• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ピズモのブログ一覧

2011年02月21日 イイね!

伝統的建造物群保存地区が残る湯浅町

次は湯浅町を訪れました。

湯浅城は、康治2(1143)年、湯浅宗重がそれまでの本城であった広保山城を廃して、青木山に湯浅党の本城を築城したのが湯浅城です。
湯浅氏は、南北朝時代には楠木氏や畠山氏と共に南朝方でした。
康暦元(1379)年、北朝方の山名義理は、和泉土丸城を攻略した勢いで紀伊国に侵入し、この湯浅城も山名勢に攻められ落城しました。
その後、楠木氏の残党が、後村上天皇の孫義有王を奉じて湯浅城に入城しました。
文安4、(1447)年、紀伊守護畠山氏は湯浅城を三度攻めてようやく落城させました。
城跡は国民宿舎湯浅城南側の山です。すごい藪のようで、登城は断念しました。国民宿舎湯浅城は、もちろん・・・お城ではありませんが近世城郭風に造ってあり、城址碑もあります。
湯浅城 - 1
湯浅城 - 1 posted by (C)pismo

湯浅城 - 2
湯浅城 - 2 posted by (C)pismo

湯浅城 - 3
湯浅城 - 3 posted by (C)pismo

太田久助吟製は、湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区にあります。
江戸時代後期の建物で、元は醤油醸造家でしたが、現在は金山寺味噌の製造を行っています。
a href="http://photozou.jp/photo/show/219075/89433063">太田久助吟製 - 1
太田久助吟製 - 1 posted by (C)pismo

太田久助吟製 - 2
太田久助吟製 - 2 posted by (C)pismo

太田久助吟製 - 3
太田久助吟製 - 3 posted by (C)pismo

角長は天保12(1841)年創業の醤油店です。
重要伝統的建造物群保存地区の一角にあります。
慶応2(1866)年に職人蔵が建てられ、現在は町指定文化財である醤油醸造用具が展示されています。
現在も湯浅たまりという製造法を継承しています。
<角長 - 1
角長 - 1 posted by (C)pismo

角長 - 2
角長 - 2 posted by (C)pismo

北恵比須神社は、現在は周囲の埋め立てにより町中になっていますが、元来は浜に面していて、鳥居、石灯籠、門、本殿が海に向かって一直線に並んでいます。
寛文元(1661)年、新屋敷が開かれた際、漁民により勧請されたといわれています。
本殿は覆屋に納められており、一間社隅木入春日造、流し板葺で、門は簡素な薬医門です。
細部の衣装から19世紀のものと見られ、石灯籠が文政6(1823)年の寄進であることから、その頃の建立と考えられています。
恵比須神社 - 1
恵比須神社 - 1 posted by (C)pismo

恵比須神社 - 2
恵比須神社 - 2 posted by (C)pismo

大仙堀は、湯浅湾に注ぐ山田川(北川)河口に設けられた内港で、築造されたのは江戸時代と考えられます。
「しょうゆ堀」とも呼ばれ、醤油やその原材料の積み下ろしで賑わいを見せていました。
大正4(1915)年、湯浅に有田鉄道が開通すると港湾の積荷を鉄道で運ぶようになり、貨物専用の「海岸駅」の線路が大仙堀の埠頭の端まで架けられていました。
昭和19(1944)年に線路が撤去され、東側の船泊場が埋めたてられ、昭和30〜40年代には鉄道跡が道路となり、浜も埋め立てられてしまいました。
しかし、今も石積みの堀に醤油蔵の建物が建ち並んでおり、独特な景観を形成されています。
大仙堀 - 1
大仙堀 - 1 posted by (C)pismo

大仙堀 - 2
大仙堀 - 2 posted by (C)pismo

大仙堀 - 3
大仙堀 - 3 posted by (C)pismo

大仙堀 - 4
大仙堀 - 4 posted by (C)pismo

文平の像です。
江戸時代前期の豪商、紀伊国屋文左衛門(紀文)は、寛文9(1669)年の頃、湯浅町別所で生まれたと推定されており、幼名を文平と呼ばれました。
紀州で商人として修行を積み、江戸に出ると独創的な商才を発揮、紀州みかんの輸送や木材商として巨万の材を築きました。
その後、数多くの伝説を残して資産を整理、晩年は風流の道に入り悠々自適の生活を送りました。
この像は荒海にみかん船をこぎ出そうとする文平の勇姿を表現しています。
文平の像 - 1
文平の像 - 1 posted by (C)pismo

文平の像 - 2
文平の像 - 2 posted by (C)pismo
Posted at 2011/07/18 18:48:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年02月21日 イイね!

弁慶の伝説が残る田辺

田辺城は慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後に紀伊国に入国した浅野幸長の執政、浅野左衛門佐氏重が慶長11(1606)年に会津川左岸河口に、湊城を築城し、町割りを行ったのが始まりです。
元和5(1619)年、徳川頼宣が紀州藩主になり、付家老の安藤帯刀直次が湊城を改築して田辺城を築城しました。直次は紀州藩の重臣として和歌山城下に常駐していたため、田辺城には直次の従弟、安藤小兵衛を留守居役として置き、小兵衛家が代々城代家老を務めました。
明治3(1870)年、田辺城は廃城となり、遺構の多くは姿を消しました。
埋門型の水門とそれに続く石垣が当時の面影をとどめているのみです。
田辺城 - 1
田辺城 - 1 posted by (C)pismo

田辺城 - 2
田辺城 - 2 posted by (C)pismo

田辺城 - 3
田辺城 - 3 posted by (C)pismo

田辺城 - 4
田辺城 - 4 posted by (C)pismo

闘雞神社は、允恭天皇8(419)年、熊野権現(現在の熊野本宮大社)をこの地に勧請し、「田辺の宮」と称したのが始まりといわれています。
ついで白河法皇の御代に熊野三所権現を勧請し、久安3(1147)年には別当湛決が、新に天照皇大神以下十一神を勧請したことにより、「新熊野権現(いまくまのごんげん)」と称するようになりました。そして、
その子湛増が源平合戦の時紅白の鶏を戦わせ源氏に味方する事を決め、熊野水軍を率いて壇の浦へ出陣し、平氏を滅亡へと導いた、と言う故事により、「新熊野鶏合権現(いまくまのとりあわせごんげん)」、「新熊野闘鶏権現社」などと称されるようになりました。
「闘鶏神社」という現社名は明治期の神仏分離令に沿って改称しました。
境内には湛増と弁慶の銅像があります。二人の前では二羽の鶏が闘っています。
闘鶏神社 - 01
闘鶏神社 - 01 posted by (C)pismo

闘鶏神社 - 02
闘鶏神社 - 02 posted by (C)pismo

闘鶏神社 - 03
闘鶏神社 - 03 posted by (C)pismo

闘鶏神社 - 04
闘鶏神社 - 04 posted by (C)pismo

闘鶏神社 - 05
闘鶏神社 - 05 posted by (C)pismo

八坂神社の境内には、弁慶腰掛の石があります。
弁慶が少年時代この石に座ったと言われており、お尻の形の窪みができています。
八坂神社・弁慶腰掛の石 - 1
八坂神社・弁慶腰掛の石 - 1 posted by (C)pismo

八坂神社・弁慶腰掛の石 - 2
八坂神社・弁慶腰掛の石 - 2 posted by (C)pismo

八坂神社・弁慶腰掛の石 - 3
八坂神社・弁慶腰掛の石 - 3 posted by (C)pismo

弁慶松跡です。
文治5(1189)年、武蔵坊弁慶は奧州衣川で義経を守り壮烈な立ち往生を遂げました。
これを聞いた田辺の人々は湛増屋敷の一隅に松を植えてその生涯を偲びました。
初代弁慶松は天正年間、上野山築城にあたり用材に使われましたが、古蹟復旧を重んじた紀州藩士により復活され、五代にわたりこの地に植えつがれてきました。
熊野詣での帰り、人々は必ずこの松を訪れ、松の葉を記念に持ち帰ることが風習になっていたそうです。
昭和50(1975)年、人々に愛され、親しまれてきた弁慶松(五代目)は枯死し、また都市計画道路の開通によりその跡も消失しました。
六代目の弁慶松は田辺市役所に植えられ、この付近にあった弁慶産湯の井戸も復元されています。
弁慶松跡 - 1
弁慶松跡 - 1 posted by (C)pismo

次は湯浅町へ向かいます。
Posted at 2011/07/18 18:35:25 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年02月21日 イイね!

南部梅林

一度訪れたかった紀州の梅の名所・南部梅林を訪れました。
南部梅林は、「一目百万、香り十里」といわれる、日本有数の規模を誇る梅林です。
主に最高級品種南高梅が植えられています。
江戸時代、紀州藩の付家老安藤帯刀直次は、自生梅しか育たないやせ地を免税地にして年貢を軽減することにより、農民を助け梅栽培が広がりました。

上の方はまだあまり咲いていませんでしたが、山麓付近はほぼ満開。なかなか良いものを見せて貰いました。
南部梅林 - 001
南部梅林 - 001 posted by (C)pismo

南部梅林 - 002
南部梅林 - 002 posted by (C)pismo

南部梅林 - 003
南部梅林 - 003 posted by (C)pismo

南部梅林 - 004
南部梅林 - 004 posted by (C)pismo

南部梅林 - 005
南部梅林 - 005 posted by (C)pismo

南部梅林 - 006
南部梅林 - 006 posted by (C)pismo

南部梅林 - 007
南部梅林 - 007 posted by (C)pismo

南部梅林 - 008
南部梅林 - 008 posted by (C)pismo

南部梅林 - 009
南部梅林 - 009 posted by (C)pismo

南部梅林 - 010
南部梅林 - 010 posted by (C)pismo

南部梅林 - 011
南部梅林 - 011 posted by (C)pismo

南部梅林 - 012
南部梅林 - 012 posted by (C)pismo

南部梅林 - 013
南部梅林 - 013 posted by (C)pismo

南部梅林 - 014
南部梅林 - 014 posted by (C)pismo

南部梅林 - 015
南部梅林 - 015 posted by (C)pismo

南部梅林 - 016
南部梅林 - 016 posted by (C)pismo

南部梅林 - 017
南部梅林 - 017 posted by (C)pismo

南部梅林 - 018
南部梅林 - 018 posted by (C)pismo

南部梅林 - 019
南部梅林 - 019 posted by (C)pismo

南部梅林 - 020
南部梅林 - 020 posted by (C)pismo

南部梅林 - 021
南部梅林 - 021 posted by (C)pismo

南部梅林 - 022
南部梅林 - 022 posted by (C)pismo

南部梅林 - 023
南部梅林 - 023 posted by (C)pismo

道の駅みなべうめ振興館は、みなべ町の国道424号沿いにある道の駅です。
南部川村と南部町が合併する前は、道の駅南部川うめ振興館という名前でした。
博物館うめ振興館があります。
1階は歴史民俗の資料展示で、旧南部川村の歴史資料について展示されています。平須賀城などの資料も展示されています。
2階は梅の歴史などの資料が展示されています。
いずれも入館料は無料です。
3階は道の駅で、梅干しや梅酒など梅にちなんだお土産を購入できます。
道の駅みなべうめ振興館 - 1
道の駅みなべうめ振興館 - 1 posted by (C)pismo

次は田辺市を訪れます。
Posted at 2011/03/07 21:57:00 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年02月11日 イイね!

日本三景・天橋立

日本三景・天橋立へやってきました。

智恩寺は、山号は天橋山(てんきょうざん)または五台山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
「智恵の文殊」と呼ばれ、「切戸の文殊」「九世戸の文殊」と呼ばれて古くから信仰の厚いところでした。
開創は延喜年間といわれています。
安部文殊院(奈良県桜井市)、亀岡文殊堂(山形県高畠町)とともに日本三文殊のひとつとされています。
智恩寺 - 01
智恩寺 - 01 posted by (C)pismo

智恩寺 - 02
智恩寺 - 02 posted by (C)pismo

智恩寺 - 03
智恩寺 - 03 posted by (C)pismo

智恩寺 - 04
智恩寺 - 04 posted by (C)pismo

ここから、天橋立を歩きます。
全長3.6km、幅20~170mの砂嘴でできた砂浜には、大小8,000本もの黒松が生い茂っており、日本の名松百選にも選ばれています。
「神の代に 神の通いし 道なれや 雲井に続く 天橋立」「大江山 いくのの道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立」 など多くの和歌などに詠まれています。

天橋立 - 01
天橋立 - 01 posted by (C)pismo

天橋立 - 02
天橋立 - 02 posted by (C)pismo

天橋立 - 03
天橋立 - 03 posted by (C)pismo

天橋立 - 04
天橋立 - 04 posted by (C)pismo

天橋立 - 05
天橋立 - 05 posted by (C)pismo

天橋立 - 06
天橋立 - 06 posted by (C)pismo

天橋立 - 07
天橋立 - 07 posted by (C)pismo

岩見重太郞仇討ちの場です。岩見重太郎は、講談などで有名な伝説上の剣豪で、江戸時代の初め頃に活躍したといわれています。伝説では大坂の陣で有名な薄田兼相と同一人物とされています。
重太郞は、父の仇の広瀬軍蔵・鳴尾権蔵・大川八左衛門を追って宮津にやってきましたが、仇の三人は藩主京極家にかくまわれていました。
やがて藩主の許可を得て、ここ天橋立の濃松の地で、三人を討ち取り本懐を遂げたといわれています。
また重太郎には、毎夜、天橋立で通行人を襲っていた元伊勢籠神社の狛犬の足首を切りその通行を止めたという伝説も残されています。
ロータリクラブが建てた石碑と、少し南側に離れたところに「岩見重太郞試し切りの石」が残されています。
岩見重太郞仇討ちの場・岩見重太郞試し切りの石 - 1
岩見重太郞仇討ちの場・岩見重太郞試し切りの石 - 1 posted by (C)pismo

岩見重太郞仇討ちの場・岩見重太郞試し切りの石 - 2
岩見重太郞仇討ちの場・岩見重太郞試し切りの石 - 2 posted by (C)pismo
天橋立神社の所在する場所は天橋立の濃松(あつまつ)と呼ぶ地点に当たります。
近くに真水がわくことからも磯清水と呼ばれる井戸があり、磯清水神社とも言われて来ました。
当社の祭神は、明治時代の地誌類では、かつて本殿の左右に祠があり、本殿の祭神を豊受大神、向って左は大川大明神、右は八大龍王(海神)です。
当社は智恩寺境内にあったものを天橋立内のこの地に移したという説がある。確かに江戸時代前期の天橋立図屏風には、当地に社殿風の建物が描かれるとともに智恩寺境内に鳥居が描かれていて社殿が存在します。
一方、南北朝期の「慕帰絵詞(ぼさえことば)」に描かれた天橋立の図や雪舟筆「天橋立図」には、すでに当地に社殿が描かれており、江戸時代中期の「与謝之大絵図」〔享保9(1724)年〕や「丹後国天橋立之図」〔享保11(1726)年〕には当地に「橋立明神」の文字も記されているため、中世半ば以降は当地に鎮座すると考えられています。
いずれにしても、天橋立は江戸時代には智恩寺の境内地(寺領)であり、天橋立神社も智恩寺に属する神社でした。
現在の社殿は明治45(1907)年の再建です。
当社の参道は社殿から南西方向に進み、阿蘇海に達する地点に石造の鳥居が立っています。
鳥居の石材は花崗岩で形態は明神型、『吉津村誌』によると慶安4(1651)年の造立、願主は智恩寺住持南宗ほかの銘が記されているが、鳥居表面の風化が著しく、現在これを読む事はできません。
(説明看板より)
天橋立神社 - 1
天橋立神社 - 1 posted by (C)pismo

磯清水は、四面海水の中にありながら、少しも塩味を含んでいないところから、古来不思議な名水として喧伝されています。
その昔、和泉式部も
「橋立の松の下なる磯清水
      都なりせば君も汲ままし」
と詠ったことが伝えられており、俳句にも「一口は げに千金の磯清水」などともあることから、橋立に遊ぶ人びとには永く珍重きれてきたことが明らかです。
延宝6(1678)年、時の宮津城主永井尚長は、弘文院学士林春斎の撰文を得たので、ここに「磯清水記」を刻んで建碑しました。
この刻文には
「丹後国天橋立之磯辺有井池清水涌出、蓋有海中而別有一脈之源乎、古来以為勝区呼曰磯清水、云々」とあります。
湧き出る清水は今も絶えることなく、橋立を訪れる多くの人々に親しまれ、昭和60(1985)年には環境庁認定「名水百選」の一つとして、認定を受けています。(説明看板より)

磯清水 - 1
磯清水 - 1 posted by (C)pismo

磯清水 - 2
磯清水 - 2 posted by (C)pismo

磯清水 - 3
磯清水 - 3 posted by (C)pismo

更に天橋立を進みます。美しい松林ですが、中には台風などで倒れてしまった松もあります。

天橋立 - 08
天橋立 - 08 posted by (C)pismo

天橋立 - 09
天橋立 - 09 posted by (C)pismo

天橋立 - 10
天橋立 - 10 posted by (C)pismo

天橋立 - 11
天橋立 - 11 posted by (C)pismo

天橋立 - 12
天橋立 - 12 posted by (C)pismo

天橋立の奥にある籠神社です。
籠神社は元伊勢籠神社ともいわれる神社です。
神代の昔から真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていました
崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑からお移りになり、これを与佐宮といい、豊受大神と共に4年間お祀りしました。
垂仁天皇の時代に天照大神は伊勢へ移り、雄略天皇の時代に豊受大神も伊勢神宮へ移りました。それによって、当社を「元伊勢」といわれています。
養老3(719年)年、真名井原から現在地に遷座して主祭神を彦火明命とし、豊受・天照両神を相殿に祀り、社名を籠宮に改めました。
真名井原の元の鎮座地は摂社・奥宮真名井神社とされ、後に海神・天水分神が配祀されました。
元伊勢の社、丹後国一宮として崇敬を集めました。

天橋立 - 13
天橋立 - 13 posted by (C)pismo

籠神社 - 01
籠神社 - 01 posted by (C)pismo

籠神社 - 02
籠神社 - 02 posted by (C)pismo

籠神社 - 03
籠神社 - 03 posted by (C)pismo

籠神社 - 04
籠神社 - 04 posted by (C)pismo

籠神社 - 05
籠神社 - 05 posted by (C)pismo

天橋立の次に、本能寺の変の後細川ガラシャが隠棲した味土野を訪れました。
ここは豪雪地帯で、残念ながら隠棲地跡まで50m近くまで迫りましたがあまりの雪深さに到達を断念しました。

細川ガラシャ隠棲地 - 1
細川ガラシャ隠棲地 - 1 posted by (C)pismo

細川ガラシャ隠棲地 - 2
細川ガラシャ隠棲地 - 2 posted by (C)pismo

細川ガラシャ隠棲地 - 3
細川ガラシャ隠棲地 - 3 posted by (C)pismo

また、温かくなってからでも訪れたいと思います!!
Posted at 2011/03/07 21:06:32 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年02月11日 イイね!

宮津市の史跡

次は宮津市です。
宮津城は、天正8(1580)年に細川藤孝(幽斎)・忠興が丹後11万石で入り、築城したと伝わります。
天正10(1582)年の本能寺の変の後に藤孝は田辺城に隠居し、宮津城は忠興が居城しました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは忠興は東軍に味方し、幽斎は宮津城を焼き、田辺城に籠城しました。
戦いの後、細川氏は豊前39万石に転封、京極高知が丹後12万3千石で入り、最初は田辺城を居城としましたが宮津城を改修して移りました。
その後、丹後を宮津、田辺、峰山に三分割し、宮津藩は京極高広が継ぎ、さらに改修しました。
しかし、2代藩主高国の時に改易され、以後、永井氏・阿部氏・奥平氏・青山氏と城主が代わり、宝暦8(1758)年に浜松から本庄松平氏の松平資昌が7万7千石で入封し、7代続き、明治維新まで続きました。
現在、市街地化により城の遺構は消滅し、二之丸の石垣が国道176号沿いに展示されています。
現存する建物としては、宮津小学校に馬場先御門の太鼓門を残しています。 そして平成16(2004)年の台風23号による大手川の河川改修をきっかけに城壁復元に取り組み、平成22(2010)年に完成しました。併せて宮津城の太鼓門も宮津小学校裏門から正門に移築されています。
宮津城・太鼓門
宮津城・太鼓門 posted by (C)pismo

宮津城城壁 - 1
宮津城城壁 - 1 posted by (C)pismo

宮津城城壁 - 2
宮津城城壁 - 2 posted by (C)pismo

宮津城の石 - 1
宮津城の石 - 1 posted by (C)pismo

一色稲荷社〔一色義清自刃の処〕です。
丹後守護職一色氏は明徳3(1392)年正月に補任された満範をもって初代とし、その後若狭武田氏にその職を奪われたことはありましたが、7代義有のころまではその実名を明らかにすることができ
 近世後期の地誌である「丹哥府志」にいう「一色義清の墓」と、幕末期宮津城図に記載されている「一色稲荷」とは同じものと推察されていますが、その義清なる人物を確定する史料は残っていません。
「細川家記」その他近世軍記物によると天正10(1582)年9月8日、一色氏の当主で細川藤孝の娘むこが宮津細川家臣の屋敷で、細川忠興方の手で謀殺されるという大事件がありました。
細川方の記録類で米田屋敷、「丹州三家物語」で有吉屋敷とされていますが、何れにしても現一色稲荷か、その付近と思われる。
「丹哥府志」はその復讐戦に義清を登場させるが、細川方の記録類は一切そのことにふれていません。ちなみにその当主の名は義有、満信、義俊、義定さまざまに伝えられていますが、何れにしても、謀略に倒れた一色氏の怨霊に対するおそれが、長く城郭内のこの地に鎮魂の社を存続させたものと想像されます。(説明看板より)
一色稲荷社 - 2
一色稲荷社 - 2 posted by (C)pismo

一色稲荷社 - 3
一色稲荷社 - 3 posted by (C)pismo

智源寺は、山号は松渓山、曹洞宗の寺院です。
寛永2(1625)年、宮津城主京極高広が母堂惣寺院殿松渓智源大禅定尼追善のために建立した寺で、心庵盛悦善師を懇請して開山としました。
本堂は寛政9(1797)年の火災の後、文化元(1804)年に再建されました。
智源寺 - 1
智源寺 - 1 posted by (C)pismo

智源寺 - 2
智源寺 - 2 posted by (C)pismo

大久保山城は、宮津にある戦国末期の山城です。
城主は小倉播磨守ともいい、あるいは配下の野村将監ともいわれています。
小倉氏は丹後の守護一色氏の在地の上級被官で「奉行」の一人でした。
天正6(1578)年、織田信長が細川藤孝(幽斎)、明智光秀を派遣して丹後攻略を終えた頃、役割を終えました。細川忠興がこの城にいたことがあるともいわれ、ガラシャ夫人と本能寺の変を知ったのもこの城だったともいわれています。
かつて大久保山下には小倉氏の菩提寺盛林寺がありました。近世始めに上宮津谷に移されました。
城跡は桜山児童遊園地などになっており、天神社裏山から智源寺裏山にかけての尾根筋にあったと思われますが、幕末には島崎砲台築造の土取り場になり、明治期には本荘神社の境内地ともなり、さらに本丸跡には市の水道施設が造られました。
大久保山城 - 1
大久保山城 - 1 posted by (C)pismo

大久保山城 - 2
大久保山城 - 2 posted by (C)pismo

大久保山城 - 3
大久保山城 - 3 posted by (C)pismo

大久保山城 - 4
大久保山城 - 4 posted by (C)pismo

大久保山城 - 5
大久保山城 - 5 posted by (C)pismo

大久保山城 - 6
大久保山城 - 6 posted by (C)pismo

本荘(松平)宗秀、宗武の墓は、本荘氏六代宗秀、七代宗武の墓地です。桜山天満宮の境内にあります。
松は枯れてしまいましたが、二基の墓標と、旧城内二の丸から移した石橋が残っています。
宗秀は天保11(1840)年、宗発から家督を継ぎ、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中等幕府要職を歴任しました。慶応2(1866)年、長州再征に副総督として広島へ出張しましたが、捕虜の長州藩家老宍戸備後介らを独断釈放した事件を巡って幕府の嫌疑を受け、副総督、老中を罷免され家督を宗武へ譲りました。宗秀の時代は異国船渡来騒ぎの中で、宮津藩も海岸防備、お台場築造等慌ただしい時代でした。晩年は文芸書画を好み、伊勢神宮大宮司になりました。明治6(1873)年、65歳で亡くなりました。
宗武は家督を継いで間もなく慶応4(1868)年戊辰戦争を迎えました。山城八幡の警備に当たっていた宮津藩士の中から官軍発砲事件を起こし、宗秀、宗武父子は朝敵の嫌疑を受け入京を差し止められました。
ところがあたかも山陰鎮撫使西園寺公望一行の宮津到着の機会に、随行の長州藩士らの陳情もあり、嫌疑は解かれ入京も許されることになりました。
明治2(1869)年版籍奉還して宮津藩知事となりました。明治4(1871)年廃藩置県で暫く宮津県知事、明治6(1873)年北海道農園開拓に従事しましたが、同年宗秀の死去の後宮津へ帰って籠神社宮司になりました。
天橋義塾の創設維持にも関係し、文芸を好みました。明治26(1893)年、48歳で死去しました。

本庄宗秀、宗武の墓 - 1
本庄宗秀、宗武の墓 - 1 posted by (C)pismo

本庄宗秀、宗武の墓 - 2
本庄宗秀、宗武の墓 - 2 posted by (C)pismo

本庄宗秀、宗武の墓 - 3
本庄宗秀、宗武の墓 - 3 posted by (C)pismo
Posted at 2011/03/03 21:49:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

プロフィール

「[整備] #PCX バッテリー交換(3回目) https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1646340/7327912/note.aspx
何シテル?   04/30 18:24
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2011/2 >>

   1234 5
678910 1112
13141516171819
20 212223242526
2728     

リンク・クリップ

沖縄県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/26 23:05:24
 
鹿児島県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/22 08:03:34
 
JAFステッカー 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2020/04/21 06:50:32

愛車一覧

スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation