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ピズモのブログ一覧

2015年09月26日 イイね!

賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)の式年遷宮に伴う本殿などの特別公開

この日は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)が21年に1回の式年遷宮に伴う、本殿などの特別公開を見に行きました。
賀茂別雷神社は、通称の上賀茂神社で知られています。
この付近一帯に繁栄した賀茂氏が創祀した京都最古の神社で御祭神は賀茂別雷神です。
賀茂伝説によれば賀茂氏の祖神建角身命(たけつぬみのみこと)の女玉依姫命(たまよりひめ)が瀬見の小川(賀茂川)を流れ下る丹塗の矢に感じて、別雷神(大自然を支配する神)が出現せられたと伝えられています。
神代の昔、本殿の北北西にある神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代現在の地に社殿が造営されました。
厄除、八方除、電気の守り神、必勝の神として信仰を集めています。
平安遷都とともに賀茂別雷神に対する信仰は高まり全国雷神の中心となりました。皇室でも嵯峨天皇の弘仁元(810)年以来内親王が斎王として奉仕される慣わしとなり、山城国一ノ宮と呼ばれて伊勢神宮と並ぶ崇敬を捧げられました。
社殿は21年毎に造営される慣例でしたが中世以来中絶しました。現在の式年遷宮は、屋根のの葺き替えや建具・金具の補修、壁の塗り替えなど修理と祭儀が行われます。
現在の社殿は、本殿・権殿が文久3(1863)年、その他の社殿は寛永5(1628)年に造替されたものです。
本殿・権殿は共に流造の典型として国宝に指定され、他の41棟は重要文化財に指定されています。
平成6(1994)年12月「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録されています。
毎年5月15日の賀茂祭は三大勅祭の第一で俗に葵祭の名で親しまれており当日は平安朝の古式ゆかしい行列も都大路に繰りひろげられています。
さらに5月5日の競馬会、5月12日御阿礼神事など古式の面影を豊かに伝える行事が四季を通じて行われます。

特別拝観では、修復されたばかりの本殿(国宝)と権殿(国宝)の特別参拝と、平成27年10月の正遷宮にちなんだ貴重な御神宝の公開です。
内部は残念ながら撮影禁止です。
上賀茂神社
上賀茂神社 posted by (C)pismo

上賀茂神社 (1)
上賀茂神社 (1) posted by (C)pismo

上賀茂神社 (2)
上賀茂神社 (2) posted by (C)pismo

上賀茂神社 (3)
上賀茂神社 (3) posted by (C)pismo

上賀茂神社 (4)
上賀茂神社 (4) posted by (C)pismo

上賀茂神社 (5)
上賀茂神社 (5) posted by (C)pismo

上賀茂神社 (6)
上賀茂神社 (6) posted by (C)pismo

上賀茂神社 (7)
上賀茂神社 (7) posted by (C)pismo

上賀茂神社 (8)
上賀茂神社 (8) posted by (C)pismo

上賀茂神社 (9)
上賀茂神社 (9) posted by (C)pismo



賀茂御祖神社は、通称の下鴨神社で知られています。
平安期以前の創祀で京最古の社の一つでこの地を占有していた賀茂氏が創祀したわが国最古の神社の一つです。
祭神として、賀茂建角身命と玉依姫命を祀っています。
玉依姫命は賀茂氏の祖神賀茂建角身命の子で、瀬見の小川(賀茂川)の川上から流れてきた丹塗りの矢によって身ごもり、別雷神を生んだといわれています。
平安遷都後は王城の守護神としてあがめられ、賀茂斎院、行幸式日、参篭御幸、関白賀茂詣、式年遷宮等の制度も設けられ、中世には山城国一ノ宮と呼ばれて、崇敬をあつめました。
「糺の森」は、古代山城北部が森林地帯であった頃の植生と同じ生態が保たれている貴重な森林であり、国の史跡に指定されています
糺の森の広大な境内には本殿(国宝)2棟や53棟の重要文化財社殿が並び、平成6(1994)年12月には、「古都京都の文化財」として、世界文化遺産に登録されました。

特別拝観では、賀茂建角身命と玉依媛命を祀る本殿(国宝)を特別参拝所からの拝観と、神様のお台所・大炊殿(重文)と、神服殿(重文)では、境内や祭事を撮影した俳優・井浦新氏の写真展が開かれていました。
下鴨神社
下鴨神社 posted by (C)pismo

下鴨神社 (1)
下鴨神社 (1) posted by (C)pismo

下鴨神社 (2)
下鴨神社 (2) posted by (C)pismo

下鴨神社 (3)
下鴨神社 (3) posted by (C)pismo

下鴨神社 (4)
下鴨神社 (4) posted by (C)pismo

下鴨神社 (5)
下鴨神社 (5) posted by (C)pismo

下鴨神社 (5)
下鴨神社 (5) posted by (C)pismo

下鴨神社 (6)
下鴨神社 (6) posted by (C)pismo

下鴨神社 (7)
下鴨神社 (7) posted by (C)pismo

下鴨神社 (8)
下鴨神社 (8) posted by (C)pismo

下鴨神社 (9)
下鴨神社 (9) posted by (C)pismo

下鴨神社 (10)
下鴨神社 (10) posted by (C)pismo

河合神社は、正式には鴨河合坐小社宅(かものかわいにいますおこそべ)神社といい、賀茂社の社家に祀られていた屋敷神だったといわれています。
ご祭神は、神武天皇の御母神、玉依姫命で日本婦人の鑑とも仰がれており、安産・育児・縁むすび・学業・延命長寿の守護神として広く知られています。
鎮座の年代は不詳ですが、神武天皇の御代から余り遠くない時代と伝えられています。
鴨長明ゆかりの神社としても知られています。鴨長明は、本宮禰宜の家系で幼少より和歌にすぐれ、後鳥羽院に見だされ御和歌所の寄せ人となり、宮廷歌人として活躍したことで知られています。
糺の森の南西側にあります。
河合神社
河合神社 posted by (C)pismo

河合神社 (1)
河合神社 (1) posted by (C)pismo

河合神社 (2)
河合神社 (2) posted by (C)pismo

河合神社 (3)
河合神社 (3) posted by (C)pismo

河合神社 (4)
河合神社 (4) posted by (C)pismo
Posted at 2015/12/31 14:50:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2015年09月22日 イイね!

甲子園歴史館

ふと、思い立って甲子園球場にある甲子園歴史館を訪れました。
今まで、なぜかいつでもいけると訪れたことがなく、初めての訪問です。
甲子園歴史館は、平成22(2010)年3月の阪神甲子園球場リニューアル完了に伴い、球場レフト外野スタンド下に、高校野球、阪神タイガース、阪神甲子園球場の歴史を一堂に集めた展示施設として開館しました。
日本高等学校野球連盟、朝日新聞社、毎日新聞社、阪神タイガースの特別協力を得ながら、阪神電気鉄道が運営しています。
元々は、昭和60(1985)年3月に球団創立50周年を記念して設置された阪神タイガース史料館が前身です。
高校野球、阪神タイガース、同球場を舞台として各時代に生まれた名勝負・名シーンの数々や、長い歴史の中で生まれた数多くの名選手たちを、懐かしい映像や写真、貴重な展示品を通じて紹介していると共に、90年以上にわたる阪神甲子園球場の歴史を、誕生秘話や戦時中のエピソードも交えて紹介するほか、リニューアル前の球場で使用されていた史料、アメリカンフットボール大学日本一を決める甲子園ボウルの史料も展示しています。
また、阪神甲子園球場をガイドが案内する「スタジアムツアー」が行われています。
甲子園歴史館 (2)
甲子園歴史館 (2) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (3)
甲子園歴史館 (3) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (4)
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甲子園歴史館 (4)
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甲子園歴史館 (5)
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甲子園歴史館 (6)
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甲子園歴史館 (7)
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甲子園歴史館 (8)
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甲子園歴史館 (9)
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甲子園歴史館 (10)
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甲子園歴史館 (11)
甲子園歴史館 (11) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (12)
甲子園歴史館 (12) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (13)
甲子園歴史館 (13) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (14)
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甲子園歴史館 (15)
甲子園歴史館 (15) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (16)
甲子園歴史館 (16) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (17)
甲子園歴史館 (17) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (18)
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甲子園歴史館 (19)
甲子園歴史館 (19) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (20)
甲子園歴史館 (20) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (21)
甲子園歴史館 (21) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (22)
甲子園歴史館 (22) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (23)
甲子園歴史館 (23) posted by (C)pismo

甲子園歴史館 (24)
甲子園歴史館 (24) posted by (C)pismo
Posted at 2015/12/31 11:55:37 | コメント(2) | トラックバック(0) | 阪神 | 日記
2015年09月12日 イイね!

讃岐・阿波(その3・本山寺〜豊稔池ダム〜雲辺寺〜大西城〜重清城)

本山寺は、山号は七宝山、高野山真言宗の寺院で四国八十八箇所の第七十番札所です。
大同2(807)年、平城天皇の勅願寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊として開創したといわれています。
中世には寺領2000石、24坊を持つ大寺となって栄えました。
天正年間、長宗我部の兵火により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受け、本山寺も諸堂を焼失しましたが、鎌倉時代建立の本堂や仁王門等は兵火を免れ現存しています。江戸時代には領主の生駒氏と京極氏により再興されました。
本堂は、正安2(1300)年建立の一重寄棟造り、本瓦葺きの折衷様式で、外観は京都風、内部は奈良風の造りで国宝に指定されています。
仁王門は、和様・唐様・天竺様という三つの様式の山門でどっしりとした構えの八脚門は国指定の重要文化財です。
五重塔は、明治43(1910)年、住職の頼富実毅が再建したものです。
本山寺 ー 01
本山寺 ー 01 posted by (C)pismo

本山寺 ー 02
本山寺 ー 02 posted by (C)pismo

本山寺 ー 03
本山寺 ー 03 posted by (C)pismo

本山寺 ー 04
本山寺 ー 04 posted by (C)pismo

本山寺 ー 05
本山寺 ー 05 posted by (C)pismo

本山寺 ー 06
本山寺 ー 06 posted by (C)pismo

本山寺 ー 07
本山寺 ー 07 posted by (C)pismo


豊稔池堰堤(豊稔池ダム)は、日本最古の石積式マルチプルアーチダムです。
阿讃山脈を分け入る柞田川(くにたがわ)上流にあり、堤長145.5m、堤高30.4mのコンクリート造溜池堰堤で、両端部を重力式、中央部が5個のアーチと6個の扶壁(バットレス)からなるマルチプルアーチ式で、その構造形式は農業土木史上価値が高く、また、昭和前期における堰堤建設の技術的達成度を示しており、平成18(2006)年12月19日に重要文化財(建造物)に指定されています。
大正15(1926)年に起工、昭和4(1929)年11月の竣工後、80年近く経過した今でも約500haの農地の水がめとして活躍しています。
建設に際してはすべて地元農家の出役で工事が行われ、約3年8カ月の間無事故で完成しました。
また、当初、池の名称は「田野々池」でしたが、昭和4(1929)年5月に三土忠造大蔵大臣が現地視察をした際に「豊稔池」と命名されました。
平成6(1994)年に大規模な改修工事や周辺整備が終わり、一年を通じて多くの観光客がここを訪れています。特に、夏(不定期)に行われるユルヌキ(放流)風景は季節の風物詩として知られています。
豊稔池堰堤〔豊稔池ダム〕 - 01
豊稔池堰堤〔豊稔池ダム〕 - 01 posted by (C)pismo

豊稔池堰堤〔豊稔池ダム〕 - 02
豊稔池堰堤〔豊稔池ダム〕 - 02 posted by (C)pismo

豊稔池堰堤〔豊稔池ダム〕 - 03
豊稔池堰堤〔豊稔池ダム〕 - 03 posted by (C)pismo

豊稔池堰堤〔豊稔池ダム〕 - 04
豊稔池堰堤〔豊稔池ダム〕 - 04 posted by (C)pismo

雲辺寺は、正式には巨鼇山千手院雲辺寺という真言宗御室派の寺院です。
四国八十八箇所の第六十六番札所です。八十八箇所中で最も標高が高い札所です。
寺伝によれば、延暦8(789)年に佐伯真魚(後の空海・弘法大師)が善通寺建立のための木材を求めて雲辺寺山に登り、この地を霊山と感得し堂宇を建立したことを起源とします。空海はまた、大同2(807年)年には秘密灌頂の修法を行い、さらに弘仁9(818年)年に嵯峨天皇の勅命を受けて本尊を刻んで、七仏供養を行ったといわれています。後に「四国高野」と呼ばれ、僧侶の修業道場となり、清和天皇の勅願寺ともなりました。
鎌倉時代には七堂伽藍が整えられ関所寺となった。
天正5(1577)年に土佐を統一し、四国制覇を狙う土佐の戦国大名・長宗我部元親が雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語りました。住職は、「薬缶の蓋では水瓶の蓋はできません。あなたも四国全土を覆える器ではなく、土佐一国の器です」といいました。しかし元親は「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。たとえ小さくとも四国に蓋をしてみせる」と答えたそうです。
所在地は徳島県(阿波)であるが、四国八十八箇所霊場としては讃岐の札所として扱われています。
昭和62(1987)年には香川県観音寺市側の山麓と雲辺寺ロープウェイによって結ばれました。
雲辺寺 ー 01
雲辺寺 ー 01 posted by (C)pismo

雲辺寺 ー 02
雲辺寺 ー 02 posted by (C)pismo

雲辺寺 ー 03
雲辺寺 ー 03 posted by (C)pismo

雲辺寺 ー 04
雲辺寺 ー 04 posted by (C)pismo

雲辺寺 ー 05
雲辺寺 ー 05 posted by (C)pismo

雲辺寺 ー 06
雲辺寺 ー 06 posted by (C)pismo

雲辺寺 ー 07
雲辺寺 ー 07 posted by (C)pismo

雲辺寺 ー 08
雲辺寺 ー 08 posted by (C)pismo

雲辺寺 ー 09
雲辺寺 ー 09 posted by (C)pismo

雲辺寺 ー 10
雲辺寺 ー 10 posted by (C)pismo

雲辺寺 ー 11
雲辺寺 ー 11 posted by (C)pismo

陸軍第十一師団の山砲射撃場だった雲辺寺ヶ原史跡広場です。
雲辺寺山(海抜911m)の北西山麓に広がる約400ヘクタールの丘陵地帯は雲辺寺ヶ原と呼ばれ、今からおよそ120万年前(新生代洪積世の時代)、地殻の大変動によって山の中腹から削り剥がれた岩礫が堆積してできた洪積世台地です。
明治28(1895)年、日清戦争に勝利した日本は、富国強兵を国是として陸軍の増強を図りました。明治29(1896)年、善通寺に陸軍第十一師団が設立され、初代師団長として乃木希典中将が赴任しました。
明治33(1900)年、雲辺寺ヶ原が第十一師団の山砲射撃場の候補地として挙げられ、住民と再三にわたる交渉の結果、明治34(1901)年には陸軍用地となり、以来45年の間、山砲の射撃場として砲声が谷間にこだましました。
この広場は、昭和初期に建設された監的所で、砲弾の着弾地点を観測していました。その他2つの監的所と発射地点は電話で結ばれていました。
昭和20(1945)年太平洋戦争の終結と、ともにこの軍用地は、大蔵省の所管となり、農林省の指示のもと、、一部は民有地となり、残地は町有地となり、今日に至っています。
現在は、再び静寂と緑豊かな台地として生まれ変わりました。
(現地説明板などより)
雲辺寺ヶ原史跡広場 ー 01
雲辺寺ヶ原史跡広場 ー 01 posted by (C)pismo

雲辺寺ヶ原史跡広場 ー 02
雲辺寺ヶ原史跡広場 ー 02 posted by (C)pismo


大西城(池田大西城)は、承久の乱の後、阿波の守護となった小笠原長清によって承久3(1221)年に築かれました。
小笠原氏が勝瑞(現在の板野郡藍住町)に移ってからは、白地大西氏の支配下にあり、蜂須賀氏の入国後、秀吉から阿波一国を与えられた蜂須賀氏が藩政時代に阿波九城の一つとして修築を行いました。
寛永15(1638)年江戸幕府の一国一城制により廃城になりました。
池田幼稚園前に石碑が、そして、幼稚園の一部に石垣が保存されています。
石垣の積み方は野づら積みといわれるもので、昭和54(1979)年幼稚園改築の際、北側に埋蔵して保存し、東側はコンクリートの下から一部観察できるようにしています。
(現地説明板などより)
大西城〔池田大西城〕 ー 01
大西城〔池田大西城〕 ー 01 posted by (C)pismo

大西城〔池田大西城〕 ー 02
大西城〔池田大西城〕 ー 02 posted by (C)pismo

大西城〔池田大西城〕 ー 03
大西城〔池田大西城〕 ー 03 posted by (C)pismo

重清城は、長宗我部元親の阿波侵攻の際に三好氏との間で三度に渡り争奪が繰り広げられた城跡です。
承久の乱後、阿波に入部した小笠原氏の2代守護長房の孫長親が鎌倉時代末期にこの地にやって来て築きました。
約90×80mの範囲を城ヶ谷の断崖と二重堀・土塁で囲み、内側の中央には城主を祀った神社、北端付近には井戸があります。堀・土塁は、南東隅が切られておりそこが虎口です。
その北側には櫓台が置かれていたと思われ、堀・土塁が方形に張り出しています。特に二重堀・土塁は他に類を見ないほど良好な保存状態です。
長宗我部氏と三好氏の三度にわたる争奪については、まず土佐方の大西上野介と中鳥城主久米刑馬によって重清城主小笠原豊後守が謀殺され、それに対し三好(十河)存保は三千余の兵で城を包囲し、城を取り戻します。しかし、重清城は阿波侵攻の要衝であったため、長宗我部氏は再び重清城に侵攻します。この時、吉野川北岸には阿波方約五千人、南岸には土佐方がその数分からぬほどの大軍で対峙していたといわれています。
(現地説明板などより)
重清城 ー 01
重清城 ー 01 posted by (C)pismo

重清城 ー 02
重清城 ー 02 posted by (C)pismo

重清城 ー 03
重清城 ー 03 posted by (C)pismo

重清城 ー 04
重清城 ー 04 posted by (C)pismo

重清城 ー 05
重清城 ー 05 posted by (C)pismo
Posted at 2015/12/26 21:24:13 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2015年09月12日 イイね!

讃岐・阿波(その2・多度津城〔本台山城〕〜弥谷寺〜天霧城)

多度津城(本台山城)は、貞治3・正平19(1364)年頃に香川兵部少輔景房によって築かれたといわれています。
香川氏は相模国高座郡香川の発祥で、桓武平氏、鎌倉権五郎景政を祖とする家柄です。管領細川頼之に従って讃岐に来住し多度津を与えられました。
平時の居城として築かれ、詰めの城としては天霧城を備えていました。天正13(1585年)年、豊臣秀吉の四国征伐に伴い、香川氏は改易となり、多度津城も廃城となりました。
現在では桃陵公園となっています。
多度津城〔本台山城〕 - 01
多度津城〔本台山城〕 - 01 posted by (C)pismo

多度津城〔本台山城〕 - 02
多度津城〔本台山城〕 - 02 posted by (C)pismo

多度津城〔本台山城〕 - 03
多度津城〔本台山城〕 - 03 posted by (C)pismo

弥谷寺(いやだにじ)は、山号は谷五山、真言宗善通寺派大本山の寺院で四国八十八箇所の第七十一番札所です。
聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の書写の大方広仏華厳経を奉納し蓮華院八国寺を創建したのがはじまりといわれます。
空海は幼少の頃、天応1(781)年から延暦5(786)年まで寺院の前身である蓮華院八国寺(八王山)で勉学に励ん大同2(807)年、唐より帰国後の空海は蔵王権現のお告げにより岩窟の護摩堂と呼ばれる洞窟や獅子之岩屋で護摩を修し、寺宝の「金銅四天王五鈷鈴」を納め千手観音を安置し伽藍を再興し、山号を剣五山千手院、寺名を弥谷寺と改めたといわれています。
室町時代には天霧城主・香川氏の庇護を受けたましが、天正期に兵火により荒廃しました。江戸時代に丸亀藩主京極氏の帰依により復興されました。
弥谷寺 ー 01
弥谷寺 ー 01 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 02
弥谷寺 ー 02 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 03
弥谷寺 ー 03 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 04
弥谷寺 ー 04 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 05
弥谷寺 ー 05 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 06
弥谷寺 ー 06 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 07
弥谷寺 ー 07 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 08
弥谷寺 ー 08 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 09
弥谷寺 ー 09 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 10
弥谷寺 ー 10 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 11
弥谷寺 ー 11 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 12
弥谷寺 ー 12 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 13
弥谷寺 ー 13 posted by (C)pismo

弥谷寺 ー 14
弥谷寺 ー 14 posted by (C)pismo

天霧城は、弥谷寺の北東1キロ余りにある天霧山に築かれた香川氏の山城です。
中世の城郭は、有事に対しての備えを持った在地の武将の居館等を含めると、その数は香川県下だけでも400箇所近くが確認されています。
その中で天霧城は、その自然地形を巧みに利用した規模の雄大さといい、実践的な確かな縄張りといい、いかにも要害堅固であり、陸海どの方向の動向にも十分に対応できるという、地理的な好条件も備えた四国屈指の山城といえます。
香川氏は、相模国香川荘出身の鎌倉権五郎の末裔といわれており14世紀後半に讃岐の守護細川氏に従って入部しました。そして、西讃岐の要衝である多度津・本台山(現在の桃陵公園付近)に常の居館を構えました。
その後、西讃岐守護代の地位を得た香川氏が、有事に備えた詰めの城が天霧城です。本台山から天霧城までは直線で3km程、また、中世山城の基本的構造である「守るに易く攻めるに難い」という理想的な山城でした。
香川氏が天霧城を築城した天霧山は、善通寺市・三豊市・多度津町と境を接し、瀬戸内海に臨む弥谷山系の北東部に一段高まる山塊です。弥谷山(標高382m)から天霧山(381m)にかけての山頂部には、数か所に高まりがあります。また、山の周囲は急崖急坂の斜面で、全山が自然の要害地形を形成しています。
天霧城跡の縄張り造作の形式は、戦国時代末期頃(16世紀後半頃)に該当しますが、東方尾根の調査では、出土遺物等から15~16世紀に築造されていたことが判明しています。これは短期(一時期)の築造ではなく、必要に応じて徐々に拡張・増強されたことを示しています。
平成2(1990)年5月16日、国の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
城跡は弥谷寺から登りました。その他にも登山道はあるようです。
天霧城 ー 01
天霧城 ー 01 posted by (C)pismo

天霧城 ー 02
天霧城 ー 02 posted by (C)pismo

天霧城 ー 03
天霧城 ー 03 posted by (C)pismo

天霧城 ー 04
天霧城 ー 04 posted by (C)pismo

天霧城 ー 05
天霧城 ー 05 posted by (C)pismo

天霧城 ー 06
天霧城 ー 06 posted by (C)pismo

天霧城 ー 07
天霧城 ー 07 posted by (C)pismo

天霧城 ー 08
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天霧城 ー 09
天霧城 ー 09 posted by (C)pismo

天霧城 ー 10
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天霧城 ー 11
天霧城 ー 11 posted by (C)pismo

天霧城 ー 12
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天霧城 ー 13
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天霧城 ー 14
天霧城 ー 14 posted by (C)pismo

天霧城 ー 15
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天霧城 ー 16
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天霧城 ー 17
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天霧城 ー 18
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天霧城 ー 19
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天霧城 ー 20
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2015年09月12日 イイね!

讃岐・阿波(その1・さぬき市〜高松市〜善通寺市)

昼寝城は、鴨部川上流の南側にある矢筈山の中腹、俗称昼寝山の頂上にあり、寒川氏の城でした。
古代の讃岐公の一族で世々寒川郡司を務めた寒川氏は、室町時代後期には、大内・寒川の二郡のほかに小豆島も兼領し、この昼寝城を本城に池の内の台ガ山城(さぬき市長尾町名)を出城に、大内郡の虎丸城(東かがわ市大内町)、引田城(東かがわ市引田町)を支城にしました。戦国期の終わり頃まではここに城があったと考えられています。
昭和55(1980)年の調査で、白磁はどの陶磁器や、銅環・銅製切羽などの金属製品、多数の銅銭、砥石、玉石などが出土しました。また、最近の調査では、「遺構は尾根筋を堀切で遮断、土塁を囲みを構築した本丸曲輪が見られ、シンプルな縄張りであるが、在地領主の小規模城郭としては、防御構築物に合理性が見られ、良くできた城郭と言える。」と評価されています。〔昭和63(1988)年「中世城郭研究」〕
もともと、大多和神社(延喜式内社)から行基菩薩が布施屋を開いたという伝承のある古大窪に通じる道の途中、今も比丘尼(びくに=女性の宗教者がいたか?)渕と呼ばれる所から右に登る道がありました。
なぜ、こんな奥地にという疑問があるでしょうが、古代の信仰集団の存在や、鉱物資源を求める工人集団の存在を示す遺構があり、今周辺に見られる石垣の見事さから、かなりの人の住居が想像できます。(現津説明板より)
昼寝城 - 01
昼寝城 - 01 posted by (C)pismo

昼寝城 - 02
昼寝城 - 02 posted by (C)pismo

昼寝城 - 03
昼寝城 - 03 posted by (C)pismo

昼寝城 - 04
昼寝城 - 04 posted by (C)pismo

昼寝城 - 05
昼寝城 - 05 posted by (C)pismo

昼寝城 - 06
昼寝城 - 06 posted by (C)pismo

大窪寺は、山号は医王山、正式には医王山遍照光院大窪寺という真言宗大覚寺派の寺院です。
四国八十八箇所の第八十八番札所で、結願所として知られています。
奈良時代の養老年間に行基が開基し、弘仁年間に空海(弘法大師)が奥の院の岩窟で虚空蔵求聞持法を修し、薬師如来を刻んで安置したともされています。
大師が大きな窪の側に堂宇を建立した事から寺号の大窪寺の由来となり、山号を薬師如来を「医王」に見立て名付けました。
境内の「宝杖堂」には、結願した遍路の金剛杖が奉納され、毎年春分の日と8月20日に柴灯護摩供の焚き上げが行われます。また、宝杖堂の手前には、原爆の火が灯されています。
大窪寺 - 01
大窪寺 - 01 posted by (C)pismo

大窪寺 - 02
大窪寺 - 02 posted by (C)pismo

大窪寺ー 03
大窪寺ー 03 posted by (C)pismo


建武3(1336)年足利尊氏に従って京都東寺で戦死した益子下野守顕助の子弥次郎秀助が、阿波屋形細川頼春に従って四国に渡り、父の功績により讃岐国香川郡井原荘を賜り、姓は由佐と改め由佐に屋敷を構えたのが由佐城の始まりです。
城は東は香東川、南に沼地の多い自然を巧みに利用した要塞で、天正11(1583)年長宗我部元親軍が攻め入ったが容易に落城せず、和議を申し出たほどでした。
由佐家には「由佐家文書」が残されており、当時の由佐城を記す「由佐城絵図」には、「上之城」「下之城」「安部晴明墟」などの記述があります。
昔から由佐家では、水・火・盗難を封じた陰陽師「安部晴明」の練石を神庫に収め、その石を祀って災難を防いだといわれています。
天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国平定に伴い讃岐は仙石秀久が統治することとなり、由佐家もその配下に属し九州平定の軍に参陣しました。このときの敗戦の責任を取らされた仙石秀久に代わって讃岐の領主となった尾藤知宣にも従ったとされています。尾藤知宣も程なくして讃岐の領主を免ぜられ、領主の地位は生駒親正に受け継がれます。由佐家は生駒家に属し、文禄・慶長の役と2回朝鮮に出陣しました。その戦功により500石の禄を与えられました。
天下分け目の戦いといわれた関が原の合戦には、東軍として戦った生駒一正に従い戦功を立てました。
その後、生駒氏が讃岐から出羽国矢島(今の秋田県由利本荘市)に移された後は、土地の豪農として、香南地域で大きな勢力を保ち、明治時代を迎えています。
由佐家の居宅とした屋敷内には、内堀、土塁跡を見ることができました。
高松市香南歴史民族郷土館(模擬天守)は、その由佐城跡に建築されたものであり、庭園内には、現在も土塁跡が残されています。
郷土館の風貌は、現存する最古の天守閣を持つ福井県の丸岡城をモデルに建てられており、館内には歴史展示室・民俗展示室・図書室を備え地域の歴史を知ることができ、本格的なお茶室の拵えのある研修室もあります。
(現地説明板などより)
由佐城 - 01
由佐城 - 01 posted by (C)pismo

由佐城 - 02
由佐城 - 02 posted by (C)pismo

由佐城 -03
由佐城 -03 posted by (C)pismo

築城城は、戦国時代の飯田郷3城の一つで下飯田城ともいいました。当時は土塀囲いの屋敷で、小学校の北側に南門、農協支所の北側に北門がありました。
城主は築城氏で、長く勝賀城主香西氏に仕え、3代目城主清左衛門は天正10(1582)年、土佐の長宗我部氏の軍と是竹の伊勢神宮の馬場で戦いました。
その3年後に豊臣秀吉による四国征伐で香西氏は滅亡し、戦国時代も終わりました。
天正15(1587)年、讃岐の大名として赤穂から入部した生駒親正に清左衛門は200石で召し抱えられました。
現在住宅街となり全く城の遺構を残す物は残っていません。
(現地説明板などより)
築城城
築城城 posted by (C)pismo

甲山寺は、山号は医王山、真言宗善通寺派の寺院です。四国八十八箇所霊場の第七十四番札所です。
周辺は弘法大師の故郷で、幼少時代によく遊んだといわれる場所で壮年期になった弘法大師は善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探し時甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言いました。弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養しました。
その後、嵯峨天皇の勅命を受けてこの地にある「満濃池」の修築を監督する別当に任命されると、甲山の岩窟で修復工事の完成を祈願し、薬師如来像を刻んで修法しました。すると大師を慕って数万人の人々が集まり、満濃池はわずか三ヶ月で完成しました。朝廷からこの功績を称えられ、金二万銭を与えられた弘法大師は、その一部を寺の建立にあて、先に祈願をこめて刻んだ薬師如来を本尊とし、安置。山の形が毘沙門天の鎧、兜の形に似ていることから「甲山寺」と名づけられました。
甲山寺 - 01
甲山寺 - 01 posted by (C)pismo

甲山寺 - 02
甲山寺 - 02 posted by (C)pismo

甲山寺 - 02
甲山寺 - 02 posted by (C)pismo

甲山寺 - 04
甲山寺 - 04 posted by (C)pismo
甲山城(こうやまじょう)は、四国八十八箇所の第七十四番札所の甲山寺の南にある甲山に築かれた城です。
香川氏の居城、天霧城の出城だったと思われます。
築城年代は不明ですが、朝比奈弥太郎によって築かれたといわれています。永禄元(1558)年、三好実休は讃岐に侵攻し、香川氏を攻めました。
このとき、香川氏家中の中でも豪の勇士といわれた朝比奈弥太郎は、甲山城南麓において寄せ手の軍勢およそ190人を討ち取りましたが、最後は力尽き討死したといわれています。城跡は甲山寺より登ることができます。
甲山城 - 01
甲山城 - 01 posted by (C)pismo

甲山城 - 02
甲山城 - 02 posted by (C)pismo

甲山城 - 03
甲山城 - 03 posted by (C)pismo
Posted at 2015/12/26 20:33:05 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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