拝殿は黒田官兵衛に三木合戦の戦勝祈願のために奉納させた奉納金で改築され兵庫県指定文化財になっている兵
2014年03月12日
兵主神社(ひょうすじんじゃ)の創立は、社伝によると、延暦3(784)年6月14日、時の播磨椽(はりまのじょう)岡本修理太夫藤原知恒の創始になるといわれています。主祭神は大己貴命(おおむなちのみこと)です。
建物は、長床式の平面で、支外桁で軒を支えています。建物の囲りは一部(西北隅室)を除き開放吹放ちで、内部は正面中央部三間を広間床とし、両脇間境を円柱々列とした特異な意匠になっています。天正19(1591)年8月27日造立の棟札があり、桃山時代における長床式拝殿として、また、その時代の茅葺入母屋(かやぶきいりもや)造りの様式を伝える建築として、全国的にも稀に見る遺構です。
この拝殿は、羽柴秀吉が、黒田官兵衛に三木合戦の戦勝祈願のために奉納させた奉納金で改築されたと伝えられています。
織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、中国征伐に向けてこの地に来て、播磨一の勢力を誇る三木城主の別所長治を攻めますが、容易に落とすことができず、その工房は2年近くに及びました。
当地の土豪で、福地蟲生城の村上政治は、尼子勢の襲撃に敗れ戦死しますが、その遺児村上直行は再起を図ろうと秀吉軍に参戦し、当地を兵站地として協力をしました。
兵主神社の祭神は大己貴命ですが、兵主は中国「史記」に出てくる軍神、武神であることから秀吉は黒田官兵衛に代参させ奉納金と共に灯明田七反を添えて戦勝祈願を行ったと伝えられています。
奉納金は拝殿の建設に充てられ地元材を調達、山出し、乾燥刻みを行い天正19(1591)年8月に柱立、安土桃山時代の建築様式を残す貴重な建築と評価されています。
当時、官兵衛は46歳、すでに隠居をしており、如水と名乗っておりましたが、秀吉は官兵衛の隠居を許さず、朝鮮出兵の拠点城となる肥後国名護屋城(現在の唐津市)の縄張りの指揮を取ります。
拝殿は昭和52(1977)年3月29日、兵庫県の指定文化財となっています。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第6話「信長の賭け」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
(現地説明板より)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H26.3.4
住所: 兵庫県西脇市黒田庄町岡372−2