次は宮津市です。
宮津城は、天正8(1580)年に細川藤孝(幽斎)・忠興が丹後11万石で入り、築城したと伝わります。
天正10(1582)年の本能寺の変の後に藤孝は田辺城に隠居し、宮津城は忠興が居城しました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは忠興は東軍に味方し、幽斎は宮津城を焼き、田辺城に籠城しました。
戦いの後、細川氏は豊前39万石に転封、京極高知が丹後12万3千石で入り、最初は田辺城を居城としましたが宮津城を改修して移りました。
その後、丹後を宮津、田辺、峰山に三分割し、宮津藩は京極高広が継ぎ、さらに改修しました。
しかし、2代藩主高国の時に改易され、以後、永井氏・阿部氏・奥平氏・青山氏と城主が代わり、宝暦8(1758)年に浜松から本庄松平氏の松平資昌が7万7千石で入封し、7代続き、明治維新まで続きました。
現在、市街地化により城の遺構は消滅し、二之丸の石垣が国道176号沿いに展示されています。
現存する建物としては、宮津小学校に馬場先御門の太鼓門を残しています。 そして平成16(2004)年の台風23号による大手川の河川改修をきっかけに城壁復元に取り組み、平成22(2010)年に完成しました。併せて宮津城の太鼓門も宮津小学校裏門から正門に移築されています。
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宮津城城壁 - 1 posted by
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宮津城の石 - 1 posted by
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一色稲荷社〔一色義清自刃の処〕です。
丹後守護職一色氏は明徳3(1392)年正月に補任された満範をもって初代とし、その後若狭武田氏にその職を奪われたことはありましたが、7代義有のころまではその実名を明らかにすることができ
近世後期の地誌である「丹哥府志」にいう「一色義清の墓」と、幕末期宮津城図に記載されている「一色稲荷」とは同じものと推察されていますが、その義清なる人物を確定する史料は残っていません。
「細川家記」その他近世軍記物によると天正10(1582)年9月8日、一色氏の当主で細川藤孝の娘むこが宮津細川家臣の屋敷で、細川忠興方の手で謀殺されるという大事件がありました。
細川方の記録類で米田屋敷、「丹州三家物語」で有吉屋敷とされていますが、何れにしても現一色稲荷か、その付近と思われる。
「丹哥府志」はその復讐戦に義清を登場させるが、細川方の記録類は一切そのことにふれていません。ちなみにその当主の名は義有、満信、義俊、義定さまざまに伝えられていますが、何れにしても、謀略に倒れた一色氏の怨霊に対するおそれが、長く城郭内のこの地に鎮魂の社を存続させたものと想像されます。(説明看板より)
一色稲荷社 - 2 posted by
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智源寺は、山号は松渓山、曹洞宗の寺院です。
寛永2(1625)年、宮津城主京極高広が母堂惣寺院殿松渓智源大禅定尼追善のために建立した寺で、心庵盛悦善師を懇請して開山としました。
本堂は寛政9(1797)年の火災の後、文化元(1804)年に再建されました。
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大久保山城は、宮津にある戦国末期の山城です。
城主は小倉播磨守ともいい、あるいは配下の野村将監ともいわれています。
小倉氏は丹後の守護一色氏の在地の上級被官で「奉行」の一人でした。
天正6(1578)年、織田信長が細川藤孝(幽斎)、明智光秀を派遣して丹後攻略を終えた頃、役割を終えました。細川忠興がこの城にいたことがあるともいわれ、ガラシャ夫人と本能寺の変を知ったのもこの城だったともいわれています。
かつて大久保山下には小倉氏の菩提寺盛林寺がありました。近世始めに上宮津谷に移されました。
城跡は桜山児童遊園地などになっており、天神社裏山から智源寺裏山にかけての尾根筋にあったと思われますが、幕末には島崎砲台築造の土取り場になり、明治期には本荘神社の境内地ともなり、さらに本丸跡には市の水道施設が造られました。
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本荘(松平)宗秀、宗武の墓は、本荘氏六代宗秀、七代宗武の墓地です。桜山天満宮の境内にあります。
松は枯れてしまいましたが、二基の墓標と、旧城内二の丸から移した石橋が残っています。
宗秀は天保11(1840)年、宗発から家督を継ぎ、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中等幕府要職を歴任しました。慶応2(1866)年、長州再征に副総督として広島へ出張しましたが、捕虜の長州藩家老宍戸備後介らを独断釈放した事件を巡って幕府の嫌疑を受け、副総督、老中を罷免され家督を宗武へ譲りました。宗秀の時代は異国船渡来騒ぎの中で、宮津藩も海岸防備、お台場築造等慌ただしい時代でした。晩年は文芸書画を好み、伊勢神宮大宮司になりました。明治6(1873)年、65歳で亡くなりました。
宗武は家督を継いで間もなく慶応4(1868)年戊辰戦争を迎えました。山城八幡の警備に当たっていた宮津藩士の中から官軍発砲事件を起こし、宗秀、宗武父子は朝敵の嫌疑を受け入京を差し止められました。
ところがあたかも山陰鎮撫使西園寺公望一行の宮津到着の機会に、随行の長州藩士らの陳情もあり、嫌疑は解かれ入京も許されることになりました。
明治2(1869)年版籍奉還して宮津藩知事となりました。明治4(1871)年廃藩置県で暫く宮津県知事、明治6(1873)年北海道農園開拓に従事しましたが、同年宗秀の死去の後宮津へ帰って籠神社宮司になりました。
天橋義塾の創設維持にも関係し、文芸を好みました。明治26(1893)年、48歳で死去しました。
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Posted at 2011/03/03 21:49:33 | |
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