この日は、友人たちと岡山県の史跡めぐりを行いました。
高松城水攻め史跡公園・蛙が鼻築堤跡〔水攻築堤跡〕です。
天正10(1582)年、羽柴秀吉は、軍師黒田宮兵衛の策を採用して備中高松城を攻めましたが、城は典型的な沼城で地の利を生かしてその守りの固いことから、地の利を逆用して水攻めに転じました。
城地の南画約700mの山根(蛙ケ鼻)から、西北西約1.500mの足守川上流まで約3kmの堤防を、堤は、奉行の千原九右衛門勝則の設計によって、わずか12日間で築いたと伝えられています
堤防の内側は約200haの人造湖となり、外側には部隊を布陣させ、城を逆封鎖してしまいました。江戸時代の地誌類では、基底部幅24m、高さ8m、上幅12mの大堰堤と記録されています。近年の一部発掘調査によって基底部幅約22~24m(12~13間)ということが確認され、築堤に際して士留めなどに使われたと思われる木杭や、土俵・むしろ等が確認されました。
築堤は、明治36(1903)年の鉄道工事の際に、築堤の土砂の大半が持ち出されてしまったため、現在ではほとんどが取りのぞかれましたが、この蛙が鼻と足守駅下手に遺存する東西の両端が、往時の様相を伝えています。
史跡の保存、活用のため公園として整備され、発掘された杭列や土俵の痕跡等の基礎地業の状態を、公園内に複製により展示しています。
昭和4(1929)年、国の史跡に指定されています。
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備中高松城は、築城時期は不明ですが、三村氏の家臣石川氏が築城した城です。
三村氏滅亡後は、清水宗治が城主となりました。
天正10(1582)年、羽柴秀吉により高松城の攻略戦が始まりました。毛利氏も救援に赴き、攻城戦は持久戦となったため、5月になり、黒田官兵衛の献策もあり、水攻めが開始されました。城は水没しましたが、6月2日に本能寺の変が起こったため、秀吉はその事実を秘匿し、毛利氏と和睦を結びました。6月4日、城兵の命と引き替えに清水宗治は切腹しました。
その後、宇喜多氏の家老花房氏が入城しました。花房氏は内紛により関ヶ原の戦いの前に宇喜多氏から離れ東軍についたため、戦後は旗本になり、高松城に陣屋を構えました。その後、備中国阿曽に陣屋を構えたため、高松城は廃城となりました。
現在は城址公園となっています。
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ごうやぶ遺跡は、高松城三の丸総門のわきにあります。
羽柴秀吉の高松城水攻めにより天正10(1582)年6月4日に高松城主清水宗治が切腹するため船出しましたが、その船を追って、宗治の僕七郎二郎と月清の馬の口取與十郎が「一足先に三途の川でお待ち申します」とお互いに刺し違えて殉死したところといわれています。
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清水宗治公自刃之址です。
高松城主清水宗治は天正10(1582)年6月4日にこの地で切腹しました。
辞世の句は「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」
昭和38(1963)年5月8日、この地に供養塔が建立されました。
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Posted at 2012/11/16 20:45:08 | |
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