好きな人間としてはついつい買ってしまいます。
今回、徳川家康の「神君の伊賀越え」が特集されていたので、少し辿ってみることに・・・

この日はあいにくの雨。それも結構激しく降っていました。昼から小やみになったので出かけることにしました。
遅い出発になりました。

まずは完成したばかりの第二京阪を通って京田辺市から。
最初は穴山梅雪の墓です。穴山梅雪(穴山信君)は、以前甲斐武田家の武将で、母は武田信玄の姉の南松院、妻は武田信玄の三女、見性院妙顕です。この見性院は、梅雪の死後2代将軍徳川秀忠の三男幸松丸(後の保科正之)を養育しました。
天正10(1582)年、武田崩れの際に梅雪は信長に降り、徳川家康と共に御礼言上を兼ねて上洛しました。
そして織田信長が明智光秀に殺された本能寺の変が起こったとき、泉州堺(大阪府堺市)に滞在していた徳川家康は、京都を避けて急いで本拠の岡崎城に帰るため、堺から飯盛山、枚方の尊延寺を経て京田辺市に入り、普賢寺、興戸、草内のコースで木津川を渡り、宇治田原から朝宮、加太、白子、大浜に出て帰城しました。
1日遅れて梅雪は、同じコースをたどり帰城しようとしましたが、河内の土民に追い詰められて木津川を渡る前に主従12名と共に自刃したと古文書は伝えていますが、殺害されたとの説もあります。そして飯岡(いのおか)の人たちが手厚くここに葬ったといわれています。
一説には、普賢寺谷で梅雪の従者が、道案内人を殺し、その太刀の銀製のツバを奪ったことから、土着民が蜂起し、梅雪が木津川を渡る前に殺害されたとの伝説がこの里に伝わっています。
穴山梅雪の墓
穴山梅雪の墓 posted by (C)pismo

穴山梅雪の墓がある飯岡共同墓地の北側隣接地にある飯岡車塚古墳は古墳時代(4世紀後半)に造られた前方後古墳です。全長は90m、後円部直径は60mほどの大きさでした。
明治35(1902)年に後円部が発掘され、棺を納めた竪穴式石室から勾玉、管玉、小玉、石釧、車輪石、鍬形石、石製小型坩、刀剣片などが見つかりましたが、銅鏡が見つからなかったのでそれ以前に盗掘されていたと考えられています。
古墳の表面は葺石でおおわれ、周りを埴輪で囲まれています。
埴輪の中には楕円筒埴輪があることが昭和51(1976)年の発掘調査でわかりました。
この飯岡には古墳時代前期の車塚古墳、中期の薬師山古墳、ゴロゴロ山古墳、弥陀山古墳、トヅカ古墳、後期の東原古墳、飯岡横穴と古墳時代を通じて多くの古墳が造られ続けました。
墓の主は、木津川の水運に関係した一族の墓ではないかと考えられています。
飯岡車塚古墳 - 1
飯岡車塚古墳 - 1 posted by (C)pismo

飯岡車塚古墳 - 2
飯岡車塚古墳 - 2 posted by (C)pismo

草内の渡し場跡です。木津川の渡しがある草内は、「くさじ」または「くさち」と読んでいましたが、現在は「くさうち」と呼ばれています。また、対岸の十六を結んでいたため十六の渡しとも呼ばれています。
河内・大和方面から宇治田原に出る主要な渡しでした。
本能寺の変の際、徳川家康とともに堺にいた穴山梅雪は三河岡崎に戻る途中、木津川草内の渡し付近で一揆のために命を落としたといわれています。
木津川西岸のホームセンターダイキ京田辺店から川岸に沿って走る道に出るあたりに石碑が建っています。
草内の渡し場碑 - 1
草内の渡し場碑 - 1 posted by (C)pismo

草内の渡し場碑 - 2
草内の渡し場碑 - 2 posted by (C)pismo

山口城は、織田信長の命により山口甚助秀康が築いた城です。
天正10(1582)年6月2日の本能寺の変の際、堺にいた徳川家康が河内より尊延寺を越え、田辺、草内を経て木津川を渡り田原郷に入り6月3日己の刻(午前10時)に山口城に到着しました。
昼食をとり乗馬を替えて申の刻(午後4時)に信楽へ向かいました。
山口氏は関ヶ原の戦いで滅び、城は廃城となりました。
現在は遺構らしい遺構はほとんど残っていませんが、山口氏の菩提寺の極楽寺西側の茶畑に説明看板が建っています。

山口城〔宇治田原城〕 - 1
山口城〔宇治田原城〕 - 1 posted by (C)pismo

山口城〔宇治田原城〕 - 2
山口城〔宇治田原城〕 - 2 posted by (C)pismo


大道寺は、金胎寺の北側登山口に天平勝宝8(756)年、施基皇子の御子、大納言三品湯原王の発願により、鷲峰山中興の越知泰澄大師が開基しました。
大伽藍も配置されている寺でしたがその後衰退し、嘉承元(1106)年11月、藤原忠実の帰依により再興し、それより大御堂と称したと言われています。
その後、その子頼長の所領となりましたが、保元の乱で亡くなった後、院領を経て信西(藤原通憲)の所領となりました。
平治の乱で信西はこの地で自害したと言われ、向かい側に信西入道の塚があります。
大道寺はその後も存続しましたが、戦国時代に寺領没収でほぼ滅亡に近い状態になりました。昭和28(1953)年の山城水害では土砂崩れで寺は壊滅しました。しかし、五体の仏像は難を逃れました。
平成16(2004)年、現在の建物を新築しました。小さなお堂の中に仏像が安置されているそうです。
大道寺 - 1
大道寺 - 1 posted by (C)pismo

大道寺 - 2
大道寺 - 2 posted by (C)pismo

信西入道塚です。大道寺の領民はこの場所に塚を築いてその菩提を弔ったと伝えられています。
大正5(1916)年、有志により供養塔が建てられました。
信西入道塚
信西入道塚 posted by (C)pismo

大道神社(おおみちじんじゃ)は、菅原道真を祭る神社です。
本殿は延宝8(1680)年の建立で、宇治田原町指定文化財となっています。
紅葉の名所だそうです。
大道神社
大道神社 posted by (C)pismo

遍照院(へんじょういん)は真言宗の寺院です。
建立は元亀元(1570)年です。
天正10(1582)年6月2日の本能寺の変の後、堺見物をしていた徳川家康が大急ぎで本国に帰る途中、立ち寄った寺院です。
家康は山口城で昼食をとった後、案内人を得て物見の者と連絡を取りながら街道沿いの遍照院へ到着しました。
この後、新たな案内人を得て朝宮を通り遅くに多羅尾の小川城に到着しました。
境内には紅梅の古木や、鎌倉時代の作とも言われている無縫塔があります。
遍照院 - 1
遍照院 - 1 posted by (C)pismo

遍照院 - 2
遍照院 - 2 posted by (C)pismo

遍照院 - 3
遍照院 - 3 posted by (C)pismo

遍照院 - 4
遍照院 - 4 posted by (C)pismo

遍照院 - 5
遍照院 - 5 posted by (C)pismo

この後は、裏白峠を越えて甲賀へ向かいます。
Posted at 2010/06/20 01:01:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2010年05月03日 イイね!

H22越後上杉紀行(3日目その5・村上から帰路へ)

今回の旅行最後に村上を訪れました。

村上城は戦国時代には本庄城といい、本庄氏の居城でした。別名を舞鶴城ともいいます。
築城時期は定かはありませんが、本庄氏によって臥牛山に築城されたとみられています。
永禄11(1568)年、城主本庄繁長は上杉謙信に反旗を翻し1年に亘り籠城しましたが、伊達氏、蘆名氏の斡旋を受け入れ、嫡子顕長を人質に出し、所領を一部没収されることで講和を受け入れました。
慶長3(1598)年、本庄氏の会津転封にともなって、堀秀治の家臣・村上頼勝(義明)が領主となりました。村上氏によって近世城郭への改築され、村上城と名も改めました。
その後元和5(1619)年に堀直寄が入封し、翌年完成しました。堀氏の時代には3重の天守が建てられていました。正保元(1644)年には本多忠義が入城しましたが、慶安2(1649)年に姫路から松平直矩が入城しました。直矩は、村上城を大規模に改修し天守、櫓等が新たに造り直されました。
寛文7(1667)年榊原政倫が入城しましたが、10月の落雷により天守等を焼失しました。
以後天守が再建されることはありませんでした。その後本多氏、長沢松平氏、間部氏と城主が次々に代わり、享保5(1720)年内藤弌信(かずのぶ)が入城し幕末まで内藤氏の居城でした。
戊辰戦争で村上城は焼失し、明治3(1870)年村上県知事内藤信美は、焼け残っていた城郭の破却を政府に届出し、受理されました。
現在は、「村上城跡保存育英会」が長年維持管理を行っています。
昭和35(1960)年に新潟県指定史跡、平成5(1993)年には国の史跡に指定されています。
主郭部の石垣も見事ですが、主郭部東側には中世の本庄城を巡る中世散策コースが整備されており、空堀や曲輪跡を楽しむことができます。
村上城(本庄城) - 01
村上城(本庄城) - 01 posted by (C)pismo

村上城(本庄城) - 02
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村上城(本庄城) - 03
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村上城(本庄城) - 04
村上城(本庄城) - 04 posted by (C)pismo

村上城(本庄城) - 05
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村上城(本庄城) - 06
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村上城(本庄城) - 07
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村上城(本庄城) - 08
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村上城(本庄城) - 09
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村上城(本庄城) - 10
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村上城(本庄城) - 11
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村上城(本庄城) - 12
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村上城(本庄城) - 13
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村上城(本庄城) - 14
村上城(本庄城) - 14 posted by (C)pismo

村上城(本庄城) - 15
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村上城(本庄城) - 16
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村上城(本庄城) - 17
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村上城(本庄城) - 18
村上城(本庄城) - 18 posted by (C)pismo

村上城(本庄城) - 19
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村上城(本庄城) - 20
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村上城(本庄城) - 21
村上城(本庄城) - 21 posted by (C)pismo

村上城(本庄城) - 22
村上城(本庄城) - 22 posted by (C)pismo

村上城(本庄城) - 23
村上城(本庄城) - 23 posted by (C)pismo

村上城(本庄城) - 24
村上城(本庄城) - 24 posted by (C)pismo

村上城(本庄城) - 25
村上城(本庄城) - 25 posted by (C)pismo

村上城(本庄城) - 26
村上城(本庄城) - 26 posted by (C)pismo

村上城(本庄城) - 27
村上城(本庄城) - 27 posted by (C)pismo

村上城(本庄城) - 28
村上城(本庄城) - 28 posted by (C)pismo

村上城(本庄城) - 29
村上城(本庄城) - 29 posted by (C)pismo

まいづる公園は、平成10(1998)年、3棟の武家屋敷がある公園として皇太子殿下、雅子妃殿下のご成婚を記念しオープンしました。
まいづる公園 - 01
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まいづる公園 - 02
まいづる公園 - 02 posted by (C)pismo

旧嵩岡家住宅は、江戸時代後期に建てられたもので茅葺き屋根、寄棟造の住宅で、平成8(1996)年に現在地に移築復元されました
嵩岡家は雅子妃殿下の実家小和田家と関わりがあり、雅子妃殿下の祖母の実家という関係だそうです。
まいづる公園・旧嵩岡邸 - 03
まいづる公園・旧嵩岡邸 - 03 posted by (C)pismo

まいづる公園・旧嵩岡邸 - 04
まいづる公園・旧嵩岡邸 - 04 posted by (C)pismo

旧岩間家住宅は、長屋形式の住宅だったものを安政5(1858)年に一戸建に改築した武家住宅です。


まいづる公園・旧岩間邸 - 05
まいづる公園・旧岩間邸 - 05 posted by (C)pismo

まいづる公園・旧岩間邸 - 06
まいづる公園・旧岩間邸 - 06 posted by (C)pismo

まいづる公園・旧岩間邸 - 07
まいづる公園・旧岩間邸 - 07 posted by (C)pismo

旧藤井家住宅は、この場所にあった住宅を復元したもので、嘉永3(1850)年に建てられたものとされています。
訪れた時は、夕方のため内部は見学できませんでしたが、外観を見ることができました。
まいづる公園・旧藤井邸 - 08
まいづる公園・旧藤井邸 - 08 posted by (C)pismo

まいづる公園・旧藤井邸 - 09
まいづる公園・旧藤井邸 - 09 posted by (C)pismo

まいづる公園・旧藤井邸 - 10
まいづる公園・旧藤井邸 - 10 posted by (C)pismo

まいづる公園・旧藤井邸 - 11
まいづる公園・旧藤井邸 - 11 posted by (C)pismo


若林家住宅は、昭和52(1977)年、国指定の重要文化財に指定された武家屋敷です。
築200年以上の建物で、典型的な中級武士の建物です。
ここも夕方だったので、中には入れませんでした。残念!
若林家住宅 - 1
若林家住宅 - 1 posted by (C)pismo

若林家住宅 - 2
若林家住宅 - 2 posted by (C)pismo

帰路につく前に道の駅関川・えちごせきかわ桂の関温泉「ゆ~む」で旅の疲れを癒しました。
10年以上前にも訪れました。
道の駅関川・えちごせきかわ桂の関温泉「ゆ~む」
道の駅関川・えちごせきかわ桂の関温泉「ゆ~む」 posted by (C)pismo

ここからの帰路が結構しんどかったです。関西から車で新潟県下越地方は遠かった、と改めて思いました。
でもゴールデンウィークにも関わらず、渋滞にほとんど遭遇せず楽しいドライブだったと思います。
Posted at 2010/06/13 00:57:42 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記

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